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「——ハンジ!」


間一髪だった。
ミカサの身体を抑え込んだ者の名を呼んだのはリヴァイ。フロックは体勢を立て直し、その場に固まった。
ようやく現場にたどり着いて全てを視界に入れた四人はしかし、そこにある光景に衝撃を受けることとなる。


「オイ…嘘だろ…」


横たわり動かない人物は全部で三人。四肢をもがれ気を失っているベルトルト。腹に巻かれた布を血で染め上げているエルヴィン。全身を真っ黒にした小柄な人体。…ここにいない人物を鑑みて、その真っ黒な人体がアルミンだとわかるのに少し時間を要した。一体彼に何が、なんて。考えても分からない、きっと己の想像の範疇にない壮絶な戦いを繰り広げたのだろうけれど、


「…何ってことだ…」


誰も何の説明もなくとも、視界にあるそれらのピースを繋ぐのは簡単だった。


——注射を打たれる者は重傷者が優先される

——この薬の使用権は、リヴァイ兵士長に託してある。くれぐれも承知して欲しい。注射薬はこの一本限りだ


…その重傷者が今、目の前に二人いる。どちらに打つかで揉めたのだ。
"私情"で考えれば、それは明白だった。リヴァイはエルヴィンに。エレンとミカサはアルミンに。…フロックがミカサと対峙していたということは、彼はリヴァイ側だったと推測される。

例えここにもう一体―先程の状態のライナーがいたとしても、無意味だ。注射器は一本限り。それを半量ずつ使う選択肢があったとしても、巨人化薬に関して無知な我々がそれを実行するリスクはまた対立の火種と化すだろう。


「うわぁぁあああ――!!!!」


リヴァイが手に持っていた箱から注射器を出して刹那。いまだハンジに捕らえられたままのミカサから、悲痛な声があがる。…彼女からそういった感情を聞くのは、これが初めてな気がした。


「っ、ミカサ!!私達にはまだエルヴィンが必要なんだ!!調査兵団はほぼ壊滅状態!!団長まで死んだとなれば人類は象徴を失う!!あの壁の中で希望のともし火を絶やしてはならないんだよ!!」

「それはアルミンにだってぇ…できる」

「確かにアルミンは逸材だ!だが我々の戦いはこれからもずっと続くんだ!!まだエルヴィンの経験と統率力が——くッ!!」


脇に両手を入れられて羽交い絞めにされているミカサは、思わずハンジの右手首をぐっと握った。ハンジの顔が苦痛に歪む。…ミカサの力は誰よりも強い。骨に罅が入ってもおかしくはない。
しかし、ハンジは怒りを表すことなく、優しくミカサを後ろから抱きしめ直した。


「私にも…生き返らせたい人がいる。何百人も…調査兵団に入った時から、別れの日々だ。でも…わかっているだろ?誰にだっていつかは別れる日が来るって」


その言葉に、誰もが顔を沈めた。
ルピの脳裏に過るトモダチ。お世話になった人達。この場で共に戦った兵達の姿。


「とてもじゃないけど受け入れられないよ。正気を保つことさえままならない…つらい…つらいよ。わかってる。…それでも、前に進まなきゃいけない…」


壁内人類ために命を捧げるために、調査兵団となった。だが、現実は想像より遥かに苛烈さをむき出しにしてきた。受け入れられなかった。正気を保つことさえままならなかった。辛かった。それでも前に進んできた。…皆、皆、そうして今を生き抜いている。分かっている。

分かっている。

話を大人しく聞いていたミカサの、ハンジの手首を強く握りしめていた手がだらりと落ちる。ミカサは目を虚ろにして涙を流し続けた。


「……兵長、」


…覚悟を決めたように注射器に瓶内の液体を入れようとしたリヴァイにかかった、か細い声。


「海って…知ってますか?」


足元に這いつくばってきたエレンに足首を握られ、その方へと視線を落とし、リヴァイは動作を止めた。


「いくら見渡しても、地平線の果てまで続く…巨大な湖のことです。しかもそのすべてが、塩水でできているって…アルミンが言うんです」

「オイ!!もうやめろよ!!」


フロックがリヴァイの足を握っていたエレンの手を払いのけ、後ろ手に押さえる。


「この壁の向こうにある海を…いつか見に行こうって…」


フロックに抱えられリヴァイから引き離されながらも、涙ながらに言葉を止めないエレン。


「でもそんな…ガキの頃の夢は、オレはとっくに忘れてて…母さんの仇とか…巨人を殺すこととか…何かを憎むことしか頭になくて…。でも、こいつは違うんです…アルミンは戦うだけじゃない、夢を見ている…!!」


地下室に行って秘密を知りたかったエルヴィン。壁の外にあるという海を見たかったアルミン。

ヒューヒュー、ゼーゼー。横たわる二人から聞こえる微かな生命の呼吸。

世界はどうしてこうも残酷なのだろう。全てが終わった後で、なぜ大切な人達の命の重さを量らなければいけないのだろう。
双方から視線が外せない。エルヴィン、アルミン。エルヴィン、アルミン。
ドクリ、ドクリと何も出来ない無力な自分の鼓動だけが煩いけれど。


「——全員ここから離れろ!!ここで確実にベルトルトをエルヴィンに食わせる!!」


…リヴァイはエレンの問いかけに何かを応えることなく、そう宣言した。

ハンジに抱えられて行くミカサ。サシャを背負ったまま涙するコニー。悔しそうな表情を浮かべるジャン。フロックに引き摺られながら、アルミンへと手を伸ばすエレン。


「あぁ…」


今いる屋根から数メートル先の屋根へと場所を移動し、全員で、全てを見守った。

ベルトルトを引っ張り、エルヴィンの元へ持っていくリヴァイ。エルヴィンの前でしゃがみ、注射を打った——と思った矢先。
リヴァイは立ち上がり、アルミンの方へと足を動かす。エルヴィンに変化はないが、…さっきまで下がっていた左手が、上がっていた。それはまるで、教師に質問する時に生徒が上げる手のように。しっかりと指先までが綺麗に上がっているように見えた。


「…………」


誰も、何も言葉を発さず、リヴァイの行動だけを見ていた。アルミンの前にしゃがんだリヴァイが数秒後にはエルヴィンの元に戻り、瞬間、辺りを光が包んだ。見慣れた光から現れた無垢の巨人は金髪。…その面影に、誰もが驚きを隠せなかった。

リヴァイが小脇に誰かを抱えて別の屋根へと飛び、咄嗟にその方へ動いたのは、ハンジ。ルピもコンマ遅れてその方へ向かった。


===


「——うああああああ!!!!」


バキ、バキ、と身近に聞こえる崩壊音に目を覚ましてしまったベルトルトの壮絶な第一声が不協和音と化した現場。…そのまま気を失っていた方が良かったのではと、敵ながら浮かぶ憐憫の情。


「み、みんなああああ助けてえええ——!!」


金髪の無垢の巨人の手の中にすっぽりとおさめられた、身長の半分にも満たない身体。手足もなく抵抗もできない。巨人化すら叶わず、ただありったけの出せるだけの声を出すベルトルト。


「あああああああアニ!!ライナー!!——っ」


彼に何のゆかりの無い者ならば。因果応報、自業自得、当然の帰結だと高らかに笑うだろうか。
頼れる仲間が巨人化し、かつて仲間だった者を食す場面を見て、同期の彼らは今何を思うのだろうか。


「……、」


一部始終を確認し終えたルピは、足元にまたと横たわるエルヴィンに視線を戻した。先程よりかは穏やかな顔をしているようにも見える。荒い息は、もう聞こえない。
…そこへ、フロックがやってきた。


「兵長…どうして…ですか?」


フロックの言いたいことは、分かる。ここで確実にベルトルトをエルヴィンに食わせると彼は宣言した。誰もが団長が生き返ると思ったし、その選択が正しいと思っていた。


「こいつを、許してやってくれないか。…こいつは悪魔になるしかなかった。それを望んだのは俺達だ。その上…一度は地獄から開放されたこいつを…再び地獄に呼び戻そうとした。…お前と同じだ」


だがもう、休ませてやらねえと。
…会話の内容は分からなかった。でも、リヴァイの言いたいことはなんとなくわかった。
何も捨てる事ができない人には、何も変えることができない。非情になれる者だけが、何かを変える事ができる。そうしてエルヴィンは団長として、皆を導いてきた。選択と峻別を重ね、仲間の屍の上に立ち続けてきた。
夢を諦めて死んでくれと頼んだ時に垣間見えたエルヴィンの最後の笑み。…あれは、全てから解放されたことへの感謝だったのかもしれない、なんて。


ドゥウウン_


ベルトルトを食べ終えた金髪の巨人—アルミンが倒れていく。その場に蒸気が上がり、104期達が一斉にそこへ駆け寄っていった。


「エルヴィン…獣を仕留める約束だが…まだ先になりそうだ」

「…もう死んだよ」


エルヴィンの瞼を指でこじ開けたハンジは、静かにそう言った。リヴァイは「そうか」と一言返しただけで、それから口を開かなかった。


「うわぁぁぁん――!!」


エレンやミカサの泣き声が上がる。きっとアルミンが"元の"アルミンに戻ったのだと思う。


「…………」


ヒュオオオオ_


風が、抜ける。
頬を撫ぜる風の存在を意識したのは、何時間ぶりだろう。ひんやりと冷たく感じるのは、…己の頬を流れるもののせいだろうか。




——エルヴィンさん、見ていますか


シガンシナ区の奪還に成功しました。


敵を殲滅することはできなかったけれど。


あなたが

調査兵団に歓迎してくれたから。
己の力を必要としてくれたから。
先頭に立って導いてくれたから。
いつも優しい笑みをくれたから。


私はいまもここに、自分の足で立つことができています。



ありがとう。たくさんのありがとうを、あなたに。




「……――」


見上げた空は、いつも見上げる空と変わらない。綺麗な青を広げていた。




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