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 初めて乗る車も、一定の速さで過ぎゆく景色も、何もかもが新鮮で愉快で、自分がこれから好きでもない男の元へ嫁ぐことなどどうでもよかった。

「正晴さん、あれはなんです?」
「あの変な形の建物は?」
「この匂いはなんでありんしょう」

 次から次へと目に映るものを、子供のように聞きまくる私に正晴さんは驚きつつも、あれは電車だよとか、あれはデパートメントだとか、逐一教えてくれた。
 しかし段々と、自分が世のことを何も知らないことに気づき、恥ずかしくなったので口を閉じた。嗚呼やはり自分は"普通"ではないのだと思い気が沈んだ。

§

 陽はとっくに姿を消し、夜空に星が散りばめられた頃、正晴さんの邸宅に到着した。

「おかしいな、誰もいない」

 つい先程まで車の揺れにつられて眠りこけていた私は、正晴さんが何を言っているのかよくわからず、ぼうっとしていた。

「いつもは使用人が数名控えているんだが……荷物が多いから、僕と運転手じゃ運びきれない。ちょっと呼んでくるから、君はここで待っていてくれ、すぐ戻るよ」

 そうして正晴さんが邸宅の敷地に消えてゆくのを、未だぼんやりした意識の中見送った。

§

 おかしい。あれから四半刻は経ったはずだ。正晴さんは帰ってこないし、辺りは妙に静かで、段々気味が悪くなってきた。しかも、文月といえども車内を通る隙間風は肌を冷やす。
 畳んで端に置いやっていた羽織を肩にかけた。

「ちょいと、見てきます」

 主人が戻ってこないことに痺れを切らしたのか、運転手はそそくさと車を降りて行った。一人きりになったことに、少し心細くなる。
 誰でもいいからはやく来てほしい──そう思った時。

「ウ"ワ"ァぁぁァア"ア"ア"!!!!!」

 悍しい叫び声が辺りに響いた。
 何事かと、叫び声がした方に目を凝らすと、運転手が必死の形相でこちらに戻ってくるのが見えた。

「運転手さん?! どうしなんした?!」
「こっちに来るなぁぁァ!! あんたも逃げろ!!」

 何がなんだか全くわからなかった。ドアにかけた手は震え、うまく掴めない。

 ──逃げろったって、どこに? 私はどうすればいいの? 何が起こってるの? 正晴さんは? 運転手は何から逃げているの?

 突然、運転手の体が血飛沫を上げばらばらに散らばった。

「へ……?」

 恐ろしい光景に、体が硬直した。

「な、に……ひっ!」

 さらに恐ろしい光景に、息の仕方もわからなくなった。
 形容し難い姿形の化け物が、運転手の残骸を拾い食いしている。グチャグチャと汚い音を立てながら、無心に食べている。
 目を逸らしたくても逸らせない。逸らした瞬間に私も喰われると思った。

「お"ぇっ……ぐ、うう……」

 底知れぬ恐怖に、胃から込み上げるものを勢いよく吐き出した。
 気づけば顔中、汗と涙と鼻水でぐちゃぐちゃに濡れていた。

 ──逃げなくては殺される!

 頭ではわかっていても、震える手は行き場がわからず情けなく宙を彷徨っているし、膝小僧が馬鹿みたいに踊っていて足は使い物にならない。せっかく、あそこから出ることが出来たのに……。

「なぁんだぁぁア"あ"? 良い匂いがするなぁぁア"?」

 喋った。化け物が喋った。終わりだ。見つかってしまった。気づかれてしまった。

 ──目が合ったら死ぬ……あぁ、私、死んでしまう……。

「見ぃつけたア"ア"! ヒィッヒヒヒヒャハア!! 旨そうだなぁ、旨そうだなア"!!」

 物凄い速さでこちらに飛んできた化け物は、正面から車にかぶりついてきた。その弾みで窓ガラスが飛び散り、ベコリと屋根が潰れた。

 化け物の長い腕がにょろりと私に向かって伸びてくる。

 プツン、と意識が途切れた。






2020/5/4

○大正コソコソ噂話
乗っていた車はトヨタのルノー タイプDJです。馬車の名残から運転席と客席が完全に分離されている車体構造が特徴。庶民にとっては馴染みの薄い高級車でした。






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