7
いつの間にか眠っていたらしい。最初に目を覚ました時は障子から白い光が射していたが、今は部屋中燃えるような橙色に染まっていた。
傍らに目を向けると、お盆の上に水が入ったガラス瓶とコップと、手拭いと、金平糖が置かれていた。
ガラス瓶の中身は記憶より増えている上、水滴が全くついていないので、あの佳人が寝ている間に来てくれたのだろう。
起き上がり、手拭いを拝借して寝汗を拭いた。喉がカラカラになっていたので、水も飲んだ。
濡れた唇を手の甲で拭っていると、襖がソソソと開かれた。
「あら、起きたのね」
佳人は私を見ると安心したように微笑んだ。
「気分はどう?」
「少し、楽になった気がしんす」
「そう……金平糖食べる?」
「あ……いただきます」
食べていいものかと遠慮していたが、正直お腹が空いていたし、甘い物に目が無いので嬉しかった。口の中に入れた途端広がる甘みに、思わず頬が緩んだ。
「美味しい?」
「ええ、とても……ありがとうござりんす」
「ふふ、笑うと可愛いわね」
佳人は穏やかな表情で言った。
顔を褒められるのには慣れているが、なんだか恥ずかしくなった。
「申し遅れましたが、私は産屋敷あまねと申します。ここの家主であり鬼殺隊の長である産屋敷耀也の妻です」
「あまね様……」
「そう呼んでくれて構わないわ。貴方のお名前は?」
「……ナマエと申しんす」
ナマエ。誰がつけたのかわからぬその名前。
遊郭では、禿から花魁になるまでの間に、階級ごとに名前が転々と変わる。その中で一番最初に呼ばれていたのが"すみれ"だ。特別気に入ってもいないが、私は本名を聞かれると必ずこの名を口にした。
「いい名前ね」
いい名前だと思ったことはないけれど、あまね様に言われると、そうかもしれないと思えた。
あまね様は私が苗字を言わないのを問い詰めてこなかった。
「すみれさん、あなたについていくつか質問したいのだけど……いいかしら」
すみれさんは少し居住まいを正すと、真剣な顔で言った。少し緊張が走る。
「答えたくなければいいのよ。無理しなくて大丈夫。ただ……勝手ながらも貴方の身を預かっている以上、ある程度の情報は知る必要があるの」
ごもっともだと思った。
どこの馬の骨ともわからぬ女に、こんなに手厚くしてくれている相手に対して、名乗るだけとは失礼極まりない。しかし、なんと言えばいいのか。
「……あまね様、わっちゃあ何もありんせん……」
あまね様はじっと私の話に耳を傾けた。
「親も家族も知りんせん。廓で生まれ育ち、根っからの女郎として生きて参りんした。人生を呪って生きてきて、やっと外の世界に出れたと思えば、嫁ぎ先の人間は鬼に殺されてしまいんした………お恥ずかしいことでありんすが、わっちには何も無いんす」
いつの間にか、あまね様は私をふわりと抱きしめてくださっていた。よしよしと、頭を柔らかく撫でてくださっていた。ぽた、と手の甲に雫が滴ってようやく、自分が泣いているのだと気付いた。
なぜ泣いているのかわからない。虚無だった。
「辛かったのね」
あまね様の凛とした声が、心の隙間に入り込んだ。溜まった泥が固まり乾燥し、ヒビが入ったそこに、恵の水のように染み渡ってゆく。
「ううっ、うっ」
「我慢しないで。泣いていいわ。落ち着くまでこうしていますよ」
鼻がツンとして、喉が苦しくて、自分の意思とは関係なく声が漏れて、いよいよダムが決壊した。
こんな風に顔をぐしゃぐしゃにして泣いたのはいつぶりだろう。泣いた時に誰かが側にいてくれたのは、泣くなと言われないのは……そんなこと今まであっただろうか。
私はあまね様に甘えて、恥を捨てて咽び泣いた。
2020/5/4
←→
LIST TOP