疑問に思ったことを、そのまま口に出す人は多いだろう。 聞けば何らかの答えがかえってくる。 それほど楽なことはないんだろうな、そういう人たちにとっては。 「ん?でもさ、なんで本部の宿舎にいかなかったの?そのほうが色々楽じゃん」 そう放った口が、米屋先輩のものじゃなかったら、いま目の前にいるのが米屋先輩と出水先輩ではなかったら、 俺はきっと「聞く前に自分の脳で考えて下さい」くらいは言ってしまっていたかもしれない。 ダメだな、名前のことになると途端に怒りの沸点が低くなる。これは名前の家の事情なのであり、俺がどうこう言える筋合いはない。 名前はなんでもかんでも身の上話を言いふらす人間でもなければ、「なんで?」と聞かれてまあいいかと答える人間でもない。 誰にでも聞かせる話ではないことを、彼らはわかっていない。 誰かの身の上に関するようなそういう疑問は想像の範疇にとどめておくべきだと、俺は強く思う。あくまでも俺が思うだけだが。 これは誰が悪いかという話ではなくて、 他人を考え、自分の気づきをひけらかさず心の中にしまってひとと付き合うことができる「おとな」か、 わからないから教えてもらおう、という無邪気な考えが対人にも及んでしまう「こども」か、 という二種類の人間がいるってことなんじゃないか。 ここで言う「おとな」と「こども」は、年齢とは全く関係ないし、どっちが優位に立っているとか優劣関係をつけるために隔てたわけでもない。 気がついているか、気がついていないか、それだけだ。 それだけで、まるで世界が違って見えるのだ。 この話も、少し考えればわかるだろう、というようなことではあるが、本当にわからない人間もいるのだから、そういう人間と同じ土俵に立って腹を立ててはいけない。 こどもに教えるのと、同じようにすればいい。 実際、50歳の大人の「こども」に対して、同じ土俵に立って腹を立てたりせずに接する10代の「おとな」はたくさんいるだろうと思う。 何度も言うが優劣の話ではない。 例えれば、そう、子育てのようなものなのだ。子育てする側とされる側に、成人も還暦も関係ないということだ。まあ、楽なのは、子育てされる側だろうけど。幼子は厄介だからな。 ただし今は出水先輩米屋先輩という、俺たちが信頼を寄せていて、尚且つ敬意を注ぐべき相手なので、俺は彼らの無神経にそこまで気を留めなかった。 それは名前もやはり同じようで、 「楽かどうかは関係ないんです。だって、ここが空き家になるのも、市に買い取られて貸し家になるのもいやですから」 と言った。俺が思っていたより、名前は本心を明らかに彼らにそのまま伝えていた。 先輩方は はっとしていた。 その姿に思わず俺はほっとした。同時に、やはりどこかで先輩方を信頼していない自分がいるんだな、と思い至り、目を伏せた。 名前のよどみない声だけが、耳に入ってくる。 「この家はみたとおり古いでしょう。大切な家なんです、私だけの話じゃない。私の大切なひとたちもこの家が大切で、いまはもういないですが昔、大切に暮らしてきたひとたちもそうです。 庭には、おばあちゃんたちが小さい頃に飼っていた犬の墓があると聞きます。あの桜の木も、昔ひいおじいちゃんがとっても愛していたんだそうです。だから、」 余儀なく引っ越しが決まっても、引っ越して行ってしまっても、家族みんな、この家を守りたいんです。 その思いを私は任されました。それだけです。 と、言い終えた。 さぞ、はずがしかろう。ふう、はあ、と名前のため息が聞こえる。それだけで、唇を噛む名前の照れ顔が見えるようだ。 俺は時計に目線をやる。 「そろそろ、参拝に行きませんか」 そう言って、この部屋に沈黙が訪れようとするのを まぬがれた。 |