「ありがとう」とどこか遠くで、小さく、かすかに聞こえたような気がした。もしかしたら自分を信仰していた最後の一人の、最期の叫びが、この世に渦巻く不思議な力によって僕へと届いたのかもしれない。
神として生まれてから数百年間、多くの人間たちの様々な感情や思いを受け止め、愛し、愛されてきた。今にも崩れ落ちそうなほどの廃屋だった小屋は、世界に二つとない美しいステンドグラスを持つ教会へと成り上がった。たいした力を持たずに降り立った神は、多くの信仰を得て、彼らを幸福にできるほどのを力を得た。僕だけの力では到底叶うことのない、贅沢な生涯だったと思う。それは僕の努力ではなく、人間たちに与えられたものにすぎない。それでも、最後に届けられた言葉が感謝だったことが、誇らしくて、照れくさくて、少しだけくすぐったかった。
走馬灯とでもいうのだろうか、色々なことが頭に浮かぶ。初めて僕を信仰してくれた人間との思い出、生まれてから死ぬまでずっと僕を慕ってくれた人間のこと、他にもたくさんの出会いと別れがあった。ゆっくりと薄れていく自分の身体を見る。呆気ない。信仰されなくなった途端に力も何もなくなって、あとはここからいなくなるだけ。けれどもう抗う術はない。それでも、昔のことを思い返すだけで、これでもいいと思えてくる。こんなにも心温まる記憶ばかりで、僕はこの上ない幸せものだ。
ただ、二つだけ、ほんの二つだけ気がかりがある。本当の妹ではないけれど、唯一の家族である少女のことと、結ばれることはなかったけれど、僕の、僕だけの美しい人のこと。僕がいなくなることを悲しまなくていいから、僕のことをこれから先ずっと思い出さなくていいから、少しだけ、泣いてくれたら、嬉しい、なんて。
未練がましく縋ろうとするその想いですらゆっくりと侵食されていく。羽根が砕け、腕が割れ、足が崩れる。これでいいんだ。淡く、儚く、それでいて、いや、だからこそ、ステンドグラスは美しい。僕の愛した教会も、主を無くした後はきっと僕のように儚く朽ちていくのだろう。色鮮やかに光を孕む教会が瞼の裏に焼きついたころ、僕の視界は白に染まった。
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「おや、神が来るとは珍しい」
煌びやかな装飾が施されながらも、どこか厳かな雰囲気を放つ椅子に、華やかな色合いの着物を着た少女が座っていた。白と黒の目をこちらに向け、ゆったりとした仕草で笏を口元に持っていく。その身に合わない大きさの笏はその小さな口を隠してしまうが、唇が弧を描いていることは表情から見て取れる。
グランツは先ほど跡形もなくなったはずの自身の身体を見たが外傷は一つも存在しなかった。背には崩れ落ちた羽根もある。手のひらを握って、開いて、と繰り返すが、特に何も以上はない。つまりここは、亡者の辿りつく先か。頭の中でそう結論づけたと同時に少女が口を開く。
「わたくしは花千代。あなたを裁く者であり、あなたを導くものです。ここは天国と地獄の隙間、現世と来世の狭間。千代の後ろに階段が見えるでしょう。これからあなたはどちらかに進むことになる。光に溢れる天と、嘆きや叫びに溢れる地」
しかし、と微笑みを浮かべたまま花千代は続ける。
「信仰を失うまで、いいえ、失ったあとですらあなたは神として生きた。その生が終わるその瞬間まで他人を思うその心は誰しもが持てるものではありません。その身体で信仰を一身に受け止め、多くの人々の心を救ってきた。それはあなたにしか出来ぬこと。そんなあなたに下す判決は暖かく、そしてあなたへの救いの手になるものでなくてはならない。さあ、天への階段を進みなさい」
隣に控えていた獄卒と思しき女性ですら微笑んでいるような気がした。きっとそれほどに天国は暖かい場所なのだろう。しかしそれではいけない。天国なんて行ってしまってはそれきりじゃあないか。グランツは二人と同じようににこやかな表情を浮かべて、青い髪を揺らしながら形のいい唇を動かした。
「その判決を辞退するっていうのはダメなのかな?」
「…………はあ?」
「だって天国なんて面白くなさそうだ。ああ、でも地獄も嫌だな。痛いのはあまり好きじゃない」
呆気にとられていた二人だったが、花千代がさっと目配せするとグランツの言葉に顔をしかめていた鬼がグランツの腕を掴んで無理やり引きずろうとする。しかしそれを自身の羽根によってふわりとかわしたグランツはもう一度言い放つ。
「ここにいさせておくれよ、退屈も苦痛も散々だ」