「緒姫様、準備が整いました」
その声に、川から顔を出した緒姫様は、瞳を輝かせて無邪気に微笑んだ。欲しかったものが手に入ることの嬉しさは分からなくもない。ただ、あんな人間のどこがいいのかが分からない。口に出すことも顔に出すこともしないが、どうしても、笑みを浮かべる口元が歪になりそうで、そっと袖で隠した。それをどう解釈したのかは知らないが、緒姫様はいっそう笑みを深くし、長い爪で自身の唇をそっとなぞった。その唇からは抑えきれない興奮が熱い吐息となって溢れ、頬の鱗に覆われていない箇所が、うっすらと赤みを帯びていた。
「章月、ふみつき、そちには心から感謝せねばなりませんね。こちはいま、とても嬉しくて、おかしくなってしまいそうです」
「いえ、緒姫様のそのお言葉こそ私の生きる意味ですから」
「いいえ、そちには何か褒美を差し上げねばなりません。全てが終わった時、もう一度問いましょう。その時までに、決めておきなさい」
「……かしこまりました」
いっそ自由にしてくれ、という言葉は飲み込んで、こうべを垂れた。彼女の手で作られ、彼女の手で生かされる私には選択肢などない。それでも別に構わない。式神なんてそんなものだ。それに誰かのために生きることは嫌いじゃない。例え緒姫様じゃなかったとして、金に目がくらむような商人でも、数えきれないほどの罪を犯した囚人でも、正しい命令を出せるひとのために働くことはきっと私にとって立派な生きがいになることだろう。それでも愚かとしか言いようのない姫君に心の中で唾を吐きかける。もう一度頭を下げて足を引き、緒姫様の熱とは対称に冷え切った橋を降りた。
「有明、明日から本番です。彩雲にもそのように」
木陰に向かって言うと現れた手がひらひらと振られた。その手の甲の目は開いており、ぎょろりとした目が私を追う。それを一瞥して、私が造られた地に向かう。水辺は苦手だというのに毎日向かわなければならない苦痛は、あの場所が、多くの人間の憎しみを吸ったあの地だけが癒してくれる。終わったら、ここに帰りたい。霧散して、消えてしまいたい。倒れこむように横になり、目を閉じた。