「ミルダさま、行かれるのですか。あなたさまの夢も、私の心も、全てを捨て置いて、混沌とした世界へと」
そっと手を掴むと、いつもの温かく、柔らかい手のひらは、皮の冷たさに包まれ、私の手から少しずつ熱を奪ってゆく。何も言わずにこの手を振り解いて、もしくは私の頬を一度でも打ってくださればいい。そうしたら、ああ、なんて酷い人だったのでしょうと、泣きはせども忘れられるのに。それでも止まった足が、詰まった息が、微かに動く戸惑う指先が、私を困らせる。
「あなたを想うのは私だけじゃありませんのよ。悔しいけれど、認めたくないけれど。美しい月は、近頃、いつも陰っております」
言葉を選んでくださっているのか、いかに私を傷つけずにこの手を振り払おうとしているのか、何も言ってはくださらない。迷いが吐息に乗って、私の頬をすり抜ける。こんなにも近くにいるのに、心臓の音の一つすら聞き逃さないほど近くにいるのに、私の想いは届かない。それでも親鳥が雛に餌を与えるように、毎日必ず与えられてきた中途半端な優しさが進路も退路も塞いでしまって、もう私には、あなたの進む道を妨げて、こちらに戻ってくるようにゆっくりと手招きすることしかできない。
手に帯びた熱が伝わるようにと、力を込める。
「万里亜さま、分かってください。あなたの幸せを思ってこそなのです。この国の技術が今よりも発展すれば、あなたに美しい世界を見せることができるかもしれないのです」
「いえ、いいえ。私には美しい世界など必要ありません。あなたが私の入れたお茶をおいしいと飲み干してくれることが、団子や大福の乗った皿が軽くなって帰ってくることが、私の幸せなのです。どうか、分かってくださいまし」
吐き出す言葉に焦りが募って、手のひらにさらに力がこもる。切り揃えた爪が食い込むほどに、強く。それを咎めるわけでもなく、ただ優しく頭に乗せられた手に、変わらぬ未来を確信した。私に絆されてくださるかもしれないという、可能性に賭けてみたかっただけだったけれど、ここには一抹の希望すらないことを思い知るだけだった。閉じた目から雫が落ちる。ミルダさまはそれを優しく拭うと、小さく笑った。そこには躊躇いも戸惑いもなく、私はゆっくりと手を解いた。
「申し訳ありません、困らせたかったわけではありませんのよ」
「言わずもがな分かっております。万里亜さまは優しいお方でありますから」
「ミルダさま、さいごに、お顔を触らせてください、少しでも覚えておきたいのです」
「お気の済むまで」
ミルダさまの手が私の手をご自分の顔まで誘導すると、するりと離れていった。至極当たり前なのに、少しだけ寂しい。そんな思いを押し込めて、硝子細工を触るように指を這わせる。初めて出会った頃もこうして、初めて、ミルダさまのお顔を知った。何年も経ったわけではないから変わったところなんてないけれど、形でしか分からない私はきっと、誰よりも最初にミルダさまを忘れてしまうのだろう。多くのものに触れ、その形を覚えるたび、抜け落ちてゆく。
「お慕いしておりました、性別や人種ではなく、あなたを」
「……万里亜さまは、ずるい」
こぼれ落ちるミルダさまの涙を拭って、私はゆっくりと瞼を持ち上げる。景色など見えるはずはないのに、ぼんやりと、私の目の前に、すぐ近くに、揺れる影が見えるような、気がした。