書物を読んでいた花千代の背後に音を立てずに降り立ったグランツが、その文字羅列を覗き込もうとした瞬間、花千代はその分かりやすい覗き見を叱責するように大きな音を立てて本を閉じた。少しふてくされたように唇を尖らせるグランツに対して、冷ややかな視線を向けた花千代は、同じように冷たい声色で言葉を投げかける。
「……して」
「おや、どうしたんだい?閻魔さま」
「お前はいつここを出てゆくのですか。いつまでもここに居残ればお前の魂は歪なものとなり、天にも地にも行けぬ哀れな亡霊となりますよ」
「ううん、どうしようか。閻魔さまがあと五百くらいの魂を裁いたら、としようか」
出ていくつもりがないなら素直にそう言えばいいものを、生意気な口から出る言葉は素直の欠片もない。日が数十回上り、沈むその間にに一人来るか来ないかのこの場所で、五百の魂を裁く日などいつになったら来るというのか。呆れ果てて溜め息をわざとらしく溜め息を吐いてやったがこの男がそんなものでこたえるはずもない。からからといつもの軽い笑い声が聞こえ、こちらが苛立つだけだった。
「千代の経歴に傷がつくのです。お前すら送りだせぬ、ちっぽけな存在だと。その程度の閻魔であると」
「閻魔さまは唯一無二じゃないか、誰に嘲笑われるというんだい?」
「お前も唯一無二の存在でありながら多くの者に嘲笑われたではありませぬか。信仰も集められぬちっぽけな神だと」
「ああ、そんな時もあったね。閻魔さまは物知りだ」
何を言ってものらりくらりとかわすだけのこの男、本当にもういっそ地獄に蹴落としてしまおうか。下り階段の前に立たせて一発入れるだけだ。地獄の鬼たちはもともとこちらの事情など知らずただ言われたままに裁いているだけ。ここで落としたところで何も考えずに彼に処分を下すだろう。閻魔という立場になければ今すぐにでも落としてやったというものを。鬼子にやらせてしまいたいとも思うが、彼女は言わば私の分身、分身がやった不始末はこちらに返ってくるだけ。
「グランツ・ゲシュペンスト、お前は何が不満なのですか」
「ん?」
「千代のこの白と黒の双眸は、嘘を見抜くだけでなく、真実を見出す道具なのです。待ち人、愛しい人、そういった者がいることなど初めから知っています」
「……」
「お見通しなのですよ。秘め事など、上からどれだけ土を被せて隠し、花を咲かせて意識をそらし、柵を設置して触れられないようにしようとも、根の位置が変わることはない。千代にはその根が全て見える」
少し苦く笑った神を白と黒が射抜く。おそらく閻魔帳に書いてあること以外は知らないとでも思ったのだろう。グランツは来たばかりの時、花千代の閻魔帳をさりげなく盗み見ていたことがあった。しかしそこには名前、性別、家族構成、生前したこと、それらだけしか書かれていない。それを自らの目で確認したからこそ、ただのらりくらりと花千代の言葉をかわしてここに居座っていた。
「いい加減になさい。歪な魂で妹や想い人に会って何がしたいというのです」
「会いたいんだ」
「だから、」
「会って何かしたいんじゃない。会いたいんだ」
そんなことも分かりきっているのだ。話したい、謝りたい、許されい、触れたい、見つめ合いたい、そんな欲など一切見えはしなかった。ただ、その言葉通り、会いたいだけ。花千代もそれくらい分かっていた。上に立ち、自分の世界を作りたがる神という存在は閻魔として永い時間を過ごしてきて多く見てきた。それが普通なのだとすら思っていた。それらと同じ存在にも関わらず、その割に欲のない男だと強烈に印象付けられたことは今でも覚えている。
しかし白と黒は冷たさを孕んだままグランツを射抜く。
「それでも千代はお前がここにいることを良しとしません。お前のため、千代のため、何よりもお前を希う人々のため」
「天国なんかに行ったら入れ違いになるかもしれないじゃないか。僕は来世で会いたいわけじゃない」
「お前は分からぬのですか。お前のその心こそ、中途半端な優しさを与えたがるその生き方こそが、」
花千代はそこまで言うと口をつぐんだ。この男は知らないのだ。その優しさを水として、恋心を咲かせた少女が、この男と同じ存在になりたがったこと。なってしまったこと。それを言えばなおさらここから動かなくなってしまうだろう。話を切り上げるように再び溜め息を吐いて視線をそらす。
きっとこの男は気付くことはないのだろう。下界の妹が教会に囚われていることも、少女が人としての道から外れてしまったことも。