小惑星の終焉
その日、花千代は珍しく、いつもの凛々しい表情を浮かべておらず、苛立ちのままに笏を机に叩きつける。その様子に紅葉は焦りを覚えつつも、つい溢れてしまいそうになる、仕方ない、花千代のせいではない、という類の言葉をぐっと喉の奥に押し込め、姿勢を崩さないように努めた。しかしグランツはいつものように何を考えているのかを隠した笑みで花千代に問いかける。

「閻魔さま、今日は随分と不機嫌そうだね」
「……確かに、千代は今、とても苛立っています。しかしそれは他人に向けたものではなく、千代の未熟さ、千代の早計さ。どうにも許せぬものは、ただそれだけです」

花千代の白と黒の双眸の奥の深淵も知らないまま、グランツはくつくつと笑って、珍しい、と言った。その態度がどうにも紅葉には気に食わず、手のひらにある凶器を強く握りしめる。しかしその仕草を咎めるように花千代の丸い瞳に射抜かれ、軽く頭を下げて姿勢を正す。

「千代は全ての選択を誤りました。下界との接触を最小限に抑え、事を収束できなかったこと。まだ完璧と言い難い番人に生温い環境を与え、感情を教えてしまったこと。そして、鬼や神は、人間と交わることは有り得ぬと知らないままに送り出したこと」

神と人間は交わらない。その言葉にグランツはぴくりと反応したが、いつものようにわざと、嫌味として言ったわけではないことを、花千代のその悲痛そうに歪む顔を見て悟り、消えかけた笑みを再び貼り付ける。自分が共に悲しんでやるよりも、自分は自分として振舞うほうが、ここの主たる花千代にとってはいいことを、長年の付き合いによって分かっている。そして、花千代の扱いだけではなく、神と鬼が下界に降りたことに関しては、なぜかということも、何をしに行ったかということも知っていた。花千代が最近になって頻繁に物に当たっていた起因は、そこにあるのだろうと、彼らを送り込んだものの思った展開にならなかったせいだとばかり思っていた。しかしどうにもそういうわけではなく、思った展開にならなかったのではなく、思わなかった展開になってしまったようだ。
グランツは一度だけ出会ったことのある、神の顔を思い浮かべる。美しく、気高い神だった。他人の領域に入るのは上手いくせに自分の領域には何人たりとも入れたがらない。そんな彼も、愛しいと思える対象に出会ったのだろう。ただそれの対象が人間だっただけではあれ、神と人は、絶対に交わらない。グランツは、そのことも、身をもって知っている。

「彼らは最期、囚人を管理できたことをどうこう思うでもなく、一人の少女の今後を、未来を、その道の先を照らす光があるようにと、ただ願うばかりでした。」
「その少女を愛してしまったんだね」
「……家族ほど近しい人間に対しての情なのか、もしくは友に対して、唯一無二の存在に対してのものだったのか、それを知る術はありません。しかし、彼らはお前の言うとおり、その少女を愛してしまったのでしょうね。しかし千代は、」

すっと短く息を吸い込み、花千代は一度瞼の裏に瞳を隠す。幼い見た目とは裏腹に、瞳を開けた時の凛とした顔は大人びていた。

「その熱情だけは与えてはいけなかったと思っています」

澄んだ声が何もない空間で反響するのを、グランツはぼんやりと聞いていた。反論を許さない強さはなく、反論を恐れる弱さもない、ただ花千代が正義として持っていることを言葉にし、声に乗せただけのものだった。考えを吐露した花千代のその白と黒を見つめながら、美しい緑色の瞳を浮かべるグランツはもちろん、花千代とは真逆のことを芯として持っている。その熱情はその瞬間を輝かせ、時間が経ってもなお思い出としてさらに先の未来すら照らす。しかしそれを伝えたところで、自分が花千代の言葉で揺らがなかったように、花千代が重圧から解放されるとは思えない。全てを分かっていたからこそ、グランツはただ一言、「難しいね」と曖昧に濁すだけだった。

「……お前は聡い。時に恐ろしく思うほどに先の先まで見通すことができる。だからこそ、その熱情に絆されることも、一つの選択肢としてあったのです。しかし、彼は、否、彼らは知らないことが多すぎたのです。それを知らないことが罪なのではなく、それを知らしめることができなかったことが罪なのです。あの熱情さえなければ、彼らは生を失わなかった」

花千代がどこまで知り得るのか、花千代のどこまで考えているのかはグランツには知り得ず、踏み込めない、踏み込むことは許されない世界だ。ただ、どうしても、譲れないことが一つあった。

「僕は、僕の死んだ理由がもしも信仰心の欠如じゃなくて、彼女が、ベアトリーチェが笑っている未来のためだったなら、きっと今頃、ここで胸を張って誇っていると思う。彼らはきっと閻魔さまが思うより幸せだったよ。閻魔さまのせいじゃない、彼らは彼らの正義に気付いたからこそ眠りについたんだ」
「……戯言を」

ふいと顔を背けた花千代の、真っ直ぐな瞳が涙で揺らぎ、水滴が落ちたのを紅葉だけが気付いたが、そっと心に秘める。花千代が息を大きく吸い、それを小さな溜息へと変えながらも、手放した笏を再び小さな手に収めたことを確認し、来客の待っている扉を開けた。神が息吹いたように光が溢れ、悪鬼が生を受けたように禍々しい気が充満する。そのアンバランスな空間で、閻魔が視線を上げ、ゆっくりと口を開く。

「二度目も変わらず、無事に終焉を迎えられたことを、そしてこの場所へ再び立てたことを神に感謝なさい。そして生にしがみつくことを諦めなさい。もうお前には生も死も与することはしません。輪廻も断ち切ります。悲しい過去にとらわれ、許せぬ世界を捻じ曲げようとしたことは知っています。しかしお前は禁忌を冒しすぎた。お前の名は、許されざる存在として、この胸に刻みましょう」
「……」
「異論はありませんね?……いいえ、異論など認めません。いいですね、朝霧慧」

男は何も言わずに、濁った目で何もない場所をぼんやりとを見つめるばかりだった。花千代は特にその態度について言及することはせず、男に最期と、そして、永遠を与えた。




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