赤き薔薇は海の水面で輝きを失くす
「ずっと動かないけど、もしかして死んでんの?」

浜辺に寝転がりながら空を見上げる海風の目から無限に広がる青が消え、アングレサイトのような、輝く淡い黄の瞳が映り込む。その瞳は俗世を知らない貴族のように穢れなく、不正を知らない子供のように清く澄んでいた。宝石をそのまま埋め込んだような瞳を見て、ずっと昔に得た知識から悪魔だということを導き出す。しかし、相手の本質を即座に見抜いたとして、満月から恩恵を受けられない今、自分が持ちうる力程度では抵抗らしい抵抗すらできないことも理解していた。死ぬならそれもいいかと早々に諦めて、海風は自分を見下ろすその宝石を見つめようとした。しかしそれは随分と高い位置にあり、海風は少し目を細めて、ピントを合わせる。数度まばたきをして、記憶の海を泳いでみるも、海風の頭の中には、その綺麗な色はもちろんのこと、この顔と一致する者はいなかった。けれど悪魔の顔を見つめているうちに、少しだけ、これから殺されるとしてもほんの少しだけ会話をしてみたいという気持ちがふつふつと湧き上がる。

「……死んでるなら、」
「生きてるよ」
「なあんだ、つまらないな」
「ごめんなさい」
「これから死ぬ予定とか?」
「ううん、死なないよ。空を見てただけなの」
「あっそ」

海風が生きていることを知ったからか、答えが分かって興味を失ったのか、悪魔はそう吐き捨てるとつんとそっぽを向いた。自分を殺してまで食べたかったわけではなく、死んでいたら食べよう、くらいの気持ちと考えだったのだろうか。しかし海風には悪魔の気持ちや行動よりも、助かったという考えよりも、先ほどまで独占していたアングレサイトが海に盗られてしまったことが寂しかった。少しの緊張を飲み込んで「ねえ」と漏らすように声をかけると悪魔は気怠そうに海風に目をやる。再び見ることのできた宝石に海風はとても嬉しそうに微笑んだ。

「あなたの目、綺麗ね」
「よく言われるよ、お前みたいな貧弱なやつが俺を籠絡しようとするときに」

その言葉がはたして嫌味なのか呆れているのかを判断することもせず、海風は片手でその悪魔のショートブーツをくいくいと引っ張って、もう片手で自分の隣に座るように促した。悪魔は素直にそれに従って海風の横に腰を下ろすが、ひどく殺気立っているうえに、一切の隙がない。力の差は歴然だった。悪魔はもうすでに海風から視線を外し、波打ち際をぼんやり見ているというのに、ぴりぴりとした空気が肌を刺す。もしも寝返りをうったり、起き上がろうとしたり、手を動かしたり、とにかく少しでも今の体勢を変えようとすれば、次の瞬間には海風は原型を留めてはいないだろう。海風はそれを本能で感じ取り、しっかりと理解もしていたが、先ほどすでに死ぬ覚悟を決めた海風にとってはその威嚇に恐怖をかきたてられることはない。波の音と自分の呼吸以外に、悪魔の手首にかけられた手枷と手枷を繋ぐ鎖の音や、悪魔の息遣いも聞こえる。自分以外のものが作り出す音が響く昼の海は初めてで、新鮮で、それを楽しむことが今の海風の全てだった。

「あなたのお名前は?」
「さあ」
「ごめんなさい、先に名乗らないと失礼だね。海風っていうの」
「アザレア」
「アザレア、綺麗なお名前ね」

目を細めて嬉しそうに微笑んだ海風とは対照的に、アザレアは表情すら変えなかったが、それでも海風は自分の問いへの明確な答えに満足そうだった。声に出さずに何度も何度も復唱する。その名前は元から知っていたかのように、懐かしいと思えるくらいに、海風の唇に馴染んだ。





「アザレアは悪魔でしょ?」
「そう」
「本でしか見たことがなかったけれど、悪魔って本当に瞳が宝石みたいにきらきらしてるのね」

「アザレアは海は好き?」
「普通」
「海風は好きよ。ご飯がたくさんあるから」

「アザレアはどこから来たの?海風は近くの森に棲んでいるの」
「牢獄」
「そういえば手枷がはめられているね。悪いことでもしたの?」
「さあ。物事を善悪でわけたことないし」

「アザレアはお腹が空いてるの?」
「別に。さっき食べたばかり」
「じゃあどうして海風を食べようとしたの?」
「ワーウルフを食べたことないから」
「興味本位ってこと?」
「そう」

「アザレアはどうしてここに来たの?」
「暇だったから。俺と戦えるようなやつ、上にはもういないし」
「上?」
「天界」
「天界にはアザレアと互角に戦えるひとがいないの?」
「互角に戦えるやつはみんな殺した」
「……だから牢に入れられたのね。でも足枷をつけないなんて、天界のひとは不用心ね」
「理由は知らないってば。それと足枷は邪魔だから壊しただけ」
「そうなんだ」

アザレアは海を見下ろしたまま、海風は空を見上げたまま、二人は目を合わせずに会話を続ける。海風の問いかけにアザレアが答えるだけではあったものの、少しずつ長くなる返答に海風は満足そうだった。そのうち海風はアザレアの方に目を向け、顔を向け、体を向けていったが、アザレアが手を下すことはなかった。

「海風ね、記憶がないの」
「へえ」
「っていっても、ほんの一部よ。それに、なんとなくそう思うだけなんだけど」
「ふうん」

海風の身の丈には一切の興味が湧かないのか、アザレアは拾い上げた貝殻を指先だけで粉々にしている。それでも一応は耳を傾けているようで、曖昧で適当な相槌が返ってくる。それでも隣に自分の話を聞いている存在がいることが嬉しくて、海風は話を続けた。

「なんとなく覚えてるの、ナギ、ナギっていう名前の子がいたような気がしてね」
「ほー」
「海を見ているとね、誰もいないのに自分の隣を見て、ねえ、ナギ、って呼びかけようとするの。知らないのに、体と口が覚えてる」

だからきっと、何かを忘れている気がするの。海風はそう続けて口を閉じた。アザレアは最後まで、興味も視線も何もかも、こちらに向けることはなかった。それでも自分の中にあるこの不思議な感覚を他人に話せたことは初めてで、海風は今日一番の笑みを浮かべた。アザレアへの質問も終わり、自分の話も終わって、特にやりたいこともなくなった海風は、アザレアが粉々にした貝殻のかけらへと手を伸ばした。周囲の砂と共に拾い上げては、指をひらいてぱらぱらと落とす。その行動には何の意味もなかったが、ついにアザレアが視線を動かし、その一連の行動を眺めた。

「契約、してやろうか」

アザレアは鋭い目つきを緩ませることなく淡々と告げた。悪魔と人間のあいだで結ばれる契約は、悪魔が圧倒的に優位に立つことが多い。それは契約を持ちかける際に、やわらかい微笑みと、とろけそうなほどに甘い声と、優しい言葉で近づいて、騙された人間を巧みな言葉遣いで誘導して、そうなるように仕向けるからだ。そのほうが確実で、楽だから。海風は今までに、アザレアのように、ワーウルフの肉や魂に興味を持った悪魔たちに、何度となく契約を持ちかけられたことはある。誰もが作りあげた優しさを海風に向けて、海風の手を引いて、海風の望む未来へ連れて行ってやろうと、先導したがった。もちろん契約を結ぶことはなく、自分に伸びる手はすべて振り払ってきたが、そうして積み上げられた経験から、この世界に降り立った悪魔はそうして契約を結ぶことが当然で、もはやしきたりのようなものなのだろうと思っていた。
海風の今まで抱いていた常識を覆すように、アザレアは声も表情も冷たいままだった。ぎらぎらとした狂気を孕んだアングレサイトが、顔をあげた海風の目線を呑み込む。出会ったときも、明らかな殺意をぶつけられたときも、まったく感じなかった恐怖や緊張が、電流のように背を走る。目を見開いて、背筋から指先までぴんと伸びて、鋭い爪がむき出しになる。どれも無意識のうちの行動で、跳ねる心臓を落ち着かせようとする暇もなく、アザレアが笑った。

「俺がお前の記憶を戻してやるよ。だから俺にすべてを捧げろ」

契約を持ちかけているにも関わらず、アザレアは手を伸ばそうとはしなかった。ただ手のひらを開いてこちらに差しだし、海風に手をとらせようとするばかりだった。海風から伸ばした手なのだから、たとえこれからどんなことがあろうと、何もかも仕方ないの一言で済ませようとしていることは分かっていた。それでもその手は、今までの悪魔たちが自分に向けたどんなものよりも、魅力的に見えた。

「……うん、いいね、すてき」

まごうことなき本心を、未だに恐怖から解放されずに震える体から出たがらない声で伝えると、アングレサイトがかすかに細められたような気がした。その瞳には、見飽きた捕食者の顔ではなく、圧倒的な力を前にした被食者が映っていた。



titled by 透徹




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