おいしそうにご飯を食べていたりするところとか、お風呂からあがって髪の毛を乾かしていたりするところとか、あとは、そう、少し奮発したらしい服を出かける予定もないのに私に見せたりするところとか、そういう、生活において当たり前のことを、当たり前のようにする桃李を見るたび、あの時に殺してしまおうと決めた恋心が息を吹き返す。
今まで幾度も繰り返される人生では、必要なものは何もなくて、というよりもむしろ何かを持っていたら邪魔になるから、余計なものは部屋に一切持ち込まないようにしていた。無駄なものが何もない空間が一番落ち着くはずだった。けれど今では、私と桃李を乗せても狭くないくらいのベッドも、二人で部屋の雰囲気に合わせて買ったラックも、それを彩る桃李お手製のフラッグガーランドも、対になっている二つのマグカップも、すべてが揃っていないと落ち着かない。いつも通りの場所に、いつも通りのものがあることがこんなにも幸せだなんて知らなかった。
ブラックコーヒーと甘いココアを、桃李の一番のお気に入りである猫のマグカップに注いで、借りてきたらしい安っぽい恋愛ドラマを、ソファの上で膝とクッションを抱えてじっと見入っている桃李のもとへと向かう。無意識なのだろうけど、その背中は少しだけ右に寄っていて、そこが私の居場所なのだと再確認させられる。それがどれだけ嬉しいかは、きっと、桃李には分からない。それでいい。それでも、うれしい。
「熱いから気をつけて飲んでね」
「あ!ありがとう」
後ろからココアを手渡して、コーヒーは机の上に置く。時間を置いて冷ますついでに本でもとってこようかと部屋に行こうとしたが裾を引かれて立ち止まる。
「なあに?」
「……となり、来てほしいなって」
「……うん、わかった」
桃李が空けておいてくれたところに座ると、いそいそとテレビを止めて、持っていたマグカップを机の上のものと並べて置いた。猫の尻尾がハートを作っていて、なんだか気恥ずかしくなる。私がそうして猫を眺めている間、桃李はといえば、私の手を握りしめて小さく笑っていた。顔をそちらに向ければぱっと花開くような笑顔を見せるから、そこでようやく、桃李はそのドラマを見たかったわけじゃなくて、暇つぶしとして見ていたことを知る。
桃李は私のことをよく分かっているのに、私はいまいち桃李のことを分かっていない。どちらかといえば女心を分かっていないというほうが正しいけれど、桃李がああして、こうして、と私にお願いすることは、桃李がもともとわがままの少ない人間ということもあってすべて叶えてきたし、これからもきっとすべて叶えてあげられるだろうけど、今まで私から何かしてあげられることはなかった、と思う。けれど桃李は、私がああだったらいい、こうだったらいい、と頭の中で思い浮かべただけのことを、すべて叶えてくれる。さながら魔法使いのようだった。
「桃李は、いま、幸せ?」
「幸せだよ」
「じゃあこれからは?」
その問いに桃李はきょとんとした顔をこちらに向けた。その真っ直ぐな目が見ていられなくて、またマグカップに視線を移す。
「私は桃李の望むこととか、考えてることとか、なんにもわかってない。きっと今までも私よりずっとずっと桃李に合うひとがいたと思うし、この先にもいると思う。それでもいいの?」
少しずつ湯気が勢いを無くしてゆくコーヒーをひとくち飲んだ。問いかけるように言葉をぶつけたけど、桃李が「いい」と言おうと「悪い」と言おうと、明日からの私たちに何か変化があるわけじゃない。私よりも桃李のことを理解していて、桃李と波長が合うひとがいるとして、それを理由に桃李を諦めるかどうかと言われたら、答えはいいえだ。それでも沈黙が続くと少しずつ気まずくなっていって、そういえば桃李はいつまでもコーヒーが飲めないままだなあ、と、頭の中で話題をすり替える。もう一口飲んで、何も言わなかったとりあえず話を変えよう。もう一度唇にマグカップを近づけると、桃李にすっととられてしまった。ぽかんとしながら見つめると桃李はそれを口に含む。やめなよ、苦いよ、桃李には飲めないよ。そう告げる前に桃李の細い首が動く。その瞬間、眉をひそめた桃李の目に涙が浮かぶ。
「うう、ううう」
「ちょっと、何やってるの」
コーヒー入りのマグカップを取り返して机に置いて、シャツの裾で涙を拭ってやりながらココアを渡す。まだ少し熱いだろうに桃李はそれを一気に飲み干した。
「にがい」
「ブラックだもん、桃李に飲めるわけないじゃないの」
「あつい」
「桃李には熱いよ。さっき言ったでしょ」
「ううう」
「水とってきてあげる……から、ほら、手、離してよ」
ずっと握られていた手を離そうとすると桃李が意地になったかのように強く握りしめる。ため息をついて桃李を抱え上げて冷蔵庫まで運ぶ。降ろしてやってもなお離れないその手をそのままにさっきのマグより小さめのコップを出す。するとようやく手を離した桃李が冷蔵庫から水の入ったペットボトルを取り出して注ぎ始めた。とく、とく、といい音を立ててコップに吸い込まれていく水を二人で眺める。桃李が丁寧に扱うおかげで、未だに買いたての頃のように輝くコップには、しかめっ面の桃李が映っていて、なんだか微笑ましかった。さっきココアを飲み干したばかりだというのに注いだ水を勢いよく飲む桃李につい笑ってしまった私につられてか、桃李はようやく笑った。
「痛くない?」
「うん」
「よかった」
「……皇くんはちゃんと私のことわかってるよ」
話、戻さなくてもいいんだけど。ついそう思ってしまって、桃李の頭に乗せた手を引っ込める。先ほどのように気まずくなってしまいそうで、また桃李の目を直視できないかと自分でも思っていたが、あまりに真面目な顔でこちらを見るから、目が離せなかった。
「私がブラックコーヒー飲めないことも、あのココアが私には熱いことも、どのコップでお水を飲みたかったのかも、頭撫でられるの好きなことも、全部分かってるじゃない」
「それは、そうだけど」
「私はそれだけでいいの。ううん、それだけがいい。すごい幸せだから、これ以上なんていらない」
「……うん」
私よりもずっと小さい桃李を抱きしめる。桃李は一生懸命に抱きしめ返そうとしてくれる。ずっとずっと昔から頭のなかで思い浮かべてきたことが、こんなにも幸せだなんて、知らなかった。泣きそうになるくらい胸がいっぱいで、桃李が好きって気持ちがいっぱいで、なくしてしまわないように強く抱きしめる。
「桃李、幸せになろうね」
「私はずっと幸せだよ」
「そっか、じゃあ現状維持しよう」
「ふふ、なにそれ」