20160703
なにか欲しいものはないか、なにかしたいことはないか。月子とマリアから唐突に投げかけられたその問いにミルダは「自分の望みはこの国が平和であること」と答えたが、二人は呆れたような、困ったような、そんな笑みと声色で、ミルダ自身に関するものに限ると返した。そこでミルダは、特に深く考えるでもなく、自分自身が一番してみたいことを、とはいえ叶うとは到底思ってもいないことを呟くように声にのせてみる。

「海が見てみたいであります」

その時は本当に何の考えなしに言い放ったが、自分の誕生日、その当日になって、なぜいきなりそんな質問をされたのか、二人がいかなる意図を持って自分に問いかけたのかを理解した。そしてまた、自分がどれだけ難しい‘’おねだり‘’をしてしまったのかも、理解せざるを得なかった。





「ミルダちゃんはお菓子好き仲間だからね、アンジェ、すっごく張り切っちゃった」
「あ、ありがたく頂戴するであります!アントナ将軍殿の手作りはどれもおいしいから嬉しいであります!」

七月三日、ミルダと比較的親しい人物からミルダへ、祝福の言葉やプレゼントが贈られていた。たった今、アンジェから手作りのお菓子が詰め込まれた大きな袋を渡されたミルダはぱっと表情を明るくし、瞳を輝かせる。朝から多くの人間に祝ってもらえたことに、少し照れくさくも、嬉しさを感じていた。ただ、素直な気持ちを言うのならほんの少しだけ物足りない。アンジェが手を振りながら踵を返したあと、ミルダはちらちらとあたりを見回して、二人の姿が見えないことを確認すると小さく溜息を吐いた。
月子もマリアも、朝からミルダの前に現れず、もちろん祝福もない。ふう、と再び溜息を吐いて、とてつもない無茶振りをしてしまった自分自身を恨んだ。自分の誕生日にたいした執着があるわけじゃない。物なんていらないから、ただ、二人の「おめでとう」の一言がほしかった。あの質問の真意に気がついていれば朝一番に聞くことが出来たであろうに、自業自得とはいえ気分が落ち込むことを抑えることはできなかった。

ここ、帝都ユオは海から遠く遠く離れた場所にある。ユオに生まれ、ユオで暮らすという一生を送るとするなら、その生涯、海を見る機会はないだろう。外へ赴くことの多い職であるミルダでさえ、自身の恩人から話を聞いたり、本で読んだことがある程度で、実際に見たことはないし、どこにあるのかすら知らない。
月子もマリアも困り果てたことだろう。少佐という地位を持つミルダを気軽にユオから連れ出すわけにもいかず、広大な海を持ち帰る方法もない。もしかすると、今、この瞬間もどうするか迷っているのかもしれない。二人の姿が見えれば、すぐにでも撤回するのに。ミルダはぼんやりと静かな空を眺めた。





ユオに光を落としていた太陽がゆっくりと落ち、空が焼けて、影が伸びる。それでもやはり二人は現れなかった。自分が海を見たいと言ったばかりに、二人に何かあったのだろうか。期待と不安を織り交ぜた感情が少しずつ焦りに変わっていく。自室に帰ってからもちらちらと窓の外を見てしまう。空を自由に翔ける二人を見つけられるとは思わないが、自室で悩んでいるくらいなら足を使ったほうがいい。いてもたってもいられないといった様子で、ミルダはついに外へと飛び出そうとした。

「へぶっ」
「なんだよ、いきなり開けようとすんなよ。危ないだろ」

ノブに手を伸ばした瞬間、鉄製のドアがミルダの顔に叩きつけられる。痛む鼻を片手でおさえながら顔を上げると、申し訳なさそうにするでもなく、自分のせいで鼻をうったミルダを気遣うでもなく、きょとりとした表情でこちらを見る月子がいた。

「お二人とも、その、ぶ、無事でありますか?お怪我はないでありますか?」
「はあ? 怪我? なんだいきなり」
「……ああ、そういえば今日は顔を合わせてませんものね。大丈夫よ、少し手間取ってしまっただけですの」
「手間取った、でありますか?」

ミルダがぱちくりとまばたきをしてみせると、マリアはふわりと笑った。そして背に回していた腕をミルダの眼前に出す。そのてのひらの上には小さな瓶が乗っていた。瓶の中には水が張られており、小さな蕾が水面に浮かんでいる。

「マリアさんの花でありますか? 小さくて可愛いでありますね」
「ふふ、私たちからミルダへ贈らせていただきますわ。どうぞ受け取ってください」

マリアのひやりとした指先がミルダの温かい手を包み込むように滑り、そっと瓶を握らせる。受け取ったミルダは丁寧そうに、大切そうに、優しく握りしめ、揺れる水面を熱がこもった瞳で見つめた。

「綺麗であります……」
「ねえ、ゆっくり開けてみてくださいまし」

花のあまりの美しさに、体すら熱に支配されてしまいそうだった。その熱さを外へ逃がすように息を吐くと、緊張から少し震える指先で静かに瓶を開く。すると瓶の中で揺れていた蕾が花開いた。ゆるりと一枚いちまいと花弁が広がる様子から目が離せない。つい夢中になってしまいそうな光景だったが、不思議な匂いが鼻孔をくすぐったことで現実へと戻る。ミルダはふわふわと漂うその香りを自分へと寄せるように、手で仰いで吸い込む。

「ん、しょっぱい匂いがするであります……塩、でありますか?」
「まあ、塩だな。よく言うと海の匂いってやつか」
「その花に海の香を閉じ込めたんですの。ああ、そちらの水は海の水ですよ」
「海の、香り……」

この小さな瓶のなかに、自分が憧れた海が詰まっている。寄せては返す波と、潮の匂い。本のなかにしか、話のなかにしか、存在しなかった海が、ここにある。

「まあ匂いを閉じ込めたのはあたしの力だけどな!」
「あらあら、その容器となる花を創り出したのは私ですわ」

些細な言い合いからぴりぴりとし始める空気も、今のミルダには暖かいものに思えた。
海が見たい。それ以上でもそれ以下でもない望みだった。一目見ることが叶えばそれでいいと思っていたし、もし一生かかっても見ることがなくてもそれはそれで構わないと思えるくらいの願いだった。けれど自分の手のなかには二人が作り出した海がある。自分の手中にある瓶の重さが、ふわふわとした夢見心地から、ミルダを引き上げる。目頭がじわりと熱くなって、喉の奥で言葉がつっかえる。二人はいつだって、どんなときだって、とびきりの初めてを与えてくれる。

「ありがとう、であります」

あふれる涙を目の縁で留めて、少しだけ指先に力を込めた。揺れる水面と踊る花がぼやけて見える。玄関先で自分を迎える四角い空の隣に、瓶詰めされた海を置く。玄関の隅に収まるほど小さな空と海は、ミルダにとっては大きな世界だった。

「ああ、そうだ。忘れてたよ」
「あら、私としたことが大切なことを忘れていましたわ」

二人はいつもの笑みでミルダに向かい合う。

「誕生日おめでと、ミルダ」
「お誕生日おめでとう、ミルダ」




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