眩い光を見た――は思わず目を閉じた。反射からきた行動ではなく、自らの意思でその悪魔の死を見届けないことを選んだ。あれが裁きの光、あれが天罰。許されざるものの全てを無に還す鉄槌。次に目を開けるときにはもう何も残っていない。あの場にあった船も、あの場に立つ悪魔も、有象無象の区別なく、なにも。――はそうなることを知っていたし、実際に目にしたこともある。だからこそ何もせずただ時間が過ぎ去るのを待つことを決めた。
轟音が鳴り響き、――の生存本能が無意識のうちに体を縮こませる。頭を抱えるようにして耳を塞ぎ、瞼に力を込め、髪が乱れるほどの風を受けながら、小さく声を漏らす。
音が止み、風が止んで、それから少しして、そっと目を開く。いつ見ても惨いの一言しか出てこない、むしろその一言で済めばいいと言っていいほどに残酷な光景だった。――が目を伏せようとしたとき、視界の端で、影が動いていることに気が付いた。何もかもが奪われた地で、確かに一つの生命が活動を見せている。
「……う、うそ、でしょ」
船は木片すら残さず消し飛び、その周りの木々は燃え尽き、大地は抉れるようにして消え去っているにも関わらず、光の中心地にいた悪魔は楽しそうに笑っていた。創世者の裁きに、体の一片ですらくれてやらずに。
――は呆然としながら膝を折る。耳を塞いでいた手が、頬をなぞるように滑り落ちて、力なく地面に叩きつけられる。見開かれた瞳が揺らぎ、泳ぐ。先ほどの光景を何度も思い返しては、ひとつの事実を確認するように呟いた。
「……創世者の裁きは絶対じゃない。創世者は、完全じゃない」
それは種族そのものの常識を全て覆すものだった。例えるならば地球は丸いだとか空は青いだとか、そういった誰もが信じて疑わないような、根底にある事実が反転してしまうほどの衝撃だった。
創世者は絶対的な存在ではない。例えそれが今回だけだとして、一時的だとして、ただの一瞬ですら揺るがないと信じて疑わなかった存在がただの一悪魔に敗北した。
「……あとりは、死んでいない」
誰にも届かないほどの小さな声だったが、震えながらも吐き出した言葉は――の萎れた心を再び芽吹かせるには十分だった。
▽
思い出に浸るように目を閉じる。瞼の裏に映るのはいつだって彼の姿だった。鼓膜に残るのはいつだって彼の生み出す音だった。堕天し、光輪も羽根も醜く崩れ、無様に泣き崩れるその姿を見てもなお、天使だと賛美したあの無邪気な笑み。忌み嫌われたこの目を見つめて、綺麗だと言った時の真剣な目。成長するにつれてそういった存在が見えなくなっていくことを謝る優しい声。視認できなくても絶対に忘れないようにと揃えてくれた黒衣。
それでも――のことを完全に見えなくなってから、あとりは少しずつ――を忘れていった。それは人間にはどうにも抗いがたいことであり、仕方のないことであり、当たり前のことだった。――もそれを理解したうえであとりに寄り添っていた。少し悲しくはあったが、誰にも、それこそ本人にすら知られないまま、彼を守り続けているという事実がどうしようもなく誇らしかった。なにより、あとりがたまに、何もない場所でふと振り返ることがあった。忘れていても、心の奥底に自分の存在が根付いていることが、たまらなく嬉しかった。
だから、世界が許せなかった。
春崎の地に、神や言霊使い、野心を持った天使が集ったことで、春崎の崩壊という一つの可能性が浮上した。創世者は、春崎を担当する観測者である戸坂慶斗の安全を確保するため、梨木あとりと戸坂慶斗をリンクさせた。そうして梨木あとりの居場所に居座った戸坂慶斗は生存を保障されたわけだが、代わりに梨木あとりという存在は消えてしまった。というよりも、梨木あとりは戸坂慶斗になってしまったと言う方が正しいか。どちらにせよ、唐突に訪れたあとりとの別れに、――は動揺を隠せなかった。
助けたい。けれど、これは世界の選択だ。
無力な自分を何度も恨んだ。本当に大切な人すら救えない自分の能力を何度も嘆いた。もしも自分の能力がトロイラスと同じ存在操作ならば。もしも自分が悪魔のように犠牲は伴なえど何でも叶えることが出来るなら。それでも現実は変わらない。戸坂慶斗は梨木あとりの居場所で、今日も呼吸をしている。戸坂慶斗を恨んだことはただの一度もないが、疑問が尽きることもなかった。どうしてあとりが、どうやったらあとりは。それだけを考えて――はあの瞬間まで惨めに生きてきた。そう、世界も創世者も絶対ではないと知る瞬間まで。
あの瞬間に――は決意した。
「はじめまして、ミス・クラールハイト」
世界に、反旗を翻すことを。
▽
「随分なご挨拶だね、美しい夜が台無しよ」
ミルヒシュトラーセは――の急襲を特に驚く様子も見せずに難なく受け止め、武器である大きな鋏を下ろす。風が二人の黒衣がはためかせ、月が二人の顔を照らす。美しい月夜の下で、堕ちた神と天使の視線が交錯する。
「……さて、何か用事でも?」
――が次の行動を起こす前にミルヒシュトラーセが先手を取る。表情を伺うかのように首を傾げ、本質を見定めるかのように――をじっと見つめる。そんなミルヒシュトラーセの言葉と仕草を見た――は手を口元にあて、目線を落として少し考える素振りを見せたあと、戦う意思は失せたと言わんばかりにそっと目を閉じた。
「いや、まずは非礼を詫びよう。申し訳ない。堕天神と聞いて、理性がないものだと決めつけていた」
ミルヒシュトラーセも敵意がないことを感じ取ったのか、持っていた鋏を消し、さらに問う。
「構わないよ。それで、教会になにか?」
――はゆっくりと目を開き、ミルヒシュトラーセを見据える。あの瞬間まで曇っていたアレキサンドライトには光が差している。
「教会ではなく、君か、もしくは君の片割れに頼みがあって来た」
「それならまずは私が聞くよ。どうぞ、言ってみて」
「君たちの力を頂きたい。少しでもいいが、可能であれば許す限り」
――の言葉は、本気かと問うにはあまりに馬鹿らしく、冗談だと笑い飛ばすにはあまりに真剣だった。ミルヒシュトラーセは嘲りや憐みではなく、同情に似た感情を覚えた。それも、理由も知らないまま。どこか似通ったところがあるのかもしれない。思想か、理念か、はたまた根底にある何かか。とにかく何かが似ている。少しならば施してやるのもいいとすら思った。しかしミルヒシュトラーセにも譲れないものがある。この教会とこの教会で主の帰りを待つ少女を守り続けなくてはならない。それも、自分の力で。
「悪いけど、それは協力できないね」
「ああ、分かっていた。いきなり襲いかかったにも関わらず、こちらの話に耳を傾けてくれただけでもありがたい」
「……それにしては、納得していない顔をしているね」
「すまない、こちらも引けない理由があるんだ」
「けれどあげられないものはあげられないの」
「ならば、力づくになるがよろしいか」
そう告げると――は身を屈め、戦闘態勢に入った。青と赤が交じり合う眼には欲望の色を宿し、夜を描いたようなドレスの裾は漏れ出た力によって舞い上がる。誰がどう見ようとそれは明確な敵意だった。
ミルヒシュトラーセは分かり合えなかったことへの悲しみと、説得しきれなかったことへの後悔をこめて息を吐き、再び鋏を持つ。
「名も無き存在と相対する神の御心に感謝しよう」
「感謝を捧げるべき神に楯突く不遜の振る舞い、改めてもらおうか」