教室で友達と談笑している時。廊下からかすかに足音が聞こえた。
ごく当たり前で、気にも留めないようなこと。けれどやけに鋭く響いているような気がして、友達に一言断って廊下に出る。右、左、と確認していると、昇降口側から歩いてくる人が見えた。かつり、かつり、先ほどと同じリズムで繰り返される音は、その人の歩みと同時に鳴っていた。少し目を細めてその人を見つめる。
安い蛍光灯に晒されながらも、極上の金糸のようにきらきらと輝く金髪と、前だけを見つめる青い瞳。背筋も、指先も、自信に満ち溢れているかのようにぴんと伸びている。物語の王子様のような風貌をしていたが、学ランの裾から覗く赤いスカートに女の人だと分かる。麗人、そんな言葉が浮かぶ。もはや綺麗や美しいなんて言葉じゃ足りない。麗しいという言葉がぴったりだった。
でも、何かが違うと本能が呼びかける。この学校には似つかない、ちぐはぐさがある。だからつい、彼女が私の前を通る瞬間、手を伸ばしてしまった。しかしその人は突然腕を掴まれたにも関わらず、体制を崩すこともなく、驚いた様子もない。ただ私に視線をよこし、じっと見つめていた。
「なにか用か」
凛とした声に、はっと我に返る。用がなんなのかなんて私も分からない。だって、彼女を引き留めたことに理由なんてない。ただ違和感があったから、なんてあまりにふざけていると思う。けれど、あえていうのならその違和感だけが理由だった。
「誰、ですか?」
他に、どう聞けばいいのか思いつかなかった。名前でも役職でも、彼女の正体でも、ここにいる理由でも、何かが得られればいい。そんな賭けじみた問いかけに彼女は少し首を傾げて顎に手を当て、少し考えるような仕草を見せる。その姿も、まるで人間ではないように美しかった。
「……私は、そうだな、かふか。野宮かふかだ。今決めた」
「い、今?」
「そうだ。だがこの主張は事実になる。君はそれを受け入れる。それが、私が定めた規律だからだ」
"野宮かふか"を名乗る人物は、言葉の一部すら理解ができないままでいた私を置いてけぼりにして、私が掴んだ腕とは逆の手で私の額に触れた。ほんの少し抵抗すればすぐに離れてしまうほどに、優しく、かすかに。呆ける私をあざ笑うかのように甘く微笑み、彼女は告げた。
「君は"野宮かふかを知っている"。そうだろう」
彼女の腕を掴んでいる指先の感覚がなくなる。触れられた額から微弱な電流のような、冷たい泥のような、何かがゆっくり流れ込む。怖い、こわい。怖いのに、動けない。成すがままになっていたら、どうにかなってしまうかもしれないのに、まるで悪い魔法で体が凍り付いてしまったかのようだった。ぱちり、どろり、と私の中に何かが落ちてくる。どうしようもなく気持ちの悪い感覚にぎゅっと目を閉じて耐えようとしたとき、彼女が私から離れ、私を侵食していた感覚がぴたりと止む。
「……まさか、こんな娘に神の加護がついているだなんて」
ぼそりと呟かれた言葉に能星先輩の加護が未だに私を守ってくれることを知る。彼はいつだって、私に勇気をくれる。
「質問に質問で返すのは無礼だが答えてもらおう。君は誰だ」
「に、にのまえ、ふみ、です。一年B組、天文部、です」
私の額に触れていた手をさすりながらこちらを睨み付けている彼女に控えめに名前を名乗る。名乗るべきじゃないとわかっていたのに、気が付いたら名乗っていた。口が勝手に開いた。声が勝手に紡いだ。まるで、見えない何かに強制されたようだった。
「……天文部の、ニノマエ、フミ。そして神の加護。ああ、ようやくわかった」
「……なにが、ですか?」
「君は、被害者か。八月七日の、あの悲しい日の、あの悲しい事件の」
その言葉を聞いて、この人は人間じゃないと確信した。納得したように数度頷く彼女はもう私に対しての敵意はなく、むしろ友好的に接そうとする雰囲気すら醸し出している。けれど、どうしても一つ認めたくない言葉があった。どうしても受け入れられない一言があった。伝えるべきか、そうでないか、迷っている間にに彼女はさらに言葉を続ける。
「突然現れた神と鬼、そしてヒトならざる人。彼らの争いに巻き込まれたと聞く。彼らと出会ってからはまさに悪夢だったと私たちの耳にも届いている。さぞつらかっただろう。君が望むのなら私がその記憶を、」
「やめてください! 私は被害者じゃない、あれは悪夢なんかじゃない!」
伝聞をそのまま口にしているのは分かっているし、彼女に訂正をぶつけたって何も変わらないのは分かっている。こんなの八つ当たりだ。けれど彼女の知る八月七日は、まるで私だけが、蚊帳の外みたいだ。
「私は自分で選んだんです。みんな、あの場所でずっと笑っていたんです。あれは悪夢じゃない、夢なんかじゃない」
吐き捨てるように告げて、彼女に背を向けて走り出す。彼女の正体は分からずじまいだったけれど、人間ではない存在にすらあの出来事を悪夢だと称されるのは、あまりに耐えられなかった。私たちの未来のために、私たちが生きているこの"今"のために、頑張ってくれたのは先輩たちなのに。
▽
「あーあ、かふかちゃんたら、女の子泣かせちゃった」
「……後に、謝罪に向かうさ」
ふみが走り去った方向を見て、泣いていたその背中に届かなかった手を下ろしたかふかの肩に、男の手が回る。赤い髪と耳を彩る様々なピアスが印象的な男だった。男の手が肩に触れる瞬間、かふかは表情を崩すことなく叩き落す。手をさすりながら離れていく男はまるで先ほどの自分のようだ、と眉間に皺を寄せたかふかを男は明るい声で慰める。
「ま、仕方ないよ。俺らとは考え方が違うし」
「……ああ。だが、人間の思考は時に天使のそれすら超えてしまうものだな」
ぽつりと零したかふかに対して、男は自分の耳につけられたピアスのキャッチをいじりながらその言葉を拾う。
「自分を加護してくれた神様を馬鹿にされたように感じちゃっただけでしょ」
確かに頷ける。死してなお加護は消えず、かふかの能力すら退けたあの力を崇拝しているというのなら、彼の言う通り、信仰している対象への侮蔑が癇に障ったのだろう。
しかし、本当にそうだろうか。あれは現実に起こったことで、ありのままの現実を現実として受け止められるほど理性的な彼女が、先輩という近しい存在として生きていた彼らに、信仰や崇拝を捧げたのだろうか。ただ、そうだとすればあの加護の理由がつかない。あれはまさに、神から与えられたものだった。悪意をすべて弾き飛ばす加護。結界。懇願して与えられるものよりもずっと濃く、鋭かった。神が、自ら選んで、自ら与えたとしか考えられない。
それになにより、彼女は彼らが神や鬼だと知っていながら、"みんな"と言った。そして彼らと対等に笑いあっていたのだとも。また、それを驕るわけでもなく純粋に誇り、あの出来事はけして悪夢ではなかったと胸を張っていた。
「……いや。憶測にすぎないが、おそらく彼女にとってあの出来事はきっと忘れたくない思い出なのだろう」
「なにそれ、わっかんねー」
思考の海の中で、かふかは深く同意した。到底理解が及ばなかった。けれど、今までの経験と彼女の人間像からはその答えしか浮かばなかった。
そっと目を閉じて後に告げることになるであろう謝罪の言葉を考える。しかし、人間の思考を理解できないかふかの思いつく限りの謝罪は、どれもうわべだけのものばかりだった。