20170703にしたかったもの
「ミルダ」


知らないその声が、聞き覚えのないその声が、どうしようもなく自分を責めたてる。

勢いよく起き上がると頭が締め付けられる。和らげようと添えた指先に、額から伝った汗が流れ、落ちた。やわらかな手の甲に滴ったしずくの音が、嫌になるほど耳に残った。

何かよからぬ存在の誘いかと思うほどに、低く、暗い声だった。真相など知るすべのないミルダは、唐突に自分を襲った恐怖と焦燥に、ただ呆然と空を眺めるしかなかった。

帝都の我輩が殺した人間かもしれないし、現在の私に恨みを抱く人物かもしれない。怨恨の可能性なんで指じゃ到底足りない。
今まで当たり前だった事実が、あの声に突きつけられると少しだけ怖くなった。

目を閉じることで恐怖から一時的に逃れたミルダは、絡まる思考の糸を放り投げて、再びベッドへと体を沈める。耳を塞いで、深く息を吐く。心臓が握り潰されてしまいそうなほど縮こまる。
もう、ずっと昔の話なのに。
いつもなら、あの時の生き様に間違いはない。間違いがあるのなら今回は正しく生きればいいとすんなりとほどけるのに、今日に限って離れてくれない。せっかくの誕生日が台無しだ。


「ああ、もう!」


苛立ちを吐き出して、ベッドから足を下ろす。床には触れない位置で足を揺り動かし、定位置にあるはずのルームシューズを探すが、なかなか指先にかからない。
本当にろくでもない日だ。ため息をついて床に降り立った。


「えっ? な、なにこれ」


ミルダの足が床に触れた瞬間、その箇所が淡く光り輝いた。驚いてもう一歩踏み出せば、足の周りに小さな花が咲き乱れ、ゆっくりと散って消えてゆく。


「す、すごい! 魔法みたい!」


ミルダは軽やかな足取りで、光と花を追うように部屋から躍り出る。
とん、とん、と一歩踏み出すだけで、何の変哲もない廊下も、飾り気のない階段も、シンプルなリビングまでもが、華やかで鮮やかな舞台になった。

ただ、家の中のすべての場所がそうというわけではなく、どうにも部屋から玄関までのようだ。
好奇心を抑えきれないミルダは部屋に戻って着替え、花に彩られた帽子をかぶると、朝食も取らずに家から飛び出した。


「庭まで……すごく、きれい」


誰の魔法か、誰の花かなんて、考えなくたってわかる。前に進むたびに先ほどの憂鬱が嘘のように晴れてゆく。
いつだって、二人は特別だった。不器用でも、寿命がずっとずっと短くても、そばにいてくれる。寄り添ってくれる。
進む足に力が入る。踏みしめるように動いていた足が早歩きに変わる。早く、早く会いたい。

庭の少し奥まったところにあるローズアーチの下に、見慣れた姿がある。呼吸を整えながらゆっくりと足を止めた。


「遅えよ。待ちくたびれた」
「ふふ、アップルパイと紅茶を用意していますよ。さあ、どうぞ」


二人が手招くままにアーチを潜ると、美しい花々が咲き乱れた庭園があった。この場所は放置されて鬱蒼としていたはずなのに。驚きながらきょろきょろとあたりを見渡すミルダをよそに、月子は音を立てて椅子に腰掛けた。


「はー、朝から疲れたぜ。お前んち広いんだよ。前は豚小屋みたいなとこだったのに」
「ぶ、ぶたごや……」
「いいではありませんか。どうせ普段ろくなことに使わない魔力の有効利用ですわ」
「は?」
「あわわわ!はわわわわわ!まままま、マリアさん!つつ、月子さん!落ち着いて……!」


いつもの流れに、月子とマリアは少しだけ柔らかく微笑んだ。その表情を見て、ミルダも幾分かこわばった顔を和らげる。


「ミルダ」


愛おしそうに自分を呼ぶ声が心地良い。
もう、あの恐ろしい声は聞こえなかった。


「お誕生日、おめでとう」




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