「ぱんぱかぱーん」
足音もなく唐突に現れ、こちらを見るなり抑揚のないファンファーレを口ずさんで、有明は自分の前へしゃがみ込んだ。普段から何を写映しているのか分からない赤い目が真っ直ぐに自分の瞳へと視線を注ぐ。彼女の赤に映る自分とは視線が交わるのに、彼女自身とは目が合った気がしないのは彼女の持つ雰囲気のせいだろうか。秋の空模様のようにころころ変わる話題と、雲のように掴めない性格、風に揺れる葉のようにあちこちに揺れる瞳。きっと彼女を理解できる者は、今までにも、今も、そしてこれからもいないだろう。自分でさえも掴みきれない。だけどそれもそれでいいと思う。きっと俺の鏡ですら読み取れない彼女の全てを知った時、俺は彼女への関心が一切なくなるだろう。俺たちを結ぶのは絆だとか赤い糸なんて大層なものではなく、好奇心だとか探究心だとか、相手のことを暴きたがる心情ような、ちっぽけで脆い糸で細く繋がっていると思う、お互いに。
「今日は彩雲に報告がありまーす」
そんな他人から見たら笑われてしまうような関係だからこそ、お互いのことはお互いに誰よりも深く、他の誰にも踏み入れないところまで熟知している。袖からちらりと覗いた腕に埋め込まれたように存在する目が少しだけ開かれているから、おそらく喜ばしいことか、それとも彼女なりにいいことを思いついたかだということも、今ここで特に返事をするでもなく、黙って彼女の言葉を待てばいいだけのことも。少しの沈黙の後、彼女はやはり気にした様子もなく言葉を紡ぎだす。
「彩雲は緒さんって知ってますかねー、近くの川に住む川姫さまなんですけどねー。そのお姫様が……僕を、僕たちのことを、必要だって、力を貸してほしいって、ついて来てくれないかって、言ったんです」
最後の方は何かを、おそらく喜びを抑えながら言ったのだろう。一言ずつ詰まって、必死に吐き出したようだった。有明は胸元を抑えながら、頬が朱く染め、口角を震わせた。わざわざ僕たちと言い直したあたり俺も含まれるのだろう。忌み嫌われる俺たちを引き入れようなんて物好きなひとだと思いながらも、有明が始めて見せた表情から目が離せなかった。嬉しいということを、こうも上手く表現できるなんて、知らなかった。緒というまだ見ぬ川姫の名を胸に刻んでその表情を目に焼き付けた。
それが、つい最近のこと。
そして、凛とした佇まいでこちらを見据える濁った双眸と対峙したのが、今。
「あなたが彩雲ですね。こちの名は緒、どうぞこの名を胸の片隅にでも残しておいてくだされば光栄です」
答えないまま何もない空間へ鏡を出す。川姫を映せば、川姫の過去も、今の思考も、全て水のように頭の中へと流れ込む。ミルダという人間に恋情を抱き、力づくで手に入れようとしていること。しかしその人間には天使と悪魔が四六時中ひっついて自身だけでは不可能だと考えたこと。しかしそんなことでは到底諦めきれないこと。だからこそ俺たちの協力、いや、正しく言えば利用だろう。
「こちの考えは読めましたでしょうか。こちはお前を利用しようとしています。言葉は悪かれど、こちはお前と有明が必要なのです」
「……俺に利益がない」
「その通りです、こちには差し上げられるものなどありませぬ。なれど、見返りになるかはお前たち次第ではあれど、お前たちへ無償の愛を捧げましょう。それすら厭わぬほどにこちはお前たちを必要としています」
形にしなくとも分かる圧倒的な差に押し潰されそうになりながら絞り出した拒絶に、大海のようにすべてを抱擁するような言葉が重ねられ、ぐっと息が詰まる。真っ直ぐに射抜く瞳と視線が交わるだけで膝をつきたくなるくらい、強い目だった。自分の全てを暴かれてもなお、凛々しさを失わないその姿と雰囲気に呑まれてしまいそうだった。上に立つべくして生まれた存在とでもいうのだろう。先ほどの言葉の真偽など鏡で映さなくても分かる、まごうことなく本気だろう。空よりも広く、海より深い愛を、赤の他人に注ごうという。有明はきっと、言葉だけでなくこの威徳や独特の感覚に身を委ねたくなったのだろう。自分もそうだ。気がつけば差し出された青白い手をとっていた。
「お前自身も、お前にしか見えぬものも、こちが全て受け止めましょう。お前はただ、こちについてくればいい」