幻月の環をかかぐ


 自分自身を戒めるように抱きかかえ、宮中の奥で震えていたのはまた十を少しばかり過ぎたころ合いの幼い少女だった。癖毛の強い長い髪は腰に達し、その色は白銀に輝く。上等な絹にくるまれたその身体の至るところは赤く染め上げられていた。匂いは鼻につくような鉄。それが誰かの血であることは確かだが、誰のものであったか考えるだけの力はもはや残されていない。全身に襲いかかる痺れは、彼女が血の穢れにもっとも弱いころを示していた。元来、肌の色は人形のように白く、また陶器のように麗しいものであったが、今は見る影もない。

「おうきが、絶たれた」

 幾多もの刃を交える音が、人々の怒号が響き渡る中、少女はぽつりと呟いた。その小さな姿を抱きかかえる真白の腕がある。それは女のようなしなやかなものだったが、腕しか見えないゆえに判断はできない。台輔、と少しばかり低い女の声が響いた。それは腕の持ち主であろうか、少女を労わるように、慈しむように発せられる。少女は、それきり何も言わなかった。
 それは突然訪れた。少女にとって、いや、宮中のものにとってそれは悪夢のような時間だった。反旗を翻したのが誰であったのか、今ではもう知る由もない。時間が過ぎゆくのを、少女はただ見つめるしかできなかった。ただ、最後に聞いた敬愛すべき王の声が、少女の中に残っている。少女はそれを思い出し、その時はじめて、透明な涙を流した。
 王気が絶たれたことはすなわち、王の死を意味した。天帝が選びし王は、逆賊に、呆気なくもその命を絡め取られてしまったのだ。天啓が国のためにあのお方を王と選んだというのに。誰かが、否、この国の民が、王を殺したのだ。少女は絶望せずにはおれなかった。治世はわずか46年。これから国は発展していくはずだった。他の国に負けないような、それでいて豊かな国に。だが、王は死んだ。これからこの国は荒れであろう。しょうがないと思ってしまった。土地が枯れるから作物は実らず、妖魔が現れ人を食う。玉座に王がいなければ、国が荒れるのは道理。誰でもない、国民が、それを望んだのだから。
 十二もある国のうち、北方に位置するこの辿極国は、とりわけ、寒さに厳しかった。それが冬ともなれば、当たりは一面が白に代わる。冬には作物は何も実らず、また他国との行き来も難しくなるがため、春の間から食糧を蓄えておかねば冬を超すことができない。「崩御」と白雉が泣いたのは、そんな寒い冬のことだった。

 血の匂いを近くで嗅ぎすぎたせいか、また人の死を身近に感じてしまったせいか、理由はそのようなものだが、辿極国の麒麟は病んでしまったと噂が流れた。それは癒えることのない、心の病。
 いっそ殺してくれと叫び続けているのは、まだ十を少し過ぎたばかりの見た目の幼い少女だった。名を填燐。辿極国の幼い麒麟であった。


・・・

 王が崩御して3年、麒麟は生きてはいたが、病を背負っており新たな王を選ぶことなどできはしなかった。もちろん、国は荒れる一方だった。市井の人々は新たな王が立つ目通しがないことで、国を出る選択を迫られていた。もう王宮にすら、蓄えがわずかだった。今日を生きることが、その日に課せられた唯一の課題。自分だけで手いっぱい。いっそ麒麟が死んでいれば、新たな辿果が蓬山の捨身木に実り、天が新たな麒麟を授けてくれる。生きているというのに王を選べない病を背負った麒麟より、その方がよほど国のためではないか。天は、この国を見捨てたのか。罪のない人々の間では、絶望のあまりそんな勝手な憎しみが芽生えていた。役に立たない麒麟など、麒麟の意味すら忘れた麒麟など必要ない。己の生活のことで手いっぱい、天王母にその傷をいやしてもらうことでしか癒えることができないほど病んでしまった哀れな麒麟のことなど、憐れむことができないほどに。
 さらにそれから半年が過ぎた。妖魔が海に出没し、国を取り囲むようになり、取り残された人々はもはや国を出ることすらかなわなくなっていた。


「台輔は蓬山におられるのだろう。なら俺は昇山し、台輔に乞うてくる!このままでは国は死ぬ。黙って見ていることしか出来ぬなら、せめて台輔に」
「けれどもう国の周りには妖魔が出ると聞く。死に行くようなものだろう」 
「このままここに居ても死を待つだけだ。もう蓄えは尽きた。俺たちに残されているのは飢えだ。…ああ、配陽ではもう妖魔が出ると聞く。ここに出るのも時間の問題だろう。その妖魔に食われるのも待つかだ。待ちわびるのが同じ死なら、せめて国のためになる死を選ぶ」
「国を出たとて黄海を渡る術はあるのか?」
「国を出てみないことには何とも言えない。だが妖獣のあてならばある」

 まるでたとえるのならば燃え盛る炎のようだった。その眼差しが己の中にある何かをくすぐる。ふ、とため息をついたのは、短い青い髪を散らした男だった。目の前の男が熱い炎ならば、その男は静かなる青い炎。
 長い沈黙の末、彼は頷いた。

「分かった。…俺も共に行こう」
「天文…」
「一人の旅より、二人の方が気が楽だろう。それにお前一人では心配だから」
「済まない。…感謝する」

 もうすぐまたあの長く恐ろしい冬がやってくる。その前にここで立たねば、待ち受けるのは無残な死しかない。男は固くこぶしを握りしめる。せめて麒麟に国の惨状を己らの口から伝えることができれば。麒麟が今どのような状態にあるのかさえ分かれば。せめて。せめて。男の決意は固い。それは握りしめられた拳と、ほぼ同様に。


血に狂った麒麟、市井の男