雛のいない庭
今日もまた一人の年若の女仙は、寝所で死んだように眠りにつく小さな麒麟に視線を配り、憂いげに目を伏せる。鈴を転がすような声で己の名前を呼んでくれていたというのに、今はその声を聞くことすらかなわない。かつての幼子特有ふっくらとした愛らしい頬は痩せそげてしまい、陶器にも似た肌にハリはない。辿極国の宝玉とまで謳われたその麒麟は、かつての見る影もなかった。
「…填燐」
名を呼べば、いつかまた自分に手を伸ばしてくれるかもしれない。抱き上げてほしいとねだってくれるやもしれない。だが、彼女は運び込まれたその時より一向に目覚める気配がなかった。―もう半年になる。
この幼い彼女の本性はこの世で最も尊い獣、神獣麒麟である。天意に沿い、王を選定することのできる唯一の存在だった。その実は慈悲と慈愛でできていることから、民意の具現化したものとまで言われている。彼女―填燐が王を、ここ蓬山から選定したのは、十を少しすぎた夏至の頃だった。填燐よりも少しばかり年を召した齢19歳の娘であった。先の填王は溌剌として、明るい娘であった。麒麟旗があげられると途端に他の昇山者に混ざり、険しい黄海を超えて、蓬山にたどりついたのだった。ともかくもこの小さな填燐はその娘を王にえらび、生国にくだったのだった。それももう46年も前の話になる。
填王、崩御。その声が蓬廬宮にもすぐに知れ渡った。その理由が逆賊に弑されたのだと聞いて、その年若の女仙は、すぐにあの愛らしい麒麟の安否を心配した。すぐさま白圭宮へ使いが出され、その実情を知ることになった。填燐は病んでしまった、失道ではないその病は天でなければ治すことができない。填燐の身柄は蓬山へ、そして西王母のもとでその病をいやしてもらうこととなった。だがどういうことか、西王母が手をつくしたとて、填燐が目覚めることはなかった。そんな状態の填燐を、ましてや内乱の最中にある白圭宮に戻すわけにはいかない。国の者には最低限のことだけ告げ、填燐は再び蓬山で過ごすこととなった。生まれた時との相違は、明らかであった。
「填燐、起きてくださいまし。とても綺麗な花が咲いたんですよ」
そういえばこの麒麟は花が好きだった。新しい花が咲いたと、女仙たちに見せてくれたものだった。好きな花を飾れば、きっと填燐も起きてくれる。そう思って毎日毎日違う花を活け続けた。いつか「綺麗」、そう言って起きてくれることを願っているが一向に、目覚めてはくれなくて、苦笑をこぼし、いつも俯く。
蓬山にいる女仙は総てここで生まれる麒麟のために存在する。麒麟が生まれ、生国にくだるまでの間、蓬廬宮の主である麒麟の世話をするのだ。だが麒麟がいない期間の方が総じて長い。麒麟の世話ができることの喜びはないが、それがこのような姿になってしまっては、喜ぶことはできはしない。特にこの女仙にとって、填燐は特別といってよかった。初めてお仕えした麒麟が、この填燐だった。表情こそ乏しいがいつまで経っても甘えん坊で、よく抱っこをねだった小さな手。今は動くことすらできないその手にふれ、女仙は悲しげに眉を寄せる。
填燐が王を選んだとき、寂しくもあったが誇らしかった。どうぞお健やかに。そしてよい国を。そう言って見送った46年前、こんな日が来ようとは思いもしなかった。
「填燐、お労しや…」
「いっそ王とともに斃れていたら…。哀れで仕方がない」
「滅多なことを言わないでください。填燐が生きていただけでも、それだけでも…!」
「そりゃああたしたちだって填燐がかわいいし…」
運び込まれた当初、女仙たちは口ぐちにそういった。その時の贔屓目もあるが、他の麒麟よりもどこか幼くあどけない填燐を、それはそれは蝶よ花よと可愛がった。悠久の時間を持つ彼女たちにとって46年というのは、長いようで短い。その時を経て戻った填燐は、身近に血を感じ、そして自分の半身とも呼ぶべき何よりも大事な王の死を体験したがゆえに哀れなほどに病んでしまった。王が道を失う、失道とは別の病。血を厭う慈悲深い生き物なだけに、その病は根深く填燐の身を蝕んでしまった。蓬山にたどりついた填燐は自身を抱きしめ、強く震えていた。西王母のもとへ連れていかれ、再び見えたその時、すでに深い眠りについてしまっていたのだ。それ以来目を覚ますことはない。
「……填燐、どうかもう一度だけ」
女仙の声は、悲願に満ち溢れていたがしかし、填燐が目覚めることはなかった。
◇
台輔、と深淵の闇から声が掛かる。その声に応えようと口を少しだけ開けてみるが、彼女が発したはずの声はただ空気に触れて消え去った。それでもなんとか応えようと体を起こしてみようと力を込めてみても、指一本とて動きはしなかった。途端に鼻元を錆びた鉄のような、彼女自身に害をなすおどろおどろしい匂いが掠めて疲労感に襲われ、身は恐怖で固まった。瞼は何か強いものに張り付けられてしまったかのように頑なに開かない。再度、台輔、と声がかかった。だがその声も、随分と微弱なものでしかなかった。自分が病んでいるから、と彼女はぼうと考えた。自分と深くつながりを持つ彼らもまた、病んでしまっているのだと。
―――ほら、填燐、見てごらんなさい!
愛する王が、自分の手を引き、地上に広がる国を見て、にっこりと笑った。その顔を、どこか誇らしい気分で見上げた。自分の王、この国の王。明るく、どこまでも澄んだ優しい人。ああ、この人のおかげでこの国は豊かになる。民は等しく、豊かになれる。填燐は、その乏しい表情の中で、少しだけ笑みを浮かべてみた。それを見た王は、まるで自分のことのように嬉しそうにはしゃいだのだ。その時、填燐は北の方角から、温かくて優しい金色の光が近づいているのを感じて、王とつないだ手を離す。王は少しだけ寂しげにその手を見やり、それからにっこりとまた笑った。いいのよ、行ってらっしゃい。いつものように溌剌と、きっぱりと言ってのけたその声を振り返ったが、もうそこに王はいなかった。もう一度、北の方角から暖かい風が吹き抜ける。それは一度目の時と対して変わりはなかった。あたたくて、やさしくて、それはきっと自分のため、強いては国のためにあるもの。
それは彼女が眠り続けて三年後に起きた奇跡。つ、と頬を伝ったのは紛れもなく涙、ぴくりと瞼が動いた。花瓶に新しい花をいれて、三年経った今日も変わらず「填燐、花がきれいに―」咲きましたよそう続けられるはずだった言葉は、女仙が花瓶を落としたことによりかなわなかった。ふるえる女仙は、落ちて割れた花瓶のことには目もくれず、真っ先に寝台にかけよる。填燐の以前よりもだいぶ痩せた頬を撫で、艶をなくした髪を撫で、そして抱きしめた。それでもすがるように回された手の大きさも、抱きしめた体のぬくもりも変わらない。涙を流して自分を強く抱きしめる女仙に、填燐はただごめんねと繰り返した。