瞬く間の幕間
世話役の三公も、側仕えの女官たちもさがらせ、爽西国の王はひとつため息をついて正殿にこもる。
彼が玉座について、はやいもので幾重もの年月を重ねてきたが、未だ彼の悩みはつきない。国情はゆるやかにだが、安定に向かっているように思えた。少なくとも、彼が玉座に腰を据えたその時よりかは遥かに。優秀な官吏と、有能な宰輔―彼を王へと据えた神獣、麒麟―がいるのだから、当たり前といえば当たり前だが。もちろん、彼自身、使い物にならない足と手をのぞけば、王にたる資質を存分に持ち合わせている。気さくな性格と明るさで宮中は華やいでいた。何の問題もなく進んでいると思っていた。
幼い少女に向けられた切っ先が突きつけられた瞬間、金色の髪が目の前で散らばって、大勢の悲鳴と怒声が響いた。ああ、台輔を下がらせなければ、と至極冷静でいられたのは余りにも非現実的であったからだろう。
禁門をくぐり抜けるだけでも容易ではないというのに、宮中へ赦しもなく入れるわけがない。見るからにただの町娘のように思える。それが鋭い視線と、振り乱した髪、何よりその手に持つ刃物が不釣り合いすぎた。これが大漢だったら、ある意味納得もできて慌てもできるだろうに。
「相麟、おまえは、さがれ」
「っだが!」
「あいつの狙いは俺のようだし、お前にこんな場所は毒だろ」
おそらく、彼は麒麟という存在を清廉潔白なものだと理解していたのだ。正義と慈悲でできた神獣は、血の穢れによって病んでしまうことも、そのことが原因で命を落としてしまうことだってある。穢れを知らない麒麟に、このような場所は似合わない。ましてや、王の命を狙ったあの少女は大罪人だ。いかなる理由があるとて、裁かなければならないだろう。命のやり取りを麒麟である相麟に見せるわけにはいかないと、純粋に思ったのだ。自分の前で守るように立ちはだかる相麟の腕にふれ、己が1歩前に出れば、少女はさらに髪を振り乱した。その際、きつく結われたおさげがほどける。部下たちによって押さえつけられた四肢は細く、頬もどこかこけていた。
「王なんて。王なんて、意味もない!」
少女は呪いの言葉を吐き続ける。王である己にむかって、あるいは、天帝自体にむかって。この世界の仕組みの不可解さを、残酷さを吐き出し続けた。
―これは、民の総意なのかもしれなかった。ゆるかやだが安定に向かっているはずの国の隅で渦巻く薄暗い靄なのだ。見て見ぬふりをしてきたツケが、今まわってきたのかもしれない。
恨みが、国を飲み込むのだと彼は理解した。
「主上」
気丈にふるまう相麟だが顔色はどこか青白く、声にもいつもの覇気があまり感じられない。相王―颯馬はやはり、と眉をよせ、首を横に振る。
怨恨云々は、麒麟に毒だ。ましてや突きつけられる切っ先は真っ直ぐ己に向けられていた。いくら普段柄厳格な態度をして、穢れなど微塵も感じないと言わんばかりの相麟でも相容れない事柄なのだ。
「考え直してください。1人の民です。まだ、幼い」
「―今更俺の命を狙った、それが怖い、なんて言うつもりはねーよ。けど、俺がもしあの場で倒れていたら国は倒れる。死ぬまで行かなくても血を流せばお前…台輔が病む。この小さな罪が、大きなことを引き起こすんだ」
「主上」
「わるい。今は、1人にしてくれ。1人で考えたいんだ」
重くのしかかる圧に押しつぶされそうになり、しばらく1人になりたいと人払いをして王の私室に引きこもる。
「ちくしょう」
零れた声は、己を恨む言葉だった。この言葉に乗せられるのは後悔、これを相麟に、否諸官に聞かせるけにはいかなかった。
ゆるやかに安定していったって、すべての国民にその施しが行き届かなければ意味を成さない。雲海の上にいては民の声など届きはしない。玉座に座った時点で人ではなくなった。今はまだ人としての感性も思い出も残っているが、そのうち消えていくのだろう。彼に、人である民らの求めることが理解できるのだろうか。―そうして、国は、滅んでいくのだろう。いくら名君とはいえ長きにわたる治世を果たせるものが少ない理由はおそらくここにあるのだろうと彼は悟った。
「ちくしょう」
これは、彼が味わった2度目の挫折だ。