百年モラトリアム
窓を三回ノックする音。被っていた布団を慌てて取り払って、窓の鍵を捻る。古い格子が軋む音を立てないように慎重に窓を開けた。まだ少し寒い夜風が吹き込んで、カーテンが煽られる。その隙間からゆるく微笑んだ口元が見えた。
「おはよう陽成菊さん。いや、こんばんはだね」
二井山先輩!
先輩と今夜、近くの山で藁人形を打ち付けてみようという話になっていた。
時間近くになったら迎えに来るとは言っていたが、まさか部屋の前まで来てしまうとは思わなかった。ここまで監視カメラや防犯システムがあったはずなのに、二井山先輩はケロッとした顔でそこにいる。
驚いてなにも言えないでいると、「ああ」と先輩は口を開く。
「このセキュリティ、うちでも使ってるけどこの辺弱いらしいからね。気を付けた方がいいよ」
「なぜそんな事が……!?」
「調べたんだ。自由がないのは悲しいからね」
先輩は私を見上げて手を差し出す。恭しいその仕草は、なんだか漫画の中の王子様みたいに思えて嬉しい。そういったものに憧れがないわけがなかった。
迷わずにその手を取って、私は窓枠から身体を乗り出す。夜中に出歩くなんてわるい子、と心の中で責める声が聞こえる。父に見つかったら一生外に出られないかもしれない。それでも高揚感はおさまることを知らず、ただただ心臓を激しく動かすだけ。
「先輩……!」
「おっと、」
先輩の腕に飛び込んで、ゆっくり地上に下ろしてもらう。くるくるは今回勿論なかったけれど、少し残念だった。
「じゃあ行こうか」
手を繋いで、逃げるように家から出る。曲がり角を曲がる前にふいに家を振り返ってみたら、とてもとても小さく見えた。どっちが先だったのだろう、ふたりでくすくすと笑い合う。なんだか酷く愉快だったし、握られた手はあたかかった。月明かりが私たちを責め立てるようで眩しい。それすら、面白おかしかった。
*
「明日誰か死んでるかなぁ」
「どうでありましょう? でも呪いで死んだかどうかは検証のしようがないでありますね」
お互いの姿が見えないように、背中合わせで藁人形を打ち付けたのはちょっと面白かった。背中越しに聞こえる規則的なリズムで鳴らされる甲高い音。お互い離れすぎず、呪詛返しも起こらない効率的な方法だ。
「ちゃんとした写真使うべきだったね。今度近場の不審者情報の写真持ってくるよ」
二井山先輩がトンカチをくるりと回す。特に恨んでいる人間もいないから、きっと先輩は誰でもいいのだろう。
人の気配のない帰り道に、ふと強い人工的な光が差す。コンビニエンスストア。そうか、二十四時間営業だから今の時間でもやっているのか。
「ひと仕事したらお腹がすいたね。何か買おうか」
「賛成であります!」
夜のコンビニはなんだかワクワクする。不自然なぐらいに明るく静かな店内を、訳もなく彷徨いてみた。チョコレート、ポテトチップス、ホットスナックだってある。こういう時にすぐに買うものを決められない。迷っている時間が嫌いでは無いからだ。
「陽成菊さん」
「?」
手招きする二井山先輩の元に駆け寄る。先輩はレジ横に張り出されたPOPを指さしながら「何がいい?」と聞いた。
「おでん……?」
「珍しいよね。春先でも売ってるんだ」
「コンビニっておでん売っているのでありますね……!」
たまご、はんぺん、大根……。POPに記された百円以下の具の数々に感動していると、二井山先輩は目を丸くしてこちらを見ていた。
「もしかして食べたことない?」
「ないであります」
「そうなんだ」
「ん〜、迷う……。ヒナギクは大根とがんもがいいであります!」
「わかった。ちょっと待ってて」
そう言って先輩は懐から財布を出して店員に私の分まで注文し出すので、慌ててポケットを探す。しかしポケットの膨らみを触ってから、財布を持ち歩いていなかったことに気がついた。外に出ることに思考を割かれていたせいで、寄り道する可能性を全く考慮していなかったのだ。
「はわわわわ」
「気にしなくていいよ。奢るし」
「うっう、かたじけない……。このご恩は必ずや……」
「いいよ全然」
手渡された温かなカップの中には、小ぶりの大根とがんもが黄金色のだしに浸されていた。鰹節ベースのだしの香りが鼻腔をくすぐり、急激にお腹が減ってしまう。
先輩と外に出て、コンビニの脇にある縁石に腰掛ける。ふたりで手を合わせ、湯気がたつおでんに箸をつけた。
「あつッ」
「ああ、ちゃんと冷まして食べないと」
「ふぅ……ふぅ……。あ、美味しいであります!」
「良かったね」
先輩が微笑んで私に手を伸ばした。頭を撫でられるふわふわした感覚が心地よくて、目を細めてしまう。先輩の撫で方は優しくて好き。
「これがコンビニのおでんでありますか〜……!」
「冬季限定だし、次来る時はもうないかもね」
「えっ、そんなぁ……」
残念に思って残りのだしが残した波紋を見つめる。飲み干してしまうのすら、名残惜しいと思った。先輩は宥めるようにまた頭を一度撫でると、口を開く。
「また冬に来ればいいんだよ」
「また」
「うん、また。一緒に来ようね」
また、冬に。
魔法みたいな言葉だった。またあるかもしれない、それだけで良いのだ。小さな口約束の積み重ねで、この日々が出来ている。
「今度は白芒先輩も、副部長殿も、部長殿も一緒がいいであります!」
「そうだね。もしかしたら受験とかで忙しいのかもしれないけど、多分来てくれるよ」
「ふふふ、ヒナギクは今度ははんぺんを食べてみたいであります!」
「全種類コンプリート目指そうか。余ったら、そうだね……木霊さんが食べてくれる」
「おお〜! 頼もしい……!」
随分と先の冬の日を思い描く。
今日より寒い日なら、おでんはより美味しいのかもしれない。人数が増えたらもっと。
見上げたまあるい月がはんぺんに見えるぐらいには、冬を楽しみに感じている。ご機嫌に鼻を鳴らして、残りを飲み干してしまう。
先輩の手を握った帰路は寂しくなかった。おでんの熱でちょっと熱い手だった。