あなたと出逢う物語
雨に隠れて

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 誰もいない作戦室で二宮匡貴はタブレットを睨みつけていた。一読し終われば用はない。それでも画面を切り替えることなくそれを表示していたのは何かしら思うところがあったからだ。知らず知らず溜息が出た。今ならそれを咎める者もいなければ気に掛ける者もいない。だから本音が出たのかもしれない。このままでいると感傷的になってしまいそうだ。
「……」
 頭を切り替えるために二宮は息を吐いた。タブレットで閲覧していた画面を閉じ、電源を切る。そして作戦室から出てボーダー本部の外へと歩みを進めた。

 先程、二宮が読んでいたのは今回の遠征の報告書だ。参加したのは四部隊。A級上位三部隊に加え、明星桜花が率いる隊だ。彼女の隊が遠征メンバーに選ばれるようになったのは近界での生活経験があるためだ。戦闘や交渉を行うだけではなく向こうの生活に溶け込んで情報を得る彼女のやり方は近界民流に荒っぽくて的確だ。
 アフトクラトルの一件で行われた大規模プロジェクトのおかげで適正さえあればB級でも遠征メンバーに抜擢されるようになったため、未だA級ではない桜花が遠征へ参加してもおかしくはなくなった。更に桜花は遠征の結果をしっかりと残していることもあり他のB級に比べれば抜擢されやすくなっている。そういう印象をしっかりと周囲に与えているのだ。
 集まっていた彼女達に対する不平不満も今ではほとんどなくなった。このまま彼女が遠征常連になればそれがボーダーの当たり前となる。
(上手くやったものだ)
 思わずにはいられない。遠征へ参加することも雨取麟児を引き入れていることも。そして――……。
「あ、二宮」
 自宅へ戻る途中、目の前に現れたのは先程自分が読んでいた報告書を作成した本人。遠征に帰ってきてから二日目。顔を見るのも二回目となる。その時と変わることなく桜花の左頬にはガーゼが貼られており、嫌でも視線はそれを捉えてしまう。意識して違うところに視線を向けてみるも桜花の右手はお腹の前。左手にはここから歩いて三十分程掛かるドラッグストアの袋を提げているだけだ。
「どうしてここに?」
「三門市に住んでいるんだからいるでしょ。本部住まいの私は出歩くなって言いたいわけ?」
「非現実的だな」
 じゃあ何故? という言葉は桜花から来ることはなかった。今のやり取りで先程二宮が口にした言葉の意味が分かったのだろう。
「私、信用なさすぎじゃない」
「今までの行いから手放しで信用されると思っているのか」
「信用してくれないの?」
「本気でそう思っているなら図太いな」
 言われても睨むだけで終わるということは自覚しているのか。それとも会話を続ける気がないのか。 にわかに日が陰る。
 二宮もここで話をすることはない。そもそも街中でばたりと出会って立話をする仲でもないのでこのまま何をすることなく別れようとした。恐らく桜花も同じ考えだっただろう。どちらかが別れの言葉を発するよりも先に動いたのは天気の方だった。
 確かに雲は出てきていた。しかしそれから猶予を与えずに降り出さなくてもいいのではなかろうか。きっとこの時ばかりは二人は同じ気持ちだったに違いない。
 滝のような雨が容赦なく桜花と二宮を、そして三門市を襲った。
 一体何の修行だろうか。
 雨宿りするかそれともどこかで傘を買うかと一瞬考えるも既にずぶ濡れになってしまっているため意味はあまりないように思える。それよりも濡れたままでいる方が身体から体温を奪われてしまい、風邪を引いてしまいそうだ。
 二宮は雨で重くなった自分の髪を髪をかき上げた。目に入ったのは自分と同じ動作をしている桜花の姿だ。肌に張りつく衣服は何をしようとしているのか。うっすらと見え隠れする古傷よりも腹部に新しくできた赤く広がるシミの方に目がいった。不意に二宮は先程読んだ桜花の報告書を思い出す。自分の目つきが険しくなったのが嫌でも分かった。
「俺の家が近い」
「は?」
 雨の音が邪魔しているのか。聞き返してくる桜花に対して声が荒っぽくなったのは雨のせいで、拒否権を与えず無理を通したのもやはり雨のせいだと二宮は思いたい。
「俺の家が近いと言っている。タオルくらい貸してやる」
「別にいらない」
「そのままで歩き回るつもりか」
 桜花の服に浮かび上がったシミを指す。指摘されて桜花は確認すると顔を顰め二宮の顔を見上げた。睨みつけるでもないその目つきに不快に感じなかったと言えば嘘になる。熟考し終わったのか桜花は渋々と二宮の提案を受け入れた。


 ガチャリとドアの鍵が開けられた。無言で入って行く家主の後を追うように、桜花も無言で入りそして立ち尽くした。
「何をしている」
「私濡れているんだけど」
「知っている。早く上がれ」
(潔癖かと思ったんだけど――)
 床を濡らされることに嫌がる素振りはない。桜花は言われた通りに部屋に足を踏み込んだ。一人暮らしの間取りに迷うことはない。ダイニングルームに入ろうとすれば「勝手に入るな」と窘められ桜花はぴたりと立ち止まった。こちらとしては厚意を素直に受け取っただけに過ぎない。本人はどう想っているかは知らないがあまりの言い草に桜花は重くなってしまった自分の髪の束を遠慮なく絞り上げ、水を落とす。どうしようもない嫌がらせだ。ざまあみろと思ったが本人がこれを嫌がらせだと気づくとは限らない。もしかしたら不発で終わるかもしれない。そう考えるとあらためて自分の行いがどうしようもないなと思ってしまいやり場のない気持ちを無理矢理消化することにした。
 桜花が何を思って行動しているのか知らない二宮は部屋の奥に姿を消す。そして次に現れた時には服は別のものに着替え終え、手に布を持って戻ってきた。それに合わせて桜花は自分の手を自由にする。
「脱衣所はここだ。洗濯してやるからそれまでこれを着ていろ」
「は?」
 渡されたTシャツとスエットパンツに桜花は信じられないものを見るような目で二宮を見るが逆にその反応は心外だと見つめ返されてしまった。
「言っただろう。その姿で歩かせられない」
 先程よりも薄く広がる赤いシミに溜息を零し「じゃ、遠慮なく」と桜花は脱衣所に入り込んだ。タオルの場所を教えられ、ドライヤーで髪を乾かしてから出てこいと念を押されるように言われたのはやはりこれ以上床を濡らしたくなかったからだろうか。
 桜花は言われた通り服を脱ぎ自分の腹部にある傷を睨みつける。古傷だとは呼べない新参者は傷口から赤を吐き出すことを止めたらしい。一応気を遣いながらその周囲から水を吸い上げ身体を拭きそして髪を拭く。自分の衣服からシミをとろうとしてみたがやはり薄く広がるだけなので洗濯しても無意味ではなかろうかと半ば諦めながら勝手の知らぬ洗濯機の中へと放り込んだ。
 そして渡された服に手を通す。自分の身体にはあっていないサイズだがそれでも濡れている下着は衣服を離すまいと引き寄せている。こちらの方も諦めるしかないのだろう。
 気持ち悪さを感じながら桜花は髪を乾かしそして脱衣所を出る。あんなに濡れていた床には一滴たりとも水は残っていなかった。桜花はわざとぺたぺたと音を立てて歩いて今度こそダイニングルームに入り込んだ。
「洗濯機に入れた」
 ソファで偉そうに足を組んで座っている二宮に伝えると「あぁ」と彼は返事をして脱衣所へと姿を消す。さて、と桜花はシックなインテリアで統一されていた部屋を見渡した。そして唯一つ、部屋にあわないデザインの写真立てに目がいってしまい近づいてそれを手に取った。
(二宮、犬飼、辻、氷見にもう一人)
 こぽこぽとポットがお湯を沸かす音を聞きながら今はいない二宮隊の元メンバーの顔を見つめる。
「座らないのか」
 最短時間で戻ってきた声に振り返ると、二宮は桜花の元まで歩み寄りそして見下ろしていた。二宮の右手が桜花の左頬に伸びてくる。そして――彼は戸惑うことなく桜花の左頬に張られていたガーゼを剥がし取った。


「やはりか」
 ガーゼの下にある綺麗な肌を見て二宮は呟いた。
「近界民の抗争に巻き込まれて負傷。その時に一か所、刃物で掠っただけという報告だったが」
「……昨日提出したばかりなんだけど」
「目は既に通している。傷の場所を偽る理由はトリガーが使用禁止になるからか」
 それは以前の遠征での報告で知ったものだ。重傷とまではいかないが怪我を負った桜花に対して上層部は傷が完治するまでの間、トリガーの使用を禁止したことがある。安易にそのことを知っていると伝える。そもそも二宮にとって怪我したことを隠すのにあえて偽りの怪我を作り出す意味も分からない。
「お前は理解できない」
「理解しようとしてくれたの?」
 ケラケラと笑い出す桜花に機嫌が悪くなる。二宮は桜花の手元から写真立てを奪い元の場所に置いた。そしてソファへと先導する。二宮がソファの端に座るのを確認し桜花も倣い、反対側の端に遠慮することなく座った。
「で、用件は? ボーダーでは聞けないことを聞きたいんでしょう?」
「何故そう思う」
「ボーダーの書類って専用端末で閲覧できるようになっているじゃない? あれ、便利よねー誰が何時閲覧したか分かるもの」
「それがどうした?」
「熱心に見すぎ」
 閲覧数が多いと指摘されるよりもそれを把握していることの方に驚きが隠せない。
「誰の入れ知恵だ、と聞くまでもないか」
「私のこと舐めすぎでしょ。まぁ麟児にお熱だから仕方ないわね」
「気色悪いことを言うな」
「え、違うの?」
 言葉遊びだということは分かっている。それでもなんだか受け入れられず返す言葉を探す。桜花の方も特に遊びたいわけではないようで、黙り込む二宮から視線を外した。
「本当に好きだったのね」
 決して大きな声ではなかった。なんとなく呟かれた言葉だった。そこに鋭さは全くないはずなのに何故か二宮の胸に突き刺さる。
(そうか……)
 密航。協力者。裏切られた。自分達は頼られなかった。
 残った事実は機密事項となってしまっているため自分の口から言葉として出る機会は失っている。
 何故。どうして。どうすればよかった。
 皆が年下だからかチームメイトにも話したことはない感情の部分。指摘するのでも諭されるのでもなく第三者によるただの感想だ。相手があの桜花だということもあり想像なんてしていなかった。まさかの不意打ち。何気ない一言で揺さぶられるとは思っていなかった。
「仲間だから当たり前だろう」
 咄嗟に出た言葉はありきたりだったが納得はできた。
(あぁ、そうだ)
 仲間だから無関心でいる方が無理な話なのだ。既に起こってしまったことだと割り切ることはできても忘れることはできない。だから気にしてもいいのだと勝手に答えを見つけて、胸の中に残った靄が晴れていくような気がした。
「当たり前、ね。二宮にはその先があるんだ」
 ようやく二宮の中で辿り着いた一つの答え。それを目にして桜花が言葉を漏らす。言っている意味が分からない。どういうことだと考えてみれば自然と視線は彼女の方へと向いてしまう。それに気づいたのか、今度ははっきりと吐き出すように桜花は言葉を放った。
「だって裏切られたらそこで終わりじゃない。やったらやり返すのは基本でしょ? だから私は殺されそうになったら殺したし、必要だと判断して相手を襲ったこともある」
「だから何だ」
「裏切りなんて戦争でよくある駆け引きじゃない? できるだけ早く終わらせた方がいいって思っていたから、そういうの新鮮」
 馬鹿にしているのかと思えばそうではないらしい。いつも見る顔とは違うどこか幼さを感じるような表情は不思議と不快感を与えさせない。新鮮と口にした桜花の中で何かが芽生えたのだろう。
「いいわね。いつか、会えると良いわね」
 皮肉ではなく純粋な言葉。相手が裏切ったと思ってくれれば、それは信頼してくれていたことの証だと評していた桜花の口から出たものだとは思えない。彼女の心境を変化させる何か、なんてあっただろうか。
 二宮の内にあった疑問がこの瞬間、小さな興味へと変わりゆく。
「ちょっと何するの」
 自分の髪を一房、二宮に手を取られて桜花が抗議した。何を言っているのだと怪訝な顔をする二宮にまるで鏡のように、桜花も同じ顔をした。
「濡れている。ちゃんと乾かせ」
「細かっ。これくらい、いいじゃない」
「ここを誰の部屋だと思っている」
「わーかーりました。乾かしてくるわよ」
 桜花は立ち上がると二宮に捕まっていた自分の髪を保護し、そのまま脱衣所へと消えていく。逃がしてしまった自分の手を二宮は見つめる。
(感傷的になっているのは雨のせいだろうか)
 自分が自分のものではない感覚。見えない何かに流されているようだ。
 壁の向こうからドライヤーの音が聞こえる。ガタンとお湯が沸き上がったことを知らせる音に二宮は我に返った。そういえばお湯を沸かしていたのだ。それを思い出した。
「コーヒーくらい淹れてやるか」
 雨は止んでいない。洗濯ものだって乾いていない。言葉を交わすのには十分すぎる程の時間が存在する。聞き出したいことはあったはずなのに――二宮はどうしたものかと考えてしまった。


20190328


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