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兆し

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 俺の世界は小さな箱庭なのだと思う。

 近界民に家を壊され身内を失った。
 だから近界民を許さない。
 だから近界民から三門市を守りたい。
 ボーダーにいる人間の大半はそういう者達の集まりだと思っていた。
 近界民に対抗するためだけの組織。俺の思い込みが作った小さな価値観の集合体。こうあるべきだという想い。他の概念は目的の邪魔になる。排除すべきだと思っていた。
「近界民にはいい奴もいれば悪い奴もいる」
 正直何を言っているのかと思った。自分と同じ、身内が殺されたのにそれでも手を取り合うことはできると自分とは違う考えを提唱した男に信じられないものを見た。
 思考する間、流れる時の中で見る。
 近界民だと知りながら手を伸ばした者。
 近界民でありながら俺達の手を取った者。
 両者が協力し合える関係になれるということを目のあたりにして俺の価値観は小さなものだと知る。こうだと思っていた世界は実はまだ広いのだと知った。
 それに気づいた時、俺は自分の世界の現状を知る。

 俺には妹がいる。

 幼い頃は「おにいちゃん、おにいちゃん」と後ろをついてきて、こちらの都合関係なく愛嬌のある顔を向けてくる。辛いことや悲しいことがあると泣き出して、そうなると一歩も動かなくなる。どうすることもできなくて隣にいて泣き止むのを待つことしかできなかった。何もできない自分に不甲斐なさを感じたが翌日になるとけろりとした顔を見せてくる。そして「おにいちゃん」と飽きもせずに後ろをついてくる。いつも呆れと安堵を運んでくる。人を振り回しておきながらそれでも突き放せない絶妙な位置にいる妹はどう接すればいいのか分からない。それでも邪険にしなかったのは俺が兄で守る立場にある人間だったからかもしれない。
 変わらない日々に変わることのない関係。俺はそれに甘え何もしなかった。この数年は特に、自分のことで一杯になっていて自分のやるべきことしか見ていなかった。実直にボーダーで強くなることしか考えていなかった。
 余裕ができて自分の中のわだかまりがなくなって踏ん切りがついた時には自分が覚えていたいつもがいつもではなくなっていた。
「お兄ちゃん」
 妹の声は遠慮気味で緊張しているのか身体も強張っている。記憶を掘り返してもこんな態度をとられたことはない。
 気づいた時には本当にどう接すればいいのか分からなくなっていた。
 今までを思い出してもどうすることもできない。何せ妹はあの頃の愛嬌ある顔を見せなくなったし泣くこともなくなった。後者はもしかしたらそれだけ成長したということなのかもしれないが。それでも思い出の面影はなくなっていたことに胸の奥が締め付けられた。
 箱庭世界にあるものは決まったもので繰り広げられる予定調和な日常。それが既に崩れていることを知って衝撃を受けているところに追い打ちをかけるように新たな変化が訪れていた。



「秀次は難しく考えすぎなんじゃねぇ?」
 米屋陽介の言葉に返事をしなかったものの三輪秀次は心の中で「俺が陽介ならそうだっただろうな」と悪態をついた。自覚はしているが今の自分には無理だ。しかしそれを口にすることができずお弁当のおかずを口に運んでいた。
 ひょいっと米屋が隣から手を伸ばしおかずの一つを自分の口の中へと攫って行く。
「お、今日の卵焼き塩味じゃん」
 その言葉にほっとするのも束の間、これ以上はやらないと制止する。特段お弁当のおかずに執着を見せない秀次にしては珍しい反応である。
 彼等と昼食の時間を共に過ごすことにした出水公平は目をぱちくりさせていた。
「三輪の好物でも入ってんの?」
「この時期に秀次の好きなものあったら軽くテロだわ」
「あ、生魚とかだっけ?」
「あと蕎麦」
「季節関係なく弁当向きじゃないよなーで、なんかあるの?」
 他意はないようでなんとなく聞いているのは声の軽さから分かる。理由を言う必要性を感じないため告げずにいようとした秀次の意志を無視し米屋が答える。
「彩花ちゃんが作ったからだろ」
 秀次の箸からぽとりと卵焼きが落ちた。
「なんで米屋が知ってるんだよ」
「前、彩花ちゃん休んだ時あったじゃん? 作ったのどう考えても親のどちらかだしあの時だけ卵焼き甘かったから、じゃあいつも作ってるのは違う人かーって思うだろ? だから消去法」
 出水はちらりと秀次の反応を見る。どうやら米屋の推理はあたったのだろう。――ということは、彩花がいつも米屋の元へ届けてくれるのは秀次が家を出る時に間に合わないから持ってきている線が濃厚である。てっきり妹との接点をなくさないように届けてくれるのを待っているのかと思っていたが。
(いや、三輪の性格的に嫌なら断るだろうしな)
 しっくりとくる結論に行きつき出水は自分が手にしているコロッケパンにかぶりついて口をもごもごさせる。そしてはっと気づいて呑み込んだ。
「ってことは女子の手作りか〜羨ましすぎるだろ!」
「妹だぞ」
「そうだけど! コンビニパンに比べれば全然いいって! しかも三輪妹、可愛いし」
 真顔で返す出水に思わず秀次の眉間に皺が寄る。前髪がしっかりと隠しているために些細な表情の変化に気づかれる様子はない。
「そうか、おまえは自分の姉から手作り弁当を貰ったら嬉しいのか」
「うっわ――微妙……」
「……ほら、みろ」
 二人のやり取りを眺めながら米屋がけらけら笑う。
「いいじゃん弾バカ、その気になれば作ってくれる人がいて」
「姉ちゃんに作らせたらあとが面倒」
 身震いする出水をよそに米屋は涼しげな顔だ。何も考えていないのか不意に過った考えがぽろっと口に出た。
「彩花ちゃん料理が好きみたいだし頼めば作ってくれるんじゃね? 秀次のおまけで」
 確かに女子の手作りが食べたいのならその方法もありだが、得体のしれないものが胸を掠める。少しでも彩花に気があるなら迷うことなく選択するが――と、ここにきて秀次からただならぬ雰囲気を感じて出水は咄嗟に「しねーよ」と答えた。
「なんだか今までの三輪から考えられない反応なんだけど……」
「ん? 拗らせていたシスコンが表に出てきただけじゃねぇ?」
「陽介、誰がシスコンだ」
「前からその気質あったじゃん」
「ない」
「いやーあったって」
「ない」
 放置しておけばいつまでも続きそうな問答に、つまり、そういうことなのでは? と思いながら出水はこちらに飛び火しないような止め方を探す。
「とりあえず弁当の礼くらい言っておいた方がいいんじゃねぇ? そういうの言えない男マジ最悪って事あるごとに姉ちゃん言ってくるし。お前はこんな男にはなるなよって」
「女兄弟いると説得力違うわ」
「あれマジでやべーから。女って怖ぇーって思う」
 彩花に限ってそんなことはあり得るのだろうかと秀次は考えてみるが、この数年のコミュニケーション不足により判断がつかない。自分の責任とはいえ情けない気持ちになる。
「まぁ秀次のとこは大丈夫だろうけど、言ったら喜びそうだよな〜そのうち手打ちそば始めるんじゃねぇ?」
「流石にそこまではしないだろ」
 どこまでが本気で冗談なのか分からなくなってきたが、出水が言うことも一理あると思う。
 今まで向き合ってこなかった。その結果が仕方ないと諦めてしまえば終わりだが秀次はそうならなかった。未だに戸惑い揺れている。であれば粗雑な対応をしていいはずがない。
 彩花がまだ自分に意識を向けてくれているうちに――。



「お兄ちゃん、おかえり」
 親はまだ帰ってきていないのか、リビングに入り秀次に声を掛けたのは彩花だった。丁度、洗い物をしているようで髪を結い、自分のお弁当箱とそれとは別の容器を洗っていた。
 前まではここで素通りしてしまうのだが一度、言い争いをしてからは秀次は踏み止まるようになっていた。
「た、だいま」
「うん、おかえりなさい!」
 再び返ってくる彩花の言葉。少し恥ずかしいのか耳が薄っすらと赤くなっていた。
 今、蛇口から流れる音以外の音がない。
 間が持たず秀次は鞄からお弁当袋を取り出した。
「……ありがとう」
「わ、私洗うから、お弁当箱ちょうだい」
「あぁ」
 お弁当箱を受け取ると彩花は開きかけた口を噤んで、もう一度口を開いた。
「どれが美味しかった?」
 どのおかずが良かったのかと聞かれた内容の理解はできた。しかし尋ねられるとは思っておらず咄嗟には出てこない。お弁当の中身に何が入っていたかを思い出す。卵焼きは今日の昼食時間を思い出すので一番最初に除外して、次に出てきたのはハンバーグだった。伝えると彩花は頬を緩ませる。
「良かった……! やっぱり男の子は好きなんだな。今日は蓮根いれたから食感が面白かったのかも」
「やっぱり?」
 妙な言い回しが気になって思わずオウム返しする。
 警戒心がない彩花は自然に答えてくれた。
「玉狛支部で一緒に作ったんだけど」
「玉狛?」
 意識せず低い声が出た。秀次の口から出た音に彩花は何が不味かったのかと「え」とか「あ」とか言葉を失ったかのように母音の音だけを発する。そして何かに思い当たったのかごくりと唾を飲み込んだ。
「えっと、ヒュースくんってその、ボーダーの人とは仲が悪いの?」
「……」
 返す言葉を探すことを忘れ無言になる秀次に彩花はそれが答えだと思ったのだろう。慌てて紡ぐ言葉は必死さだけしか伝わらない。
「無理に仲良くしてって言わないけど、何も知らないで嫌わないで欲しいの。ネ……カナダ人だから難しいのは分かってる。でもいいカナダ人もいると思うの。ヒュースくん凄く真面目だから!」
(カナダ人という設定を知っているのか)
 情報の発信源がどこにあるのかは探らずとも分かる。
 秀次は胸の内に溜まる想いを息を吐くことで吐き出した。
「そうか」
 今言える精一杯だった。この場で彩花とやり取りしながら頭の中を整理できる余裕はない。折角一歩、妹に対して踏み出したのだ。ぐっと堪えることが最善のような気がした。
 秀次はそれ以上の言葉を発する気力も失せ、黙ってキッチンを後にした。

「迅さんっていう人とも仲悪いみたいだし、同じ玉狛支部でそうなんだからお兄ちゃんや他のボーダーの人は難しいよね。何も知らないで出逢えたら……違ったんだろうな」

 ボーダーとか近界民とか隔てるものがなければ、普通に出逢えていれば仲良くなったのかもしれない。そう思うともどかしくてしょうがない。
 彩花は溜息を吐くと洗いものの続きを再開した。


20191014


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