ロスト・アット・シー
夜の帳が下りきって、月の暈が絵画みたいな夜だった。先にベッドに入っていた彼はしずかに胸を上下させている。眠ろう眠ろうと考えていても待ち望んだ眠りはまるで訪れなくて、何度か体勢を変えてもそれは変わらなかった。
眠れない理由はわかっている。昨夜の夢見が悪かったとか、明日必ずやらないといけない苦手なこととか、体調がいまひとつだとか、言ってしまえば些細なこと。ひとつひとつならどうにでもなることが積み重なって、穏やかなはずの夜の居心地を悪くさせる。
このまま寝返りを続けても眠れないだろう。それならいっそとベッドを抜け出して暗い廊下を手探りで抜け、ぱち、とキッチンの電気を点ける。
どうせ起きているのなら、すこしでも気分の晴れることをしよう。眠れない夜への反抗心で、鍋に牛乳とティーパックに砂糖をひと匙入れて火にかける。……お砂糖もう一杯入れちゃおうかな。
これだと彼は甘いって言うから最近は控えめにしていたけど、今飲むのはわたしだけだからいいでしょう。それでもいつもの癖で多めに作ってしまって、まあもう一杯飲めばいいかとソファーでぼうっとする。それでも、自分の嫌なところを反芻してしまうのはベッドの中でも外でも同じだったみたい。沈んだ気分でミルクティーの水面を眺めていると、物音とともに廊下の明かりが付いて、ドアの向こうから長身が姿を現す。
「俺、にもくれないか」
「これ私用だから甘いよ」
「ああ、構わない」
彼はなにも聞くことなく、当然のようにわたしの隣に座って温め直したミルクティーを飲みながら、あまいな、と呟く。マイペースだな。でも、そのマイペースさでいつもわたしのことをひとりにしてくれないのだ。その静かなやさしさにいつも助けられている。現に今だって、ちょっと泣きそうなわたしの顔を隠すように髪を掬い上げている。
「お前の髪はとてもオシャだな。丁寧に手入れがされている」
「……それは、きみのおかげかなあ」
彼と付き合うまでは、なにもしてないってことはなかったけれど、ほとんど流れ作業で終わらせていた。好きな人が気にしているパーツだからわたしも気にしてみよう、なんて下心。それが今の今まで続いているものだから、君にオシャと褒めてもらえる部分は、ほとんど君が形作ったものだ。
それに、と零しながら、温かい彼の手がわたしの手をとって、かたちを確かめるようにすりすりと触れる。なんの変哲もない私の手が、宝石でも鑑定するみたいに丁寧に彼の目の前にさらされていく。恥ずかしいな、でも、嫌じゃない。
「小さい手だな」
「きみと比べたら誰だって子どもみたいだよ」
「爪も、小さいがオシャな形をしている。次の休みに俺、がネイルを施してもいいか?」
「いいけど、黒にするの?」
「……いや、ナマエの爪なら明るい色のほうが似合うだろうな。買いに行こう」
「いいよ、楽しみ。そういえば、近くに新しいパン屋さんができてたの」
「行ってみるか」
そのまま私たちはぽつぽつと、しかし途切れることなく喋り続けた。雑貨屋で見かけたユーモラスな箸置き、近くの寺で見つけた飾り彫刻、いつか見たステンドグラスの繊細な模様、練習終わりに見た雲と夕焼けのコントラスト、モナリザのうつくしさは佇まいに宿るのかあの微笑みに宿るのか、死ぬまでに見てみたいいくつもの美術品のことなんかを。
うつくしいものを頭に浮かべていくうちに段々と相槌がみじかくなっていき、それに反してまばたきが長くなっていく。言葉のかわりにあくびがひとつこぼれ落ちて、涙目の先では彼もふわ、とあくびをしていた。さっきまで、あれほど眠くなかったのにな。心地いい雰囲気にふにゃりと笑うと、「お前の笑顔が1番オシャだ」と目を細めるから顔が熱くなった。ほんとうに、マイペースな人だ。
「ベッドに戻ろう」
「でも、起きれないかも」
「俺、が起こしてやる。心配せずに眠るといい」
「それなら、安心かなあ」
彼に手を引かれて廊下を歩く。行きは逃げるように抜け出した部屋に向かうのに、帰りは足取りさえふわふわと夢見心地だ。ぱちり、ぱちりとひとつづつ電気が消されていき、ふたりはしんと静まりかえったベッドルームに呑み込まれていった。