14.昔と今

 スパーダに手を引かれるがままだったミルファがふと辺りを見回すと、集合場所である地下道の上のマンホールのある工業地区まで戻って来ていた。
 まだ集まる時間まで少し余裕がある。聞き込みを続けるべきだがそうも言っていられない状況だ。もしハルクスが兵に報告でもしようものなら、町は転生者の探索に駆り出された敵で溢れ返ってしまうだろう。
 一旦物陰に身を潜める為、早めに戻る選択も利口と云える。行くぞ、とスパーダはマンホールの蓋を開けて、ぐいっと再びミルファの体を引き寄せ──。

「え、あ、あの、スパ……」

 名前を呼び切るより先に、スパーダは小さく跳ねて、そして。自らひらけた穴へと落ちた──というより、飛んだ。
 あまりの驚きに声も上げることが出来ず、静かに溢れていた涙は一瞬で宙に消えるのだった。
 一瞬で地下へと降りたはいいが、スリリングが過ぎる行動にドッドッドッと心臓が代わりに悲鳴を上げている。それが次第に落ち着いていき規則正しい一定の音を再び刻んだので、仲間が戻って来るかどうか辺りの様子を見回すスパーダに向かって助けてくれたことへの感謝を伝えた。
 助けるのは当たり前だというスパーダに、ミルファは複雑な気持ちを抱いた。嬉しいのは確かだが、それでも。不快な思いをさせたのも、自分のせいでスパーダとハルクスの溝がまた深くなったような気がして、とにかく申し訳がないという気持ちが彼女の小さな身体の中を渦巻いている。それを払拭することが出来なくて、ミルファはまた「ありがとう」と「ごめんね」という言葉を零すしかなかった。
 俯くことで菫の髪が顔に影を作り、表情を隠す。声色やその姿からミルファが泣いているように感じ、スパーダの心はざわついた。
 咄嗟に手を握り、彼女の意識を自分へ向けようとする。何故彼女が泣くのか、その涙を零させんとする人物のことが、スパーダには嫌な程に分かっていた。脳裏にその人物──先程相見えた紅の髪とアメジストの瞳を持つ執事が過り、抑え込んだ炎が再びめらと燃えて苛立ちを助長するようだ。
 ──本心を見せず何を考えているのかわからないハルクス。彼は嘘を見抜くような瞳を持ちながら、嘘で塗り固められている。スパーダはそれに初めて出会った頃から何となく気付いていたのだ。優しい執事の皮を被った嘘に塗られた男。そんなハルクスをミルファは大切に思っていて、そんな奴を思って、彼女は泣く。その事が無性に少年と青年の狭間でもがく彼の胸中を掻き乱す。あんな奴、放っておけばいいじゃねェかよ。そう思わずにはいられない。
 涙こそ流して居なかったが、じっと見られたミルファは彼の気持ちなど察する事もなく目元を赤くしながら素知らぬ顔でスパーダを見詰め返す。どうしたのだろうと思いはしたが、なんだか気恥ずかしくなり彼女は目を少し逸らしてしまった。それがいけなかった。
 スパーダの中でモヤリと渦巻いていた感情を堰き止めていたものが少し綻び、まろび出てしまったのだ。

「きゃ……っ、スパーダ?」


 握っていた彼女の手を冷やかな地下道の壁に縫い付けるように押し付けた。動かすことすら許さないという思いから手に力を少し強めた後、体の距離を寄せる。
 いつからか度々自分の目を見なくなり逸らすようになったミルファに、スパーダは自分が何かしたのかと少々不安に思っていた。だが自身も何故か彼女を直視出来ない時は多々あったので、ミルファにだけそれを問い詰めるのは何か違うと思っていた筈なのに、理性は今止める役割を果たせないでいる。

「お前、オレのこと避けてるだろ」
「! さ、避けてなんか……っ、な、ないよ?」

 ギクリとミルファの華奢な肩が跳ねた。目を丸くしながらもスパーダを見詰めていたが、また顔を背けてしまう。
(でもでもでも、これは許して欲しいよ……だって顔が近いんだもの……!)
 スパーダはかなり苛々を剥き出しにしているのでミルファは少し怖くなり、羞恥も相まってますます目を合わせられない。これで避けていないなど嘘も良いところだ。当然それはスパーダにもバレているので、嘘付くなとピシャリと言われ、ミルファは返す言葉もなく押し黙るしかなかった。

「……目ェ見ろよ。なんで合わせようとしねェんだ?」


 真面目な顔に、真剣な声。自分に問い掛ける彼に答えたい、答えるべきだ。そう思っているのだが、どうしても恥ずかしさに勝てない。
 せめて一旦離れよう。そうでないと今もバクバクと止まらない心臓がどうにかなってしまうという確信がミルファにはあった。
 もう少し集合時間までに余裕があるから聞き込みに行ってみないか、などと今更な提案をしてみるが、そんなものは通用するはずもなく。
 スパーダが自分の腰に当てていた手をミルファが逃げようとした方──押し付けていた手と反対の方の壁へ付き、退路を断つ。

「逃げンなよ、ミルファ」
「……っひゃ、ぅ」
「……くすぐったがりだよなァ、相変わらず」

 スパーダの低い囁きが吐息と共にミルファの耳を掠める。くすぐったくて声を上げて身を縮こませたが、彼はお構いなしにググ、と距離を詰めて来る。待って待ってと胸板を押し返すと、哀しそうな表情が一瞬目に映った。ミルファの懇願を、自身を拒否されたものと感じてしまったのだろう。

「嫌いにでもなったかよ、オレのこと」
「!? 違うよ……っ!」

 ぼそりと口から出た彼の言葉にミルファは心底驚き、すぐさま否定した。本心ではなかったが、拗ねて、腹立たしくなり出てしまった言葉に僅かながら食い気味で被せられたその勢いに少々気圧され、スパーダは面食らっている。
(違うよ、違うけど……わたしがそう思わせてしまっていたんだ)
 避けてるつもりがなかったとは言っても、実際恥ずかしくていつも通りに接することが出来なかったのは事実。だから、彼にそう思わせてしまっていたなら謝らないといけない。あんな哀しい表情をさせてしまうくらいにスパーダを不安にさせて居たんだと今更気付いた。
 だけど、なんと伝えたらいいのだろう。思いを繋げて声にしようとするが上手くいかない。唇を開きかけては噤み、なかなか口から出てくれない。それでもひとつ、はっきり分かっている事がある。今後どんなことがあろうと揺らぐことがないそれを言葉と成し、口にした。

「わたしがスパーダを嫌うなんて、そんなこと絶対ないよ!」

 ずっと一緒に居てくれた、これからもずっと傍に居たい友達だ。兄達から邪険に扱われようと自分の夢のために剣の才を磨き続け、いつも前を向いていた彼を尊敬している。彼の明るさやその存在に救われてきたミルファがスパーダを嫌うなどありえない。
 嘘偽りない真っ直ぐな瞳で見詰められ、スパーダは自分の感じたものが杞憂だったことをすぐに悟った。そのあまりにも純粋な赤に映る自身を後ろめたく感じる。今まで培ってきた絆を疑い、やきもきした思いを彼女にぶつけてしまったことを謝ろうとしたが、ミルファが必死に言葉を続けるので割り込む隙間すらない。

「……あの、なんか、なんかね、スパーダが……スパーダじゃないみたいで」

 昔から格好良いと感じてはいた。ミルファにとっての英雄のような存在の彼を。けれど外に出て、当たり前がなくなった世界でも自分を助けてくれるスパーダが力強く頼もしく見え、男の子なんだと妙に強く感じ、この上なく恥ずかしくなったのだ。
 着々と大人への道を歩いていて、どんどん狭まる決められた道へと進むしかないこともわかっていた筈なのに、全然気が付かなかった。幼い頃のままではいられないことも、昔とは違うことも。人は変わる。そんなの当たり前のことにすら。

 ……ちなみにミルファは今考えていること全て口にしているのでスパーダも余すことなく理解している状態である。
 不安に思う事がないのは分かったが、ここまで真っ直ぐに思いを伝えられることはなかなかない。家族に好意を持たれる事もなければ、路地裏でいつも遊ぶ友人達もわざわざ情を口にし合う仲でもないので、慣れていないのだ。自分に自信がない訳ではなく、むしろ自己肯定感の高いスパーダでも褒められることで照れることはあるということである。

「あのね、スパーダ……ごめんね、傷付けて。でも忘れないで。わたし、スパーダのことずっと大好きだよ。大切な幼馴染だもん」
「っも、もうわかった! ……わかったって……」

 ミルファがお構いなしに続けるので、先程とは逆の立場で今度はスパーダが待ってくれと懇願する。
 慣れていないとは言っても、戯けて誤魔化すことも開き直って賑やかな雰囲気に持っていくことも出来るのがスパーダだ。けれど今は、ぶわっと溢れた汗にいつもの調子が吸い込まれたのか、戯けることも出来ない。どうしてしまったというのかと考えるが、答えは形を潜めたままである。

「スパーダ……?」

 自身を心配そうに見る大きな目がぱちぱちと瞬く。それだけなのにスパーダの心臓はバクンと爆発したと錯覚するほどに動揺した。
 自分の言葉のせいで怒ったのかも知れないと思ったミルファは、続けて窺うように幼馴染の名前を呼ぶ。もうわかったと言ったその言葉が本当なのも、怒っていないのも分かるが──明らかに様子がおかしい。汗が額に滲んでいるし、自身を捉えて離さない手の熱がぐんぐんと上がっているではないか。

「スパーダ。ねえ……大丈夫?」

 心配したミルファがスパーダを労るように声を掛ける。それだというのに、彼は何も返さない。
(なんだ……? なんだよ、これ)
 ミルファを見詰めていると湧き上がる何か。護りたいという思い以外にも姿を現し始めた醜い感情に埋もれた、それらの大元である何か。もう少しでそれの答えがわかりそうで、逃したくなくて、手の力を強め──。

「ちょぉ、兄ちゃん。アンタこんなとこで何ハレンチやってんねんな」

 しんとしている地下道にしゃんとした声が反響する。
 人が居た事に気付かなかった二人は、自分達以外にもここを知る人が居た事に目を丸くさせた。秘密の場所は、既にそれではなくなっていたのだ。
 道の奥から姿を見せた人物はミルファと近しい背丈で、到底役人とは思えない。髪は薄紫のベリーショートカットでまだ幼いながらも美人な顔立ちをした可愛らしい娘だった。十七歳で身長が低く幼い顔立ちをしているミルファを年齢判断の基準には出来ないが、十代には違いない事はわかる。
 それでも警戒するに越した事はない。正体不明の少女を訝しんだスパーダは何者かと訊ねてみたが、動揺することもなく少女はキッパリと「そんなんどうでもええねん」と口にした。どうやら他国の方言を使うようだ。そして、ビシッという効果音が付きそうな程に真っ直ぐ勢い良くスパーダへ指を指し、ニヤリと妖しく笑う。

「自分、こんな薄暗いとこで女の子襲うなんて……ヤラシイなぁ」
「! バッ……! おっ、襲ってねェよ!」


 言うが早いか、掴み捕らえていた手を素早く離して距離を取るスパーダ。緊迫した空気が解けて、ミルファはホッと胸を撫で下ろした。
(スパーダ、なんか、すごく近かった、けど……なんだろう? 何だったんだろう……?)
 熱を帯びていた灰の瞳と、がっしりとした手と、それが伝導されたかのような自分自身の熱。昔とは違い自分達が成長し変わったと理解はしたが、その途端に見える知らない幼馴染の姿に困惑するばかりである。
 ドキドキドキドキと驚き騒ぐ心臓を抑えるように胸に手を当てて止まってと念じるが言うことを聞く気配はない。

「ウチの見る限りでは襲ってるように見えたんやけどねぇ」

 挙動不審な二人を見てニシシと笑う少女に、スパーダは小さく「マセガキが……」と愚痴を零している。
 よくよく考えれば少女の言う通りであった。こんな薄暗くて人が寄り付かない場所で、力の弱い女を壁に押し付けて逃げられないようにしていただなんて、外野から見れば完全に危険人物。どうかしていたと思ったスパーダはミルファに悪かったと謝罪をするが、彼女はふるふると首を振って紅潮した名残を頬にほんのりと残したまま嬉しそうに笑う。

「ううん、わたしこそ勘違いさせてごめんね。……あのね、またいつも通り話せるの嬉しいから……ありがとう」

 ミルファが、自分が襲われているように見られるようなことをされていたなどと自覚している訳がない。スパーダは謝ってから気付いたがその通りで、彼女は何にも気が付いていない。しかし彼自身からそれを説明するのは気が進まない。言い知れない羞恥がやって来ることがわかっているからだ。
 説明出来ないまま彼女の優しさで誤魔化したことを密かに反省するのを余所に、そのミルファ自身は仲直り出来たことを嬉しく思いにこにこと微笑んでいる。それだけでスパーダも絆され、掴みかけた何かを逃したことを頭の隅へ追いやって目の前の問題へと頭を切り替える。

「で。お前、名前は?」
「ウチはエル。エルマーナ・ラルモいうねん! よろしゅうなお二人さん!」


 白い歯を見せて二カッとエルマーナが笑う。どうやら悪い子ではなさそうだ。無邪気で屈託のない笑顔にミルファも思わず笑みを浮かべる。
 目の前のエルマーナが害なす存在では無さそうなことはわかったものの、それでも聞くべきことはある。何から訊ねようかとスパーダが唸った瞬間、バタバタと誰かが走り回る音が上から響く。

 足音はこちらに向かって大きくなっていき、なんとも粗雑というか──なりふり構っていられないというほどに慌ただしい音をしていた。まるで何かから逃げているかのような。
 仲間の誰かが兵士に見つかってしまったのかもしれないが、そうなれば町で情報集めなど悠長なことをしている場合ではない。

「誰かヘマしやがったのか?」
「わかんない……でも、そうだとしたらみんなのことが心配だね」

 仲間を探しに行くか、ここでこのまま大人しくしているべきか──策を講じようかとスパーダとミルファが顔を見合わせると、マンホールの蓋が開いた。
 入ってくるのが仲間とも限らず、敵兵かもしれない。いざとなれば戦って逃げる他ないので武器を手にし、警戒していると──ひょっこりと見慣れた小動物が顔を見せた。

「おお、スパーダとミルファが一番乗りだったのか、しかし」


 コーダだ。梯子からぴょんと飛び降りて余りに余った袖をぶらりぶらりとこちらに向けて手を振るように揺らしている。何者かに捕まっている様子もないのでとりあえずホッとするが、一緒に住民区を担当していたルカが居ない。まさか捕まってしまったのではと思ったがそれは杞憂だった。元気なコーダよりも数刻遅れて息を切らしたルカが現れる。尋常じゃない量の汗がぽたぽたと顎を伝い地下道のコンクリートを濡らす。
 心配したミルファが駆け寄り、ハンカチで汗を拭ってどうしたのか聞くと、ごめんと一言、ルカは至極申し訳なさそうに頭を垂れた。

「見付かったんだ、兵士に……。撒けたとは思うけど、警戒を強めてしまった」
「ま、そういうリスクもあること分かってやってんだししょうがねーって。それより無事で良かったぜ」
「うん、そうだね。本当に良かっ──」
「ルカ!! いるんでしょ!?」

 ミルファの声を遮り、大きく良く通る怒声がまるでタンバリンを鳴らした際の余韻のように地下道に響く。梯子から飛び降り、一気に下まで降りて来た声の主はイリアだ。
 外まで聞こえちゃうんじゃ……とミルファがおろおろと慌てるが、イリアと行動を共にしていたアンジュが恐る恐る梯子を降りながら、外に聞こえるわよと諭すように優しく言う。しかし怒り心頭のイリアの耳には届いておらず、それを撒き散らすかのようにルカに食って掛かった。
 早めに地下道へ戻ったスパーダとミルファには分からないが、ルカの言った通り、兵士の警戒が強まっているのか町中の警備が厳重になっている。身を潜めている一行もそうだが、隠れているかもしれない転生者もこれでは出て来られないだろう。
 イリアは自分が直接その現場を見た訳でもないというのに、ルカが実家へ戻ったところを兵士に見つかったせいだと決め付けている。確かにルカが見付かったのは事実だが、イリアの頭ごなしな言い分にいつも大人しい彼もこれには気分を害したようで良い顔をしなかった。

「……どうして、そんな風に言うのさ。僕は親に会いに行った訳じゃない。住宅地区の担当だったんだよ?」
「そうだぞー。ルカ、会いに行かなかったぞ」

 今にも小競り合いが始まりそうな雰囲気にミルファはどう口を挟んだものかと考えるが、アンジュがやめておきなさいと制する。
 ……絶対にそうだと思っていた事柄がそうではなかった。そして、優しいルカがいつものようにおどおどせずに反抗してきた。そのことに狼狽え、怒りの顔が少しずつ剥がれて来たが引くに引けないようだ。一言謝れば良いものを何故かそれが出来ず、イリアは店先で難癖を付ける客のように声を荒げるばかり。

「っな、なんでそんなとこ担当したってのよ!」
「イリア。真っ先に商店街の方へ行ってコーダのことをルカくんに押し付けておいてそれはいけないんじゃない?」
「う……っ」

 ぐうの音も出ないとはまさにこのことだ。アンジュに切言されたイリアは罰の悪そうな顔で黙りこくってしまう。
 ぴちょん。ぴちょん。再び訪れた静寂に下水に雨水が滴り落ちる音だけが広がる。静けさを破ったのはすっかり静観を決め込んでいたベリーショートの少女だった。

「うっは〜、女のヒステリーってやっぱ怖いなぁ」
「はぁ!? 誰がヒステリーよ!」

 イリアの怒号をものともせずはいはいと聞き流すエルマーナは、おいでと言い、来い来いと地下道の奥へ手招く。付いて行って大丈夫なのかというアンジュの疑問にミルファは悪い子じゃないと思うと答える。明確な材料が何もない状態ではあったが、このまま提案を無碍に扱うのも何なので少女の後へ続く。
 若干歩で知っている部屋の扉の前に辿り着くと、ミルファは懐かしさに包まれた。スパーダとよく入り浸ってお喋りをしていた場所だ。
 聞くところによれば今この部屋ではエルマーナとその仲間達が生活をしているらしい。地下水がすぐ傍に通っているのだから住居を勧められるような場所ではないが、ここにしか居場所がないのだ。戦争で親を亡くした孤児達が大勢居るものの、食料も物資も全て戦争に回されている為何もかもが足りていない。そんな中で必死に生きようとしての苦肉の策がこんな地下で生きることなのだ。
(貧富の差が激しいのは勉学で知識として知ってはいたけど……こんなにも苦しんでいる人が居ただなんて)
 娘を政略の道具としてしか見ない親の元に生まれはしたが、それでも飢え死にそうになったり生活苦に悩む事はなかった。毎日働きに出ることもなく苦労もせず瑞々しく美味しい食事を出して貰って、よっぽど恵まれている。ミルファが罪を感じることではない。戦争や国の在り方の問題だが、それでも……途端に後ろめたい気持ちに苛まれ、申し訳なく思ってしまうのは止められない。
 なんとなく部屋に居辛くなり、リカルドが戻っているか様子を見てくると言い半ば逃げるようにして部屋を出ると、扉の横でイリアが膝を抱えて蹲っていた。ミルファはそんな彼女の横に座り、同じ様に膝を抱える。少しの間沈黙が覆うが、それを破ったのはイリアの方だった。何か用なのかと問うその声は取っ付きにくいったらありはしないが、喧嘩を売ろうという意は含まれていない。 

「……頭痛、大丈夫?」
「! なんで知って……」
「わたしがよく倒れるの、頭痛くなるからだから……記憶が関係してるんだろうなって、なんとなくね」

 にこっと笑い掛けられ、イリアは自分の苦しみを少しでも分かってもらえたような気がして安心して泣きたくなったがグッと堪える。……だというのに、ミルファは頭を撫でて優しく労わろうとしてくるので深く深く蹲るしか出来なくなった。
 イリアの八つ当たりが酷かったのも、きっと記憶に関連する頭痛のせいだろう。いつものようになんとなくで終わらせてはいけないことをルカに言ってしまった自覚はある。ルカの覚悟も辛さも何も見えておらず分かろうともせず、自分の不安や恐れに侵食される苦痛を紛らわせるために傷付けてしまった。自分が辛かったから何をしても許される訳でも、喧嘩がなかったことになる訳でもない。分かっているからこそイリアはこうして部屋の外に居て自分を律していたのだ。
 「ルカくんと仲直り出来るよ、大丈夫」とミルファが励ますと、イリアは小さく頷いた。

hitsujitohana