17.本に囲まれての昔話
ゲホッ、と。黒衣の傭兵は咳込んだ。あまりの空気の淀みに耐え切れなかったのだろう。見兼ねたルカが換気窓を探すが、見当たらない。
「地下だからね、そういうのはないのよ。少しの間だけ我慢してね」
申し訳なさそうにするアンジュ自身も耐えられるものではないのだろう。白いハンカチを口元に当てている。
どこか霞んでいるのではと思うほどの埃やカビに混じり籠もった部屋独特の匂いを漂わせている場所で、一行は眉をしかめるしかない。地下道から離れてやっと陽の下を歩けると思ったのに行き先はまた地下。辺りを見回してイリアは大袈裟に肩を落とし、臭気をこれ以上吸いたくないというように鼻をきゅっと摘まんだ。
──現在居る場所は、ナーオス聖堂にある地下図書室。
アンジュが見つけた記憶の場がこの場所にあったという話から、鍾乳洞で見た同様のものについても何かわかるかもしれないと踏んだ。あの場にあった祭壇もこの町の大聖堂も信仰の盛んな場所だったことからその点に焦点を置き調べるのが適切だとし、宗教に纏わる古い書物がここに集まっていることから再びナーオスを訪れたのだ。そして今まさに、一行は本の山に立ち向かおうとしていた。
(それにしても、本当に沢山並んでるなぁ……すごい。家の地下の書庫みたい)
本を読むことが好きなミルファはどこか嬉しそうに聳え立つ本棚を見上げる。調べものは構わないが、彼女が今気になってることはまた別のことで──。
「え〜? こんなにある本読まなあかんの? ウチ字ぃ読まれへん!」
「じゃあ、字のお勉強も兼ねてお手伝いしてね」
それはエルマーナのことだった。
鍾乳洞を出た後、なんやかんやあって彼女は度に同行することとなったのだが、その“なんやかんや”がミルファは気掛かりなのだ。
おおまかに説明すると──エルマーナと一緒に暮らしている孤児院の子供達が盗みを働こうとしていたところをあくどい商売人に捕まってしまい、労働力が必要なガルポスの農場へ送られそうになっているところに駆け付け、転生者である用心棒と戦うため彼女はそこでヴリトラの力を覚醒させた。
エルマーナも彼女と暮らす子供達も、生き抜く為に店の物を盗んでいた。それは仕方のないことかもしれないが悪いことだ。償わなければならない。しかし、『孤児達は邪魔だからこの国から居なくなれば良い』という商売人の発した言葉は到底許せるものではない。しかも、自らの欲やお金が欲しいがために、法によるものではなく、私的制裁を下そうとしていたことが判明した……というか、商売人自身が口を滑らしたのだが。それは人身売買と何も変わらない。違法に手を染めた商人は裁かれるべきで、ルカ達が届けを出せばもう商売は出来なくなる。けれどこちらが異能者ということも警備や軍に知られてしまうことになりかねないので、結局逃げる背を見送るしかなかった。
仕方のないこととはいえミルファは悔しいと感じた。どうしようもないことが、貴族の娘でありながら何も出来ないことが、歯痒くて仕方がない。権限を持たないただのお飾りの存在だと改めて実感し、ただただ情けなくて、ぐっと奥歯を噛み締めるしかない。
彼女達は盗んで生計を立てることから足を洗い、ヴリトラに恩返しをしたいという転生者である用心棒の世話になることにした。霊薬もあることだししばらくは不自由なく暮らせるだろう。ただ、エルマーナだけは旅立ちを選んだ。……それが気掛かりで仕方ないのだ。大切な子達と離ればなれになるだなんて、本当に良いのだろうか、と。
自分だったらどうだろう、と考えてしまったミルファは胸が寂しさや心配、不安でいっぱいになり顔を曇らせた。それに気付いたエルマーナがどうしたのかと声を掛ける。どう自分の考えを伝えれば良いのだろうと思い口籠ったが、本当に旅に付いて来て良かったのかと念押しするように訊ねると、「なーんやそんなことかいな」とあっけらかんとした表情をし、勿論良いと大きく頷いて返した。
「リタとマリオはな、ウチが育てた子やねん。だから大丈夫や。あの子ら弱ないもん」
「でも、エルちゃん……」
「それにな、付いて行きたかってん。他でもないウチが、みんなに」
ニッと白い歯を輝かせた笑顔で言うものだから、それ以上は何も言えなかった。今までずっと一緒に暮らしていた子たちと離れるのはすごく寂しい筈だが、それでもエルマーナはこの道を選んだ。ヴリトラがアスラに焦がれて傍に居たかった思いもあるのだろうが、初めて自分と同じ転生者に出会えて、仲間になれて、嬉しいのだろう。彼女自身が決めたのだし無理をしている様子もない。強がりのない屈託のない笑みに釣られたミルファは「それなら良かった」と笑う。
こそりと話をしている合間に、アンジュは仲間に指示を出していた。それぞれ別の本棚を担当して、信仰が深い土地に関連する項目を重点的に調べる。記憶の場に関する情報を仕入れ、そこから創世力に近付いていこうという算段だ。
では早速、と作業を開始しようとしたところで──。
「アンジュー、オレ本読めねェんだわ」
「あたし重いもの持てなーい」
明らかな嘘を盾に、勉強が嫌いな二人が作業から免れようとしている。ルカとミルファが苦笑いを浮かべているとアンジュは深く溜息を吐き、逃げられないように二人組で調べ物をしようと提案した。
ルカとイリア。アンジュとコーダ。リカルドとエルマーナ。スパーダとミルファ。組み合わせをささっと決めたアンジュに、これでサボれないでしょ? と有無を言わさぬ笑顔を向けられ、イリアとスパーダは観念したみたいだ。ぱん、と手を叩く音を合図に、調べ物を始めた。
◇
「なんでこんなバカほどあんだよ……」
ドーン、という効果音が付きそうなほどに目の前に立ち塞がるようにある本棚と、傍らに捨て置かれたかのように積み重ねられている本の山。スパーダはそれらに開口一番文句を溜息と共に吐いた。
どうすれば効率が良いかとミルファは思案し、背表紙や目録から内容を出来るだけ絞って振り分けるべきだと言う。一緒に頑張ろう、と隣のスパーダを励ますようにガッツポーズを決めるが、勉強嫌いの彼がやる気になる筈もなく。
「……なあ、オレ頭痛くなって来たんだけど」
「もう……アンジュちゃんに怒られても知らないよ?」
それは勘弁、と言いスパーダは目に付いた本を適当に手にしてページをペラペラとめくり……五秒も経たない内にパタンと閉じてしまった。
「……いや、無理」
「そ、そんなあっさりと……もうちょっと頑張ろうよぉ」
「こういうのはお前の方が得意だろ? 任せた」
ニッと笑い手にしている本を押し付けるように渡して本棚に並ぶ本の背表紙を指でなぞり、それらしい本を取り出して行くスパーダ。ミルファはその姿を見ながら、少し思っていたことを口にしてみた。
「……そういえば、わたしたちまた同じ組になったけど……良かったの?」
「あァ? どういう意味だよ」
「うーん……わたしは嬉しいけど、つまらないんじゃないかな〜って」
「別に新鮮味なんて求めちゃいねーよ。そもそもこんな短期間でつまらないって感じるなら幼馴染やってねェだろ」
さも当然のように言ってのけるスパーダにミルファは嬉しくなり、「そっか」と言い自分も本を物色する。
彼は別に冒険者のように新しい物を常に求めているという訳じゃない。それでも、せっかく沢山の仲間と旅をしているのだし他の人と一緒の組になりたいんじゃないかとミルファは思っていたが余計なお世話だったようだ。なんだか嬉しくなった彼女は口元の緩みが止められない。
「えへへ、わたしと居ると楽しいってこと?」
「バーカお前、調子に……」
「わたしはね、楽しいよ。スパーダと居ると」
ミルファの素直な言葉に返事もなくぺしんと本でおでこを小突き、さっさと本選べよとスパーダは言った。変なところで思春期が発動してしまい、オレも楽しい、と言えるような素直さはそっぽを向いてしまったのだ。青年と少年の狭間に居るからこその照れだということは彼の耳の赤さが物語っている。ミルファは気付いておらず、言われた通りに懸命に本を選別しているが。
年代別、地域別に集めるのが最初にすることだとアンジュから教えて貰ったが、何時間かかることやらと途方に暮れてしまいそうなほどの量だと改めて感じさせられる。
(家の書庫みたいだ)
本の山を前にし、ミルファは家のことを思い返していた。家以外でこんな本の山に巡り合うのは初めてだがそのように感じず、緊張感どころか安心すら覚えるほどだ。家を離れて一ヶ月にも満たないというのに、家のことを思い出すと遠い昔に戻ったように思える。
「こんな沢山の本見るの、本当に久しぶりだなぁ……」
無意識にそう口走ってしまったことに気付き、急いでバッと口元を手で覆うも、時既に遅しと言うやつだ。やってしまった、とミルファは顔を青くする。こんなときくらい家のことを忘れていたいのに。暗い話をしたい訳ではないのに。刷り込まれた記憶はそう簡単に消えてはくれないのだ。
「……お前と初めて出会ったの、お前ンちの書庫だったよな」
「え、う、うん。そうだよ」
気を遣わせてしまったかなと反省しつつ、ミルファはスパーダの言葉に返事をして目の前の本棚からそれらしい本を数冊見繕う。
──小さな、昔話だ。花を咲かせるような輝かしい童話のような内容でもない、偶然が織り成した出逢いの話。
◇
二人が初めて逢ったのは、幼少期──スパーダが父親と共にフィオリーゼ家へ訪れたときだ。父親同士仲が良く同じ王都の楯と云われる名家同士。お互い時間が取れたときに茶を飲もうと約束していたのだろう。
まだ五歳になったばかりのスパーダは人様の家だということにも構わず、探検心が刺激されて広い屋敷中を駆け回った。そして、自分の家にはない地下へ続く階段を見付け、お宝があると思いそこを駆け下り、書庫へと辿り付く。
本ばかりで多少がっかりはしたが、見たことのない場所で心が躍るような思いでそこを探索していると、ガタンという音が聞こえた。大人に怒られる! と思い少し身構えながら音のした方を見やる。するとそこには想像とはかけ離れた小さな小さな人が立っていた。菫色の長い髪に白い肌、アンティークドールが着ているようなフリルがあしらわれたミルク色のドレスに身を包んだ少女。それがミルファだった。
貴族同士の必要な顔合わせの時に連れ出されるくらいで基本的にはずっと屋敷の中に居たので同年代の子を見掛けることもなかったミルファは、紅い瞳を輝かせてサラサラな翡翠色の髪や透き通る灰の瞳を目を奪われたのである。
『だあれ?』
そう尋ねられ、泥棒だなんだと悲鳴を上げられると思っていたスパーダは予想が外れてあんぐりしつつ名を名乗った。
ミルファは何度もイントネーションを確かめるように名前を呼び、しっくり来る音階を見付けると、ニコリと微笑み自分の名前を名乗る。そんな、珍妙な出会い方だった。
まさか彼女が勉強のために書庫に居るなど思いもしなかった幼きスパーダは何故こんなところに居るのかを聞こうとしたが、父親に呼ばれて彼女と何も話も出来ないままその日は帰った。……が、この少し後にまた屋敷を訪れることになり、親同士の正式な紹介を経てミルファと再会し、共に時間を過ごすことが増えていく。
これが、二人の始まり。
◇
──懐かしい。
家庭教師を雇ってまで家から出さないようにされていたため学校に通うこともなかったミルファは、彼と出会ってから毎日の楽しみが増えた。メイドやハルクスと話したりこっそり家事のお手伝いをすることが楽しみだったけれど、会いに来てくれるスパーダと遊ぶのが一番の楽しみになり、世界が変わった。彼のお陰で。
それはスパーダも同様で、ハルトマンや彼女の存在が無ければ、彼は六人の兄達からの嫌がらせには耐えられなかったほどだった。兄が自分に向ける感情は結局嫉妬で、それならばと剣技の才能をもっと磨いて誰よりも強くなってやろうと前を向くことが出来、そして、誰も極めていない二刀流を目指したのだ。
兄が仕掛けてきた嫌がらせは過激そのものなのでミルファには到底言えたものではない。それでもなんとなく察しているのだろう。彼女は何も言わず、ずっと一緒に居てくれた。
お互いがお互いを救っている。そんな関係なのである。
「ふふ。そういえば、家出した話もあったよね。あのときはびっくりしちゃったよ」
「あー……あれなァ……」
ころころと色々な話が溢れ出す。
家出というのはハルトマンが過労で倒れて屋敷に戻って来なくなった頃の話だ。
信頼を寄せていた執事が居なくなり、完全に家の中での居場所を失ったスパーダは頻繁に外出し、だんだんと家に戻らなくなっていった。その件で父親に『もっと貴族としての自覚を持って行動しろ』と言われ、スパーダの反発心は最骨頂に達してしまい家を飛び出した。領土も何も与える物が残っていないからと放ったらかしだった癖に、と。
何日も彼が家に来なくなり心配していたところにスパーダの父親から行き先を知らないかと聞かれたミルファは、居てもたっても居られなくなり彼を探すために屋敷を飛び出した。
屋敷の中だけがミルファの世界で、外は知らない場所だらけ。灯りの消えた貴族区も市民区も、煙たい工業区や人気のない商店街も何も分からない。それでも構わず走り回った。スパーダを探して。
「結局お前、オレのこと見付けちまうんだからすげェよ。不良の溜まり場に現れた時はマジでビビったけど」
「だってよく知らなかったもん……初めて外に出たんだから」
当時、突然現れた幼馴染を惚け見て、なんでここに居るんだと思ったが、そんなことよりもこんな場所にミルファを居させるわけにはいかないと彼女の手を引いて不良仲間たちの野次を背に一目につかないところまで移動したことがあった。
それがあの地下水道で、元々は家出したスパーダの簡易的な家のようなものだった。不良の溜まり場に来たら格好の餌食過ぎて危ないからという意味もあるが、お互いの逃げ場所にもなる──それが二人の秘密基地になったが、今では孤児達の暮らす場所となっている。そこから二人は親の目から逃れるために秘密基地で会うようになっていった。
スパーダの無事と、これからも会えることを嬉しく思っていたミルファだったが……一方でスパーダは少しだけ責任を感じているのだ。ミルファが屋敷の窓から飛び出し脱走するようになったのはこの家出事件がきっかけだから。
ああ親御さん、真面目なお嬢さんに不真面目なことを教えてすいません。と思わずにはいられなかった。あの頃は。
王都を抜け出した今、それも遠い昔のことのように思える。たった数年前のことなのに。
あの時は雨でびしょぬれになっちゃったよね、と笑うミルファを見て、きっと戻るとこんな風に話せなくなると思った。親の束縛は厳しくなり、身動きが取れなくなるだろう。彼女が好きでよく読んでいる物語の姫のように、囚われ、そこから抜け出すことも出来なくなる。それはミルファ自身も分かっていた。心配させたのだから帰らなければならない。一目だけでも顔を見せるべきだ。でも……そうしたらもう、永久に自由は訪れない。スパーダにも会えなくなる。そんなのは──。
「……帰りたく、ないな」
「! ミルファ……」
「わがままだよね、こんなの。でも……もう、屋敷で一番良くしてくれていたハルクスも居ないし……家に帰るの、怖くなっちゃった」
小さくても、ささやかでも、楽しかった。あの日々はもう訪れない。戻ることはない。例え適応法が撤廃されて戦争が終わろうとも。自分は鳥籠に戻るしかないのだと分かっているが、そうしたくない思いが胸の内に在るのだ。スパーダに話したところで困らせるだけなのは分かっているのに。本当に駄目な人間だと自身を嘲笑する。
「……じゃあ、帰るなよ」
「……スパーダ……」
まっすぐ見詰め合う二人は、黙ったまま。
わかっている。冗談で帰りたくないと言うような人間でないことを。気休めで帰らなければいいという人間でないことを。だがそこから先へ続く言葉を今の二人は持ち合わせていないのだ。
(帰らなくても良い道が、本当にあればいいのにな)
信じたい、スパーダの言葉を。帰らなくても良い、自分自身で決めた道を。
見繕った本を数冊胸に抱きながら、自分の思いを否定しないでくれたスパーダに向けてありがとうと言いミルファは微笑んだ。
心底嬉しそうではなく、少し申し訳なさそうでもあり切なそうでもあるその表情に言いようのない感情がスパーダの胸を渦巻く。戦場へ向かう前、彼女を帰らせずに済むことをチャンスだと思っていたことも、今もそう思ってしまったことも、少し後ろめたいのだ。だが同時に嬉しくもあり、矛盾した感情に踊らされるばかりだ。
「スパーダ、どうしたの?」
「あ、いや……」
心配そうに見上げるミルファの声にハッとする。何でもないと返そうとするが、ついまじまじと見詰めてしまい、数秒世界が止まったように感じた。
本人に言うと拗ねる為あまり言わないようにしてはいるが、本当に同い年かと思うほどに彼女は小さい。童顔だし、すぐに拗ねるし、内面も幼い。その癖……と視線を顔から下にずらしていって、ある膨らみが目に入る前に自分の見ようとしている物に気付いて急いで顔を逸らした。幼馴染の小柄な身体に不似合いな大きさのそれは、ちょうど本に隠されていて目には入らなかったが。
……急いで目を逸らしたが今さら見てどうだと言うんだ。幼い頃から一緒に居てその身体には見慣れているはずの癖に。いや待て、それは語弊でしか無くないかと思考を巡らせるスパーダは自分自身に指摘する。考えることが苦手なくせに、変に思考を働かせ過ぎてオーバーヒート寸前かというくらいに顔に熱が集まっていくようだった。不審に思われないよう、とにかく言葉を返して気持ちも切り替えようと一つ咳払いをする。
「……ンなことより、早く調べようぜ、本」
「そうだね。本もある程度選別できたしどこか座ろうか!」
足元に下ろしていた本の上に新しく探し出した数冊を重ね、持ち上げる。座れる場所を探して少し歩いていると、仲間の様子が目に入った。リカルドとエルマーナはちょうど死角になる位置で眠っているようだったが、恐らくアンジュにはバレているだろう。そのアンジュはコーダと一緒に各地の有名な食べ物について話しながら調べ物をしている。ルカとイリアは、イリアがなんだかんだと文句を言いつつも二人で一冊の本を読んでいた。ルカは照れ臭そうにしながらもなんだか嬉しそうだ。
仲良しだね、とスパーダに言うと、上手くやってんなぁと零したので何のことかと聞いてみたがスパーダは鈍感なお前にはわかんねーよとケラケラ笑いながら先を行ってしまった。
「……あ」
何だろうと考えて上を仰ぐと、偶然にも分厚く特別な装飾の施された本が目に入った。見るからに重要なことが載っていそうなので読まない手はない。
スパーダに頼もうかと思ったがわざわざ一冊のために呼び戻すのもなんだか忍びない。ミルファは運んでいた本達を床に下ろし辺りを見回すが梯子も台もない。一度試してみよう、と、ん〜〜っと目一杯背伸びをして爪先立ちで手を思い切り伸ばして目的の本に届くように頑張ってみる。……が、一向に届く気配はない。手が本当にゴムのように伸びたのではと思うほど伸ばしたのにだ。もう一度、と試してみるが結果は変わらず。ミルファはがっくりと肩を落とした。
「や、やっぱり届かない……」
「……何やってんだ、お前」
「ひゃわあ!?」
後ろに居た筈のミルファが居ないことに気付いたスパーダが戻って来て、訝しげに声を掛ける。手には本が持たれたままだった。驚いてバクバクと騒ぐ心臓を抑えながら振り返ると、ドサドサと数冊の本が床に置かれる。
ミルファの返事を聞くまでもなく何をしたかったのかを察したスパーダは一言、「そりゃお前には届かねェだろ」と言い放った。むっ。何気ない言葉に彼女は頬を膨らます。すっかり拗ねてしまい、ぷいと顔を背けて本棚に向き直る。挑み直す気満々だ。
(絶対取ってぎゃふんと言わせちゃうんだから!)
スパーダになのか特別そうな本になのかはわからないが、どちらもぎゃふんとは言わないだろう。
もう十七歳だというのに十代前半のエルマーナと変わらないくらいに背が低いミルファは、背が低いのがコンプレックスなのだ。年相応に見られないのが切ない。揶揄する目的ではないのは分かっているが、幼馴染の彼にも昔から小さい小さいと言われ続けて来た。今さらどうも出来ないのは分かってるが、分かっているからこそ虚しいというか哀しいというか……やるせないというか。まあようするに、引くに引けなくなり意固地になっているのだ。
ぷくりと頬を膨らませるミルファを見て、スパーダはやれやれと息を漏らした。
「……しょうがねェな」
「え、──わっ」
「これで届くだろ?」
呆れたようなスパーダの声が背から聞こえたので振り向こうと思った途端、しっかりとした大きな手が脇腹に滑り込みミルファの体がふわりと浮く。持ち上げてくれたんだということを理解するのに少し時間がかかった。じわじわと恥ずかしさが込み上げてきたが、下ろしてと言っても西の戦場の時のように堂々巡りでこちらが負けるのは目に見えている。さっきまで必死に取ろうとしていた本に手を伸ばし、早く事を済ませる方を選んだ。
先ほどとは違って難なく届いて入手できた本は、想像していたよりもずっしりと重たくて危うく落としそうになる。しっかと胸に抱きとめてその存在を確かめてから取れたよとスパーダに報告した。
ナイス、と笑った彼がそっと床に下ろそうとする最中、ミルファは心の中で急かす。嫌だからではない。脇腹にある彼の手が小さく蠢くだけでこそばゆいのだ。我慢するために本を抱く力を強めてみるも、どうしても気になってしまう。
笑い声が漏れ出ないように体に力を入れてぷるぷると体を震わせている間に下ろして貰えたのでほっと胸を撫で下ろす。
「あ、ありがとうスパーダ」
「おう」
よし戻ろうと言うと、スパーダはミルファの抱えていた本をさっと手に取り足元に置かれていた数冊の上に重ねて持ち上げた。極自然に行われた流れるような所作に、あっあっとあたふた右往左往するしかない。それでもきちんとありがとうと言い後ろを付いてくるミルファに「今日だけで何回言うつもりだよ」とスパーダは笑い飛ばした。
「だって、ありがとうって言いたいんだもん。何回でも言うよ!」
にこにこと柔らかい笑顔を向ける彼女は本が積み上がっていない開けた場所を見付けて座ると、どこか呆然と立ちすくんだままのスパーダにこっちだよと手招きし、自身の隣へと促す。ドサリと本を置き、ドカッと勧められた場所に座った彼はキャスケットを深めに被り腕を組んだ。
任せたとひらりと手を振り早速寝る気満々の体勢に入ったスパーダの袖をミルファがくいくいと引くと、帽子で陰った灰の瞳がちらりと彼女を見やる。
「スパーダも少し読んでみたらどう? これとか少し薄めだし……読みやすいんじゃないかな」
「オレは本読めねェから」
「……小さい頃から一緒なのに、今さらそんな嘘信じたりしないよ」
「まあまあ、本足りなくなったら起こせよな。取って来てやっからよ」
「やっぱり寝る気だ〜!」
もう〜! とぷりぷりするが、そんな幼馴染の様子にも慣れたものでスパーダはウトウトと船を漕ぎ始めている。
結局今周りにある選別した書物達は全て彼が運んでくれたのだから、何もしていない自分がこれから頑張るべきだとミルファは気合いを入れ直し、スパーダに本を読んで貰いたいという淡い望みは頭の片隅へ追いやった。
書冊に残された手掛かりを求め、一番上に積まれた先程手に入れた背表紙の豪勢なそれを手にして目次に目を走らせる。
(やっぱり、そう簡単に興味持ったりはしないよね)
スパーダは本当に勉強が嫌いだ。昔から勉学の時間はボイコットが当たり前。親に勝手に入れられた学校も出席せず結局退学。本が好きなミルファの影響か、かろうじて字は読めるものの自ら率先して知識の森に入り込むようなことはしないのだ。嫌いな物を無理に強いるのは良くないとは思うが、彼女は彼のこの先の人生を少し──否、相当心配している。彼の夢のためにも、きっと勉強は必要になってくるだろうから。
お節介な思考を遠くへやり、少しでも多く有益な情報を手に入れる為、ミルファはぺらりぺらりとページをめくった。