18.初めての船旅

 どのくらい本とにらめっこしていただろう。もう太陽はとっくに沈み日付けが変わったんじゃないかと思う程に時間は経っている気はする。しかし、ここには時計もなければ陽も入って来ない。もはや魔物の声かと間違いかねないほど唸るように鳴るコーダの腹時計も当てにはならないので確かめようがなかった。

「では、みんなで調べた内容を共有していきましょうか」

 一意専心とまではいかないものの、それなりに真面目に全員が取り組んだお陰で有益な情報を得ることが出来た。主に勉強に前向きな三人が奮闘したお蔭ではあるが。
 得た情報を出し合いまとめていくと、四つの国が有力候補に上がってきた。
 一つ目、西の国のガラム。
 最近の戦争では北の大陸テノスと同盟を組んで王都に対抗している国。昔から独自の神様を奉じており、その地には火山や鉱山があって鉱物資源に恵まれているため鍛冶や製鉄を生業としている人々が多い。職業神として独自の様式が発展していき、そこの聖地と云われているケルム火山に記憶の場がありそうということ。
 二つ目、東の国のアシハラ。
 歴史が古くて他の国とは違う文化が浸透している大陸。王都から遠く離れた島国のため、教会の影響を受けなかったことからその文化は異文化と呼ばれている。その地にも信仰に関する物が手付かずのまま残っているかもしれないとのこと。
 東西二つの国だけではなく、南海の小国である南の国ガルポスや学術都市と云われている北の国テノスにも小さいながらも手掛かりはありそうだ。前世の神の記憶しか持たず、天上界の勝手が何も分からないのだから、小さい情報も逃すべきではない。藁をも掴む心境で動かなければ他者の手に渡ってしまいかねないだろう。

「話はまとまったか?」
「あら、リカルドさん。どちらに行ってらしたのですか?」

 話の途中で少し席を外すと出て行っていたリカルドが戻って来た。ぴらり、と数枚の紙を見せられ、それは何だろうかと首を傾げる間もなく一人一人に手渡される。小切手サイズのそれには“アシハラ行き”と大きめの印が押されていた。船の乗船券だ。必要になるのを見越して手続きへ行っていたようだ。……居眠りをしていたことがよほどバツが悪かったのかもしれない。
 スパーダが手回し良いなと口笛と共に称賛を贈ると、仕事柄慣れているので問題ないと口角を釣り上げる。傭兵として色んな国へ行くために船を使っていることを話すと、イリアはむきつけに表情を歪ませた。

「……船酔いに効く薬とか、持ってない?」
「生憎だが俺は酔わんので持ってない」
「おっさん船酔いしそうなのにな」
「……おっさんと言うな」

 溜息混じりにスパーダをジトリと睨む。その呼称で呼ばれる度、リカルドは眉間のシワを深めるのである。
 リカルドは二十八歳。まだ二十代後半だ。さすがに“おっさん”は少し酷だが、スパーダ同様、エルマーナも“おっちゃん”と呼ぶのを辞めるつもりはなさそうだ。二人なりの愛称のようなものなのだろう……それを彼自身も分かっているのでこれ以上強く咎めるようなことは言わない。ただ、やはり納得はいかないので目線だけで辞めるよう訴えている。……伝わる様子は皆無だが。
 地下から外へ出た影の功労者達を太陽が出迎える。これからそれが西へ向かい沈もうとする時間帯。乗船券に書かれたまで少し時間はあるので、それならばとスパーダがひとつ提案をする。

「ハルトマンに挨拶しておきてェんだけど、いいか? しばらく戻って来れないだろうし」
「そうしようか。僕も改めてお礼言いたいしね」
「じじいの家か。メシ食えるのか、しかし!」
「タダでご飯出してくれんの?」

 すっかりお腹を空かせたエルマーナとコーダが食事にありつけると思いパッと表情を輝かせるが「挨拶だけだ」と峻拒され、二人は残念そうに項垂れた。見かねたルカとミルファが船の中でご飯を食べようと励ますと瞬く間に立ち直り、にこにことご機嫌になる。切り替えの早さに可笑しくなりルカ達はついつい笑ってしまう。
 町の奥の方にあるハルトマンの家の前まで来たので扉をノック──する前にスパーダがガチャリと相変わらず無遠慮に扉を開ける。家主の名前を呼び上げると奥からハルトマンが姿を現す。身を案じていた客人達が再び訪れてくれたことで安堵した彼は、 莞爾かんじと微笑んだ。

「お疲れでしょう……さあさ、お上がりください。食事の準備を──」
「いや、今日は挨拶に寄ったんだ。これから長旅になりそうでな……船の時間ももうすぐだしよ」
「そうですか……」

 少し残念そうに眉を下げて微笑むハルトマンに続いて「ええー!」とエルマーナとコーダが不満の声を上げる。一度は納得したとはいえ、やはりご馳走になりたい思いは消せなかったようだ。沈む二人の頭をアンジュが優しく撫で、厚意だけありがたく頂こうと諭した。
 ミルファは一歩前に出てぺこりと頭を下げ、沢山世話になったことへの謝意を述べる。次にいつ会えるかは分からないが、きっとまた会えるようにという願いも込めて。

「ハルトマンさん、お元気で。ご自愛くださいね……!」
「はい、ミルファ様も……。お坊ちゃま、どうか士道訓五箇条を忘れずにお進みください」
「ああ、当たり前だ」

 そっと、かつて仕えた少年の手を包み、昔よりもしっかりした青年の手になっていること実感し、成長を喜ぶハルトマン。同じようにスパーダも自分の面倒を見てくれていた優しい執事の手から老いを感じていた。ずっと頼ってばかりで、負担を掛けてすまなかったと。叩き教え込まれた誇りを胸に生きることで恩返しをさせてくれと。今生の別れでもあるまいに浸ってしまった己を心の中で笑い飛ばしつつ、その思い達を込めて強く手を握る。
 言葉にしなくともスパーダの思いを受け取ったハルトマンは、噛み締めるように瞼の裏にも目の前の青年を刻み込んでから名残惜しそうに手を離し、深々と思わず見惚れるようなお辞儀を魅せた。

「皆様、お気を付けていってらっしゃいませ」

 これ以上長居してしまっては離れ難くなるので、名残惜しさを背にいってきますとハルトマンの家を後にした。泣いてもええんやで? とエルマーナに顔を覗き込まれるが、スパーダは泣かねーよと言い彼女の頭を小突く。いつもなら大丈夫かと訊ねる筈の幼馴染の少女はそれもせず、そっとスパーダの隣を歩き、ただ「寂しいね」「そうだな」とだけ言葉を交わした。

「あら、結構人がいらっしゃるのね……」

 会話していると時間が過ぎるのはあっという間というのは本当で、もう港は目の前だった。町中にあるのでそれもそうなのだろうが。少し時間に余裕があるが、早いに越したことはない。人混みを避けて無造作に積み重ねられた荷箱の前で船が訪れるを待つことにする。が、お腹を空かせたエルマーナとコーダが船内で出される食事まで待てないと騒ぎ出してしまい、港にいる同じ船に乗るであろう人達が何事かとちらちら目線をこちらに向けている。あまり目立つべきではない立場なのにこれでは注目の的になりかねない。

「お腹空いて死んでまう〜!」
「コーダも死んでしまうぞ〜、しかし〜!」
「わ、わかった。わかったから……」

 二人を鎮めるため、お腹空いた駄々っ子攻撃に完敗した形で町中にある小さなお店でクレープを買ってあげる羽目になった。……二人を宥めてくれたルカが。便乗するように強請り始めたイリアを突き放せる訳もないので、彼の財布は軽くなるしかない。御愁傷様である。
 仲間が食べているのを前にして釣られてお腹が空いてきたミルファは、未知の食べ物に目を奪われ、白く眩い生クリームと果物の彩りとそれを文字通り包んでいる優しく淡い黄色の誘惑に揺れる。
 ん。と、兎に人参を餌付けしているかのようにミルファの口に食べかけのクレープを不躾に押し付るイリア。生クリームが唇の隙間から入り込み、えいやと一口かじると甘みが口いっぱいに広がる。初めて食べたそれに彼女は「おいしい!」と目を輝かせた。

「あ、船来たで!」

 旅の目的を忘れたかのようにきゃっきゃとはしゃぎ始めた彼等を現実に引き戻すかのよう港に面する波が一際大きく揺れた。汽笛が鳴り、船が到着したことを合図する。大きくしっかりした旅客船は白い塗装が施されており、まるで大きな白鳥のようだとミルファは感激に胸を躍らせた。
 港に橋が架けられ、船への道が出来上がる。船員にチケットを渡し改札鋏で切り込みという印を入れて貰えば、そこはもう海に浮かぶ船の上だ。

「スパーダ! こっちこっち!」
「はしゃぐなよ、落っこちんぞ〜」
「平気だよ〜」

 後ろに居るスパーダを満面の笑みで手招く。甲板で嬉しそうにくるくるとステップを踏むミルファの頭上を太陽が照らしており、まるで海の上のステージのようだ。
 はしゃぐのも無理もない。彼女は海を見るのも船に乗るのも初めてなのだから。
(ああ、すごい! 辺り一面青くて綺麗!)
 空を仰ぐと、出航した船と同じように雲も海の中を流れ泳いでるようで目が楽しい。画集に収められている作品に似たようなものがあったが、やはり本物は違うとミルファは強く思った。
 
「すごいなミルファ姉ちゃん! ホンマに海の上走っとるで!」
「うん! すごいねエルちゃん!」
「ちょ、ちょっと……あんま騒がないでよ……余計揺れるでしょ……」

 甲板ではしゃぐミルファとエルマーナを見て、イリアは何がそんなに楽しいんだかと顔を海よりも深く深く青ざめさせながら愚痴を言う。エルマーナは泳げないそうで、海に落ちたらと思うと恐ろしいが初めてのものは新鮮で楽しいので仕方ないと笑い、その言葉にミルファはうんうんと同意して何度も頷く。

「あたし、初めての船旅は逃避行だったし酔うしで、船は何度乗っても全然楽しくないわ……」
「オレが乗った時は芸人が余興のために船で芸披露するとかあったぜ」
「さすがにそこまではないけど、僕は別荘で小舟に乗ったことがあるなぁ」

 金持ち共め、と恨めしげにじとりとした目を向けるが、予告もなしに吐き気がまた襲い来るのでイリアは足下も覚束ない様子で寝る為に船内に戻る。それをきっかけとし、彼等はそれぞれの時間を過ごすこととした。
 ルカはイリアの様子を案じて船室を訪ねに。アンジュとエルマーナとコーダは船内のバイキングを食べに行き、リカルドはその付き添いに。そして──。

「みんな戻っちゃったね」
「ああ、そうだな」

 ぽつんと取り残された二人。バイキングに付いて行ってみる? とミルファが提案するがスパーダは「横取りされて何度も席立つ羽目になるの目に見えてるから嫌だ」と遠い目をして言い放つ。そんなことないと言おうとしたが、まさに彼の云う場面がデジャヴのように脳内に過ぎったので「そうかもしれないね」と申し訳なさそうに力なく笑う。
 ──潮の香りが二人を撫で、自由に飛び回っている。弄ばれる長い髪やはためく服を直しながら隣を見ると、スパーダはキャスケット帽をしっかと抑えながら空を見上げていた。

「……なあミルファ。うちの士道訓五箇条、覚えてるか?」
「うん。スパーダいつも口にしてたし、意味も説明してくれたもの。もちろん覚えてるよ」

 ぼそりと呟かれた問いにもしっかりと答え、もちろん覚えてるよとにこやかな笑顔を浮かべるミルファに、スパーダは士道訓五箇条を聞かせてみせた。
 心に剣を持ち、誰かの楯となれ。
 右手に規律を、左手に誇りを。
 己を殺し、永久の礎にせよ。
 正しき道を正しく歩め。
 個よりも全に仕えよ。
 以上がベルフォルマ家の士道訓五箇条。騎士としての心掛けを指した五つの言葉。それぞれが指針、規範、自己犠牲、正義、忠誠心を表しており、剣を握るよりも先に五箇条を覚えなければいけなかったようでスパーダはかなり悪戦苦闘していた。何せ勉強が嫌いなのだ。一緒に遊んでいる時、早く剣を握りたい! と息巻いていたのをミルファはしっかり覚えている。何度も共に復唱したのだから忘れる筈もない。
 誰よりも強い騎士になる、と言い剣の鍛錬に励んでいたことも知っている。生まれ持った才もあるが努力家だからこそ今の彼の強さがあるのだろう。

「スパーダ、ずっと頑張ってたよね」
「あの頃は騎士になれるって信じてたからな」
「……もう、目指さないの?」

 問いの答えはすぐには返って来ない。だが、分かっている。目指したくても目指せないことを。ベルフォルマ家の子息が受け継ぐとされている領土や資産は彼の六人の兄達に分けられ、もうスパーダの分はない。
 勝手に家も出て実質絶縁状態。ベルフォルマ家の騎士として出世するのは厳しいだろう。それを彼も自覚している。そんなこと何でもないと言うように笑いながら言うが、傍でスパーダの努力を見ていたミルファは諦め切れなかった。

「……わたし、スパーダが騎士様になって沢山の人を守ってるの、見てみたいなぁ」

 まるで自分の夢のように呟くミルファにスパーダはどうとも返事が出来ない。だって、出来ない約束はしたくない。彼女に嘘を付くのは嫌なのだ。
 湿っぽい空気になる前に、話題を彼女へと移す。ミルファは将来どうするんだと。
 わたし? と目をぱちくりさせ、うーんと真面目に考え込む。……将来はもう決められていて、どこかの名高い貴族の元へ嫁ぐことになるだろう。所謂政略結婚というものだ。フィオリーゼ家におけるミルファの存在意義はその為だけというのは彼女自身も分かっている。
 だが、家に帰らないとしたら。そうしたら彼女は彼女の夢に手を伸ばせる。でも、その手の先にはまだ何も見えない。

「政略結婚、しなきゃいけなかったんだよね。実は……」
「ハァ!? け、結婚てお前……!」
「お相手の方が誰かとかはまだ知らなかったけど……。だから、将来の夢なんて考えたこともなかったや」

 政略結婚なんておかしいだろ! と声を張り上げたい気持ちだったが、スパーダはそうしなかった。彼女を責めるのは違うからだ。
 腹立たしさと焦りのような、見えない感情がごぼごぼと息をし始めている──というよりは、感情がやっと目覚め始めているといった感覚の方が近しい。一体なんなんだと自分の胸を掻き毟りたくなる衝動に駆られる。
 隣に居る幼馴染が難しい顔をしているので自分の言葉がそうさせたと思ったミルファがごめんねと悲しい笑みを浮かべるので、まぁたこいつは自分を責めていると悟ったスパーダは「謝るな」と言い頭にずびしと軽く手刀を落とす。痛みにも満たない小さなそれに彼女は顔を上げて大きな瞳をぱちくりさせて幼馴染を見詰めた。
 夢なんて皆が皆持っている訳ではない。ないならないで良いのだ。大切な幼馴染が普通に生きられれば、自分の隣でいつものように笑っていてくれるならそれだけで良い。

「……えへへ、せっかくだし考えてみちゃおうかな」

 微笑むミルファの髪がリボンのようにひらひら風に舞う。
 スパーダは昔から自分の手を引いてくれて、光へと誘なってくれる。家を出られたら。帰らずにいられたら。政略結婚をせずに済むのなら。そんな未来を想像してみても良いなら、今度は自分がスパーダの手を引いて、守って行けたら──そう思った。





 船を降り、アシハラに降り立つ。知らない国の地に足を下ろすだけで少しぎこちない動きになってしまう。水平線の彼方に自分達の故郷があるのだと思うとなんだか不思議で、ミルファは少しの不安と少しの期待に包まれた。
 雲はすっかり泳ぐことを止め、空を流れる。空の色はもう夕焼けに染まっている。紫が塗り重なるのも、もうすぐだろう。
 今日はもう宿で部屋を取り、明日に備えることにする。アシハラ探索は夜が明けてからだ。

hitsujitohana