22.揺れる波と心
海を走る船の上、ゆらゆらとただただ揺られる。
夕暮れが過ぎ、紫と紺が混ざり合う夜が訪れていた。
全く慌ただしいことでまともに休む事も出来ないままアシハラを発ったので、食事も満足に取れないままだ。船内で販売されていた弁当を人数分買って客室で開けることにした。
木製の箱からほのかに自然の香りがする。薄い木の蓋を開けると、鮮やかな色達が出迎えた。色とりどりのおかずが何種も詰められていて、その中のいくつかはアシハラの名物なのか見たことのない品のようでどんな味がするのかと期待が膨らむ。白い米の上には鶏肉が甘辛く煮詰められた茶色と黄色い玉子のそぼろが乗せられており、馥郁とした匂いだけで食欲が満たされるようだ。
「めっちゃうまーい!」
「うまいなー、しかし」
がつがつもぐもぐ。口いっぱいに頬張るエルマーナとコーダが太陽のような満面の笑みを見せる。他の客室にまで声が届いているのではと思う程の大きく溌剌とした声は、陰鬱な気分を吹き飛ばしそうだ。ふたりの口元に付いている食べくずをそっと紙ナプキンで拭ったアンジュは、窓から射し込む紺にうっすらと灰色の膜が張るのに気付き窓の外へ目を向ける。
「あら、次の目的地が見えて来たみたいね」
「何やアレ〜! めっちゃ煙ってるやん!」
「あはは。あれは火山だよ、エル」
さっさと食べ終えたエルマーナが客室の窓をはしゃいで覗き込む。もう夜なので見え辛いことこの上無いが、灰色の正体は火山から立ち上がる煙だ。次の目的地のガラムは二つ名は火山の国と言われている。それが今まさに見え始めているのだ。到着までそう時間はかからないだろう。
見たことのない景色に出会えるのは喜ばしいことなのだが、ミルファは心の底から喜べずにいた。弁当箱の中身が全く減っておらず、箸が進んでいないのが分かる。落ち込んでいる訳ではない。……ただ、気掛かりなのである。
小さな机の上にあるひとつの弁当をちらりと見やる。今この客室に居ない者の分だ。
「……ベルフォルマなら甲板に居るぞ」
「へっ?」
ミルファの心を見透かしたリカルドがそう言ってすぐ豚肉で人参等の野菜を巻いた惣菜を口に含んだ。酒に合いそうだなと思いつつも流石に今の状況で飲酒する気にはならなかったようでそのまま箸を進める。
なんだなんだと他の仲間から視線を向けられ、ミルファはえっとえっと……と口籠もったがすぐに観念して思っていた事を話した。
「あのね、スパーダ、なんか……いつもと違ってたから……」
「あ〜、めっちゃ顔怖かったでなぁ!」
「こぉら。スパーダくんが聞いてたら怒られるわよ?」
彼からすると怖いと言われるのは心外だろうが、王墓を出る前からずっと顔が強張っているのでエルマーナがそう思うのも仕方ない。しかし、ミルファには彼の表情は暗く思い詰めているように見えていた。怒っているような、苦しんでいるような……。
(きっと、ハルクスに何か言われたのが原因なんだろうけど……話してくれないの、かな)
話し辛いことなのだろうか。踏み込むべきじゃないのかもしれない。でも、お節介だとしても、放っておくことは出来ない。
悶々と考えた結果、弁当の蓋をぱたんと閉めて小さな机に置き、ミルファはすっくと立ち上がる。
「ちょっとミルファ、どこ行くのよ?」
「甲板に行って来る! 先に寝てて貰っても良いから……!」
食べられても知らないわよという声を後ろに急いで部屋を後にした。
パタンと扉を閉め、小走りで船内を渡り大きな扉から甲板に出ると風が迎えるように強く吹き、乱された髪が顔にクリーンヒットする。
「わぷっ!?」
髪を整えながらきょろきょろと辺りを見回しスパーダを探す。すると、紺青に紛れて見慣れたキャスケット帽が目に入った。見つけた! と思ったミルファは、たたっ、と駆け寄り彼の隣に立つと彼の顔を覗き込んだ。一瞬だが、難しく固まっていた顔が驚きに顔を変える。重苦しいばかりだった表情が変わったことが何だか嬉しくて、彼女はえへへと口元が緩ませてしまっている。
夜の風はとても冷たい。今は海の上で、冷たくされたそれが否応にも体を冷やす。
風邪引いちゃうよ、と言うミルファの方を見ることもなく、彼は適当な生返事。心ここにあらずと云った様子だ。
まるで、幼いあの頃のようだとミルファは思った。ある日を境にスパーダが暗い顔をすることが増えたので何かあったのかと訊ねてみるも教えてくれない。“何か”というのは兄達からの陰湿な嫌がらせのことだが、ミルファは知らない。きっと家で悲しいことがあったんだろうな、そしてそれは自分にも話し辛い苦しいことなのだろうなと幼いながらに感じ取っていた。話せなくても、聞けなくても、それでも出来る事はある。そうしてミルファは何も詮索せず隣に居ることに努めたのだ。
「……ひとりぼっちで居させたくなかったの。お節介でごめんね」
「……」
沈黙から生まれた闇のヴェールが完全に空を覆い尽くし、隙間から月の光を覗かせる。せっかく夜更かしをしているのだしただ隣に突っ立つよりも何か気の紛れる話でもしようかと色々考えていると彼がぼそりと呟いた。
「……オレ、まだまだ弱ェよなって思ってさ」
「え?」
「悔しいって思っちまった」
「スパーダ……」
「このままじゃ、大切な奴を守ってやれない。自分に腹が立つっつーか……」
はは、と渇いた笑いを零す彼は辛そうで無理に笑っているように見える。そして、何故怒ったような、苦しいような顔をしていたのか理解した。……彼は、悔しかったのだと。自分自身に怒っていたのだと。
そうして案の定、スパーダは物思いに耽ってしまっていたのだ。柄にも無く、ずっと。去り際に告げられたハルクスの言葉がぐるぐると何度も何度も脳の中で回っている。
『貴方はまだ弱い。それでは自分の身はおろか、ミルファ様を守ることはできないでしょうね』
その氷柱のような言葉はスパーダの胸にぐっさりと刺さった。ハルクスの言葉に同意するのは彼にとって無性に腹立たしいことだが、図星だったのだ。反論すら出来なかったのはそのせいである。
鍛錬を欠かさず行っているのでそこいらの輩よりは弱くはないと自負しているが、それでもだめなのだ。ミルファを戦わせないほど強くありたいと思っているのだから。だが、彼女はただの幼馴染ではなくて共に旅をする仲間でもある。戦わせないことなど出来ない。
色々な思いが自分の中で交錯して苛むスパーダにミルファは微笑みを向けた。そして、同情でも気休めでもない気持ちを口にする。
「大丈夫。スパーダは強いよ!」
「ミルファ……」
「だって、こんなに悩むほど強く思ってるんだから」
剣の腕、武力的な一面は勿論だが、彼は心が強い。信念が、魂が、まるで鍛えられた剣のようにしっかりとしていて曲がらない……どこまでも真っ直ぐだ。スパーダはきっと今後、沢山の人を守るために剣を振るう筈。そんな彼なら大切な人を守れると――ミルファは嘘も疑いなんてひとつもなく、そう強く信じている。
だから、諦めないで。そう伝えるとスパーダはほんの少し顔を綻ばせてミルファを見詰め、頷く。
(……まさか、守りたい本人から励まされるなんてな)
スパーダが笑顔になって安堵したように花が咲いたように笑う彼女を横目に、彼は弱気だった自分にやれやれと悪態をつくように大きく息を吐いた。そして、その彼女からの励ましで簡単に嬉しくなる自分のが何だか子供のようで悔しく思う。でも、それでも良いのだ。
剣を握る理由、目的は夢と家族を見返すためからだったのに、いつからだろうか――平穏に笑っていて欲しい彼女の全てを守りたいと思いながら剣を振ることが増えていたことを思い出し、スパーダは拳を握り締めて決意を表す。
(もっともっと強くなってやる。誰にも負けないように)
それは同時に、大切な人を守ることにも、自分の信じた正しき道を正しく歩むことにも繋がるだろう。
「わたしが出来ること少ないと思うけど、言えそうなときは何でも言ってね。助けになるよ!」
「サンキュ。ま、オレが助ける方が多くなるだろうけどな。お前ドジなとこあるし」
「うっ……そ、その通りかもしれない……」
ケラケラと笑うスパーダに頭を軽く叩かれる……というより撫でられながらミルファは考えていた。スパーダの守りたい人って誰なんだろう、と。
正直言って驚いたのである。ずっと傍に居たのにそんな人が居たなんて気が付かなかった。いつも前向きなスパーダがこんなに悩む程の相手は……誰なんだろうか。
全然知らない人? 路地裏に時々いた派手な服装の女性? 仲間の誰か、なのだろうか。
(聞いて、いいのかな。でも……)
口を開き、言葉を出そうとするが、喉に痞えて声が出ない。『守りたい人教えて』だなんて。――知りたいようで、知りたくない。やっぱり、聞けない。ミルファは唇をゆっくり、きゅっと閉じた。
スパーダはよく、誓いでも立てるかのように『オレが守る』と口にする。友達にでも仲間にでも。ルカに対してはそれが顕著な気がする。出逢いの当初は恐らく多少なりとも前世の関係もあっただろうが、もうそんなことは関係なく彼とスパーダは背中を任せ合えるような仲と云えるので“守りたい”とはまた違うだろう。
純粋な疑問と、何か霧のような見えない感情がミルファの心を包む。これは何? 彼の知らない部分が現れたことで、それが彼を何処かに連れて行きそうな気がして不安なのだろうか。いつまでも一緒に居られると思っていたけれど、そんなものは違うと現実を見せられているよう。
もしかしたら、と浮び掛けた後ろ向きな考えを上がり切る前に振り払う。そんな、御座なりな考えは、だめだ。
「……じゃ、さっそくひとつ頼んでいいか?」
「えっ、な、なぁに?」
もはや波紋の模様すら見えない水面をじいと見詰めていたミルファは、頼み事をしたいというスパーダの声に顔を上げて彼を見ようとする。と。
隣に居た筈の彼は、後ろから抱くように肩を掴み、ミルファの小柄な身体を包み込んだ。傍から見るとまるで消えたかと錯覚する程、すっぽりと。
「わ、え、ど、どうしたの……!?」
「ちょっとの間、黙ってこうされてろ」
何故こんなことを頼みとするのかミルファには皆目見当がつかない。
背中が、首筋にかかる髪が、彼女の心の臓をうるさくさせる。暖かさもくすぐったさも、大好きな幼馴染に与えられるものは安心できて嬉しいものの筈。いつも自分から彼に抱き付きに行ったり、彼から肩を組むように抱き寄せられることもあった。当たり前だったことが旅に出てから、昔のままの彼ではないと分かってからは、ばくばくばく、と体の中心が騒ぐのだ。
それでもただ、彼の望むように黙って受け入れる。他でもない大切な幼馴染の願いだから。
もう、今度から抱き付くことはやめるようにしなくちゃだの、もう子供じゃないんだからだの、スパーダの守りたい人にも悪いしだの――若干見当外れな思考も交えつつ、ミルファは顔を火照らせながらされるがまま抱き締められている。
彼女の肩を掴むスパーダの手の力がより一層強くなる。痛みを与えるのが目的ではない。ただ――。その掴む強さは何か強固な意志のようにも感じられた。闇夜に紛れている上に後ろから抱かれているのでミルファには分からないが、彼の頬はうっすらと紅潮している。
はい、おしまい。としばらくしてからふたりはひとつだった影を分けて、部屋に戻った。
ミルファの食べかけの弁当も、スパーダの未開封の弁当も、すっかり空になった様子でふたりを出迎えたのだった。