24.魔槍と灯

 こきゅ、こきゅ、こきゅ。三度喉を鳴らし、アンジュに手渡された水筒で少し喉を潤した。ひや、とぼやけていた身体の芯と視界が徐々に鮮明になっていく。ありがとうと笑顔でお礼と共に水筒を返し、ミルファはさっきまでとは違い軽くなった瞼をぱちぱちと瞬かせた。
 だいぶ、この頭痛にも慣れて来たようだ。倒れて迷惑を掛けることがなくなっただけでも安心出来る。
 さて、見えた記憶の意味を考えなければ。そうして手探りに記憶に触れてみる。……それでも、よく分からない。自分はリリヴァに関してまだ何も真に迫る事柄は思い返せていないとミルファは確信した。
 彼女は何に呼ばれていたんだろうか。自分の身体が弱いことを恨めしいと思っている彼女は何を求めたのか。……なんだか嫌な予感が拭えない。ドッ、ドッ、と心臓が不吉に警報を鳴らし騒ぐ。
(……全部思い出したら、頭痛は消えるのかな。それとも、リリヴァさんにとって辛い過去だから痛みが伴う……?)
 憶測ならいくらでも立てられるが、答えはわからない。やはり記憶の場に頼るしかないのだろう。
 落ち着こう、と息を深く吐く。内側に籠っていた熱がマグマに呑まれ、肌で感じる熱さが増したような気がした。流れる汗が滝のようで、再び頭がぼうっとして来る。ぱたぱたと何かで扇ぎたいところだが、入口付近とは違いこの場所では暖かい風がぐるぐると回るだけなのでそれをするのも憚られる。

「熱いんだなぁ〜しかし……丸焼きになってしまうんだなぁ〜」
「うまそうやけどなんかイヤやなぁ。あ〜、あっつぅ……」
「エル、平気? 水飲んでる?」
「ルカ兄ちゃん、心配性やなぁ。ウチのことより自分の心配しときぃ」

 皆それぞれ熱さから少しでも逃れられるようにと、いそいそと上着を脱いだりし始めるも、汗は止まることはない。気持ち少し涼しくなったように感じてもそれは一瞬で掻き消される。
(うう、服が貼り付く……)
 上着を脱ぎたいところだけど、脱いでしまうと中は薄着過ぎるし汗で濡れているだろうし脱がずに居るしかない。
けれど、そのままというのは余りにも酷なので、腕のレースグローブだけは外して上に着ている服を引っ張っては放して引っ張っては放して……という動きを繰り返して少しでも解放感を味わおうとしている時だった。
 ちらりと仲間の様子を見てみると、リカルドは相変わらず漆黒のコートを纏ったまま脱がず、熱に耐えている。我慢大会なら間違いなく優勝だろう。一方でアンジュはバタバタとスカートをはためかせ、何度も何度も同じ言葉を繰り返している。熱い、暑い、あつい。ひぃふぅと目を回し、ボディーガードであるリカルドに“熱さから守って”と無理難題を押し付ける始末。暑い場所にめっぽう弱いようだ。

「……セレーナ。俺は依頼者を守りたいと努力は常々しているつもりだが、さすがに熱さをどうにかする力は持ち合わせておらん」
「熱いのってダイエットにエエらしいし、これを期に痩せれるんとちゃう?」
「……あ、バカ! エル、余計な事言っちゃてぇ……」
「あ、やってもうた」

 空気が凍てついたのが分かる。こんな熱い場に居るというのに、ぶるりと身が震えるほどの、冷たさ。それに場が支配されている。……地雷を踏み抜いてしまったのは明白だ。
 にこりと口元だけ笑んでいるアンジュに捕まったエルマーナは、彼女がそっと敷いたハンカチの上に正座をさせられそうになっている。説法を聞かされるのは分かったが、絶対に長くなる。こんな場所でそれはさすがに酷だろう。それだけアンジュも傷付いたのだろうが、ここは堪えて貰わなければ。

「ア、アンジュ落ち着いて」
「ほら、エルちゃん。ごめんなさいして?」
「ごめんなぁアンジュ姉ちゃん、つい思ったこと口に……むぐ」
「エル、あんたもう黙っといた方がいいわよ……」

 素直に隠さず物を言うところはエルマーナのいいところではあるのだが、今日ばかりはそれを封じなければ全員が蒸し焼きになってしまいかねない。
 わざとじゃなければ何をしても良い訳ではないし、その何気ない言葉ひとつで人は傷付くこともある。それだけ言い諭すと、アンジュは一足先に奥へと歩みを始めた。ホッと安堵の息を吐き、全員その後ろに続く。
 アンジュはダイエットなんてしなくても良いとミルファは思うが、こればかりは本人が自分の体型をどう思っているか、だ。実際、ミルファだって身長の割に体重が重いのを気にしているので似たようなものだろう。
(……あれ?)
 一人、明らかに歩みが遅く話から外れる姿が目に入る。ついに熱中症にでもなってしまったのではと心配したミルファがその彼に駆け寄って肩をつんつんと突くと、ぼんやりとしていた彼──スパーダは大きな汗粒をひとつぼたりと流しながら振り返った。
 心配する彼女に大丈夫だと彼は答えるが、やはりどこかおかしい。だが調子が悪いというよりは、何か、熱さよりも他の事に気を取られているようだ。やはり、前世の記憶に関連していることなのだろう。もしかしたら、思い出したくないことかもしれない。ミルファが見た記憶のように不安に駆られる事かもしれない。
 不躾に聞くのは良くない気がしてどうすることもできず、ただ顔色を伺うように幼馴染を見詰めるしかないでいると。す、と極自然に、当たり前のようにスパーダの手が伸び、ミルファの頬に触れた。どうしたんだろうと不思議そうに目をぱちくりと丸くしていると、スパーダの手が離れて行く。その指には菫色の髪がしとりと絡んでいた。汗で頬に貼り付いた髪を取り払ってくれたのだ。

「髪、食うとこだったぜ」

 ちょい、と自分の口を差してジェスチャーをする彼にお礼を言うと、例の如くぐしゃぐしゃと髪を撫で乱された。もはやお決まりの反論をしようとしたがそれよりも先にスパーダが足早に前を歩き出したので、ミルファは髪を手櫛で直しながらその後に続く。
 奥へ奥へと進むにつれ、ジリジリとした熱が身体を燃やしてるかのように火照る。水筒の中の水も残り少なくなってきたので、このままでは本当に熱中症で倒れてしまいかねない。
 こんな中であの殺人鬼に遭遇しても大丈夫なのだろうか。……まともに戦える気がしない。どうか会いませんように、とミルファが胸の前で強く手を組んで何度も神様に願っていると、やがて先に道が見えない行き止まりに辿り着いた。そこには──。

「コンニチハ、ミナサン。ヨウコソ! ケルム火山へ!」

 無常にも願いは届かず、カクカクとわざとらしく兵隊人形のような動きをした、フリルのあしらわれた赤い装いに身を包んだ長身の男が待ち構えていた。西の戦場で会ったときと何ら変わらない殺人鬼の様子に、彼と顔馴染みのリカルドは頭を抱える。死に損なったこととこの熱気のせいでついに狂ったかと悪態を吐くが、元々こういう掴みどころのない男だということはリカルド自身がよく分かっているのである。
 何故ここに居るのか、住民が迷惑しているので帰れ、など……会話を試みるがそんな挑戦はそもそも成り立たない。男の奇妙さは以前よりもさらにレベルを上げており、ますます頭を抱えるばかり。耐え切れなくなったイリアがムキになって地面をダンダンと踏み付け八つ当たりを始めてしまう有様だ。
 すると、何にも見向きもせず不自然にゆらゆらと揺れていたハスタがミルファに気が付き、一瞬目をギラリと輝かせた。思わず後退るミルファに構わず、相手は一歩足を踏み出す。

「お。オレの餌じゃないか〜、しばらく会えなかったから寂しかったですよ?」
「……っ、ぁ」

 もう、あの戦場で付けられた噛み傷は治っている。大丈夫、怖くない。ミルファはそうして自分を鼓舞するがあの時の出来事や感覚が蘇ってきてしまい、首筋が疼く。
(……落ち着かないと、しっかりしないと)
 怯える自身にそう言い聞かせている彼女の前に、スパーダが庇うように立ち塞がった。

「誰がテメェのなモンかよ! コイツはお前のじゃねぇ!!」

 彼に続いて、イリアがミルファをハスタから距離を離すために後ろから手を引いて引き寄せた。……しかし、そんな行為はやっぱりこの殺人鬼には何の効果もない。関係ないとでも言うように緊張感もなくミルファを手招きして呼んでいる。

「ハスタくんのうさぎちゃ〜ん、ほぉらこちらへおいで」
「きっしょいこと言ってんじゃないわよ!! ほら、アンタもなんか言ってやんなさい!」
「え、えっと、えっと……。ハスタさん、痛いことしたので傍に行きたくないですっ」

 背中をバシリと叩かれたミルファはハスタに言うべきことを考えてみたけれど、そもそも彼とまともに話したことなんてない上に恐ろしくて痛い記憶しかない。その気持ちをなんとか伝えてみたが、奴は少しも表情を変えず感情のない顔で彼女をじいと見詰めている。沈黙をまとった妙な空気が漂い、なんとも言えない状況にミルファはまごまごしてしまう。

「バカ! こんなクソ野郎放っておきゃイイんだよ!」

 そもそも関わらせるな。言わせなくて良い。スパーダが叱咤するように叫ぶが、ハスタはそれに反してにんまりと綺麗に唇を歪ませた。全く本当に、何を考えているのやら。以前にも増して会話が成立しない。リカルドが言っていた話と繋ぎ合わせて考えれば、このハスタはリカルドと一戦交えたことで前世を思い出したのだから、それがきっかけで異色さが増したと云えるだろう。前世の記憶に囚われたことで自我を無くした人も沢山居たのだから、不思議ではない。
 喜色満面と見える笑みですら、血に濡れているようで恐ろしい。

「あ〜謝罪をご所望? 申し訳ございませんでござる。なんちて」
「え、あ、はい……?」
「はい。じゃ、もう一回齧らせてくれます?」

 首をこてりと傾げて微塵も悪びれることなく言ってのけるハスタに、ミルファは困惑と恐れに言葉を失った。
 ビキッ。ブチッ。と、少年少女の我慢の糸がちぎられ、ふざけるな! と今度こそ一触即発の空気へと切り替わった。スパーダは剣の柄に、イリアは拳銃の持ち手に手を掛け、ギッと目を吊り上げて威嚇する。
 ショックが隠せず肩を落とすミルファをアンジュがそっと包み込むように寄り添い、想像以上に話が通じない、と苦言を漏らした。奇跡的に貰えた謝罪の言葉は心の籠っていなかった形だけの空虚な物。騙されたとまでは思わないものの、疑う事すらせずに当たり前のように信じてしまいかけたことがミルファは悔しくてたまらない。まるで井底の蛙のようではないか。
 静観していたリカルドが取って付けたようにハァアと息を吐いた。ライフルを握り直し、その銃口をハスタの頭部へしっかりと狙いを定め、今度こそ逃がさない意思を示した。今こそその脳天に弾丸をブチ込み、妄言や戯言に付き合うのはここまでだ、と。
 しかしやはりというべきか、ハスタはそんな危機的状況でも何のその。にたりと笑い背を向けたかと思うと、記憶の場へと一歩一歩近付いて行った。

「あ、あいつ! 記憶の場に入ってまうで!?」
「ボクちゃんだけが覚えてるのは、なんだか悲しいのでぇ〜」

 ハスタはまるで喜劇でも始めるかのようにその場で優雅にくるりと回ってからルカ達に向かって一礼すると、軽くステップを踏むように輝きの中に先の尖った靴で踏み入る。
 ──ショーをご覧になって、思い出して頂戴な。
 声と共に弾けた光に包まれ、もはや慣れ始めた瞼の裏に映る光景に意識は囚われた。





 曇天の下の国境。風に弄ばれた銀の髪の靡きをやめると、目の前には禍々しい雰囲気を纏う槍が現れた。リリヴァの身の丈よりも何倍も大きく、そして美しい。青白いクリスタルで作られているその矛先はどんな敵でも貫くのだろうと容易に想像が付く。 
 正体不明の声の主は、リリヴァを呼んでいたのは、この槍だ。
 惚けて見詰めていると、ぼうっと静かにクリスタルが輝き、声が響いた。……この光景は、よく知っている。

「やっと来たか。待ちくたびれたぜェ」
「……貴方が、私を呼んでいたの?」
「あぁそうとも。オレがテメェを呼んでたんだよ」

 会話を交わす最中、否、その前から感じている空気に身体がムカムカと気持ち悪さを訴えて来る。槍の喋り方や態度は、わりかし品のある者が集うリリヴァの周りには居ない些か珍しい種ではあるものの、嫌悪感はない。ではこの言いようのない不快さはなんだ? そう考えて気付いた。この槍が漂わせる禍々しく混沌とした狂気のせいだと。
 このままでは体調を悪くしてしまう恐れがある。神性が侵されて黒に染まってしまうような、じくじくと肌に纏わり付く闇の感覚に、神でありながらリリヴァは震えた。
 身体の弱さと戦うことの出来ない弱さも相まって三重苦に陥るのではと空想する。それだけでも恐ろしい。だってそうなれば、アスラ達に迷惑や心配を掛けてしまうことは必至なのだから。
 ……早々に立ち去るべきだ。だが無計画に背を向けて去ることも出来ない。慎重に、けれど、なるべく迅速に。この場を離れるため、リリヴァはまず槍の目的に耳を傾けようとした。
 ……それが、間違いだった。

「お前、戦う力が欲しいんだろ?」
「……!」
「オレなら力を与えてやれるぜぇ?」

 なんという蠱惑的な言葉か。それは、リリヴァが求めて求めて止まない、手に入れることの出来なかった何より欲しい物。
 力が欲しいのだ。血の繋がる者達と共に闘えるような、自分の身を守れるような、そんな力が。
 何故この者がリリヴァの願いを感じ取れたのかは分からないが、その真実を知ろうとする理性はもはや頭の隅に追いやられ始めている。目の前に現れた欲する物に意識が囚われ、本当に力を与えてくれるのかどうかということの方が重要な物となってしまいつつあった。
 さあ、どうするよ。まるで──選ばなければもう二度と手に入らないと宣告するように告げられたその言葉に、ドクドクと嫌に心臓が働きを早めていく。
 逃したくない。一生掛けても叶わない運命を打ち破れるのなら。守られるだけの不甲斐ない神である自分を変えられるのなら、力が欲しい。

「力が欲しいなら、オレを取れ!」

 薄らと青白く光らせていたクリスタルが、その光を強め、リリヴァに叫ぶ。
 ──迷いはない。だって、力が手に入るのだから。
 彼女は手を伸ばし、その冷たい身体に触れた。兄の誇り高き剣とは違い、とても冷たく、恐ろしく──。

「オレの名はゲイボルグ。お前の名は何だ」
「……私は、リリヴァ」

 手に入れる力を手放さないためにぐっと握ると、一層強く輝く槍。淀み輝くその光はニタリと濁った笑みのようだ。
 体中の筋肉、臓器を縛っていた病弱という見えない鎖がひとつひとつ壊されていき、全身が軽くなる。振るわれる事のなかった力が解き放たれていくような感覚に、年甲斐もなく胸が躍っている。これで、私も戦える。そう実感するとどうしようもなく嬉しくなり、涙が流れそうだ。
 戦う力と身体を手に入れた自分を見たら、皆どう思うだろう。リリヴァは想像に花を咲かせてみる。良かったと喜んでくれるだろうか、ああそれより先に勝手に出て行ったことを咎められるだろうか。でも、もう役立たずなんかじゃない。一緒に戦える。じいんと染み渡る思いを噛み締めるように瞳を閉じる。
 やっと、やっと! やっとこの日が来た! 早く帰りたい、帰って、愛する家族に会って、一刻も早く戦場に立って役に立ちたい!
 逸る気持ちから足を前に動かした──つもりだった。
(……!? 何故? 動かない)
 口も手も足も身体も、全て。重しと鎖で繋がれたかのように重く、自身の意志で動かすことが出来なくなっていた。何故、どうして。有頂天に達していた思いが途端に地へ落ちたよう。ぐい、と意識が身体から無理矢理引き剥がされ、散らばっていく。
 途端、右腕が勝手に動き始めた。足も、一歩一歩ゆっくりと。紐に囚われたマリオネットのように。
 ……さすがにおかしい。──不吉な予想が脳に広がり冷や汗を流す彼女にその答えは告げられた。

「気分はどうだァ? リリヴァ」
「……ゲイボルグ、これはどういうこと!?」
「お前はオレに体を支配される契約をしたってこった。オレを使うってのはそういうことだぜ」
「……そん、な」

 真っ暗な精神世界に落ちて来た声は絶望の海のようだった。リリヴァの心はずぶずぶと沈んでいく。
 何の対価もなく力が手に入る訳がないというのに、神でありながらそんなことにも気付かないなど……自身の存在すら恥ずかしく思う程だった。屈辱など抱くのも烏滸がましい。考えなしの自分など槍に体を乗っ取られるも仕方がないとさえ彼女は自分に失望した。

「……どこへ向かっているの、ゲイボルグ」
「チッ……うるせぇな。傀儡は傀儡らしく黙って使われてろやァ!」

 言い返す言葉が見付からず、ただずるずると身体を勝手に引き摺られていく。纏わり付く黒い鎖は殺戮の意志。この槍は使い手を乗っ取り、その美しい結晶体を血で濡らすのが好きなのだろう。使命感も何も感じられない。ただ、自分の欲求を満たすだけのものだ。だが、それを咎めることは自分に出来る訳がない。欲求を優先した自分も似たようなものだろうとリリヴァは自嘲的な笑みを零した。
 報いだろう。家族の言葉にも、兄の戦友である彼の言葉にも、きちんと耳を傾けなかったから、不相応な願いを諦めなかったから。まるで地上の幼子のように涙を零すしか出来ない。後悔ばかりが波として押し寄せ、息を奪っていくよう。
 ……だが、使われたまま死ぬなんて真っ平ご免だ。散らばる自分を手繰り寄せ、出来うる限り抗おうと決めた。どうせもう余命幾何もない身なのだ。ならば、無意味な犠牲を生まぬように命を燃やすべきだろう。
(このまま思い通りになんて、させるものか)
 灯の女神としての力を使い、闇を払おうとする。内側から自分を縛る力を拒絶し、やがてそれはボロボロと綻んでいくが、そう物事は上手く運ばない。絶対に逃がさない、自由になどさせないというようにギリリと拘束が強くなった。身体の至る所が締め上げられているかのように苦しく、光が押し消されてしまいそうだ。

「……我が妹の身体を弄んでいるのは、貴様か」

 声だけでしか確認が出来ないが、間違いない。厳格でいて猛進的な熱さ、揺るがない強さを思わせるそれを聞き間違える訳がない。
(アスラお兄様……!?)
 もはや城を抜け出してどれくらいの時が刻まれたのかは分からないが、アスラはリリヴァの身を案じて探しに来たのだろう。
 何故ここが分かったのか。勝手な事をしてごめんなさい。どうか逃げて。色々言いたいことはあるが、伝えられない。なんともどかしいのだ、と唇を噛み締める思いだ。
 ぐぐ、と腕が操られるように引っ張られ、体が自分の意思に反して勝手に動き始めた。まさか、まさか。想像なんてするまでもなくこの行動の意味は分かる。目の前に居るアスラを討ち取るつもりなのだ──リリヴァの身体を使って。

「斬ってみろよ……なあ、オイ!」

 どちらに言っているのか、あるいはどちらにもか。ゲイボルグが猛り、今までとは比べ物にならない強制力が腕を従わせる。粗雑に振るわれた腕に、確かな感触があった。引き締まった筋肉を、神の身体を傷付けたという肉感が。
 血を啜る槍が歓喜の声を上げ、何度も何度も構うことなく腕を振り続け、更なる鮮血を求める。

「もっと、もっとだァア!」
「う、ぐ……っ、この、外道が……ッ!」

 違う、違う、違う。私が望んだのはこんなことではない。リリヴァは夢見た絵空事と現実のあまりの違いにボロボログサグサと心が痛みを纏うのを感じた。
 自らの願いのせいで大切な人達を自分の手で傷付けているのだと、痛みに呻きながらも懸命にリリヴァを呼ぶ声が届く度、止まることのない手がそれを示す度、後悔が身を切り裂いていく。
 目を覚ませと何度も何度も信じて呼び掛けてくれているというのに、リリヴァはその胸に飛び込む事すら許されない。突きつけられる自分の愚かさに無力を改めて実感し打ちひしがれるばかり。

「さあ……観念するんだなアスラ!!」

 リリヴァのか細い腕が勢いよくゲイボルグの力で引っ張り上げられる。翳した槍をくるりと持ち替え、とどめの一刺しをお見舞いするつもりなのだろう。
 やめて、お願い、それだけは。必死に、必死に抗うが、自分の身体だと云うのにいう事を聞かない。女神としての力も通用せず、虎口を脱する術もない。どうしたらいいか呼吸も忘れるほどに抗いながら思案していると、感情のない声が静かに語り掛けてきた。

「……“強さ”とは、制する事。人を制し、場を制し、時を制する力を云う」
「……アン? 何言ってやがる、テメェ」
「お前は“強さ”を履き違えている。闘う力だけがそうではないのだ」

 デュランダルの言葉を聞き流すことの出来なかったゲイボルグがアスラの鼻先でその切っ先を止める。渇いた土にアスラの血がしみ込んだ臭いがリリヴァの脳を刺激し、皮肉にもそれが鎖を綻ばせるきっかけとなった。闇が段階的に払われていき、視界が色付く。体の方も徐々にゲイボルグの意志が離れつつあり、彼女は自分を取り戻し始めている。

「そうだ、リリヴァ。お前は、他者を思いやり寄り添える力を持っている。だから──」
「うるせェんだよ! この女の身体は渡さねえ! テメェらはさっさとくたばりやがれ!!」
「行くぞ、デュランダル!」
「ああ」

 今更だ、とリリヴァは思った。ずっとずっと力が欲しかったのだから。弱い自分に、何の役にも立てない自分から目を逸らして、ずっと。自分だけが戦えないことが心苦しかった。『お前はそのままでいい』と言われても納得がいかなかった。胸中渦巻くその想いの根本は全て他者を思うが故なのだが、それに本人が気付くのは、今ではない。
(私は私のままでもいいの? 役に立たない、弱い存在のままで)
 そんな一朝一夕にころりと幾年抱き続けた願いが変わる訳はないが、少なくともこのままゲイボルグに操られたままアスラを手に掛けることで“強さ”を実感するのは違うことは分かる。いつか答えは見えるだろうか。今日この日のようにいつの日か戦えない身でも良かったと思えるだろうか。
 この命が灯り続ける限り、灯の女神として出来うる全てで力になろう。これからの世界の為にも。そう心から決意出来た彼女は今日やっと、弱さに向き合うことを選べたのだ。

「なん、だ……!? 体を操れない!!」
「ゲイボルグ……」
「リリヴァ、てめぇッ……!」
「ごめんなさい、──さようなら」

 敵陣の武具とはいえ、自分の身勝手で彼を殺してしまうことになったことに罪悪感を覚えたリリヴァは、逃げられないようにとゲイボルグを強く、今度は闇の拘束からの解放を願い、冷たいクリスタル体を握る。
 そして、アスラの薙いだ一閃が、禍々しい念を放つ槍を両断した。

hitsujitohana