25.広がる赤
現実の感覚が戻り一番に感じたのは肌を伝う汗の感覚。油汗なのか、冷や汗なのか、暑さによる汗なのか、だらだらと溢れるそれは地面を色濃くする。
(リリヴァさん、あなたは……)
灯の女神である彼女の望みとその顛末。ただただ純粋に願われていた彼女の力への切望は誰も予想だにしなかった不運を引き寄せてしまったのだと知った。
もっと考えるべきだったろう。それは確かではある。しかし、戦う力のない者が強くそれを欲していて目の前にまたとないチャンスが巡って来たのならば手を伸ばしてしまうのはある種当たり前と言える。
自分自身が引き起こした訳ではないが、それでも彼女の転生した記憶を持っているのだから無関係ではない。そんなこと関係なくミルファは自分の事のように考えてしまい、今まさにそれが強くその身に刻まれているようで居た堪れなささえ覚える。誰もミルファを、勿論リリヴァを責めることなど考えもしていないのだが。
「……てめェが、ゲイボルグか」
スパーダがハスタへと一歩踏み出す。ゆらりと首を傾げた拍子に、短く揃えられた桃色の髪から汗がぽとりと落ちた。
誰だ? と最初はきょとんと見詰めていた瞳は、やがて喜んでいるかのように変わっていく。デュランダルとゲイボルグという、同じ鍛冶の神から生まれた者同士。共に育ったことはなくとも兄弟のようなものだと感じたのだろう。小さく踊るように身体をくねらせてニンマリと笑い、ダンスのフィニッシュのようにスパーダに手を差し出し、同族と会えて嬉しいと言う。……が、彼はその手を無視し、目の前の男を睨んだ。
同族? 同胞? 仲間? 冗談ではない。前世でも今世でも血肉を求めるその異常さは変わっていない。そんな奴と同じだなんて、と言うように。
「デュランダ何とかさんの癖にこの聖地、懐かしくないの? ここ、バルカンの地なのに」
「あ、あの、ルが抜け……むぐぐ」
「しぃーっ! いちいちアイツに構ってたらこっちの身がもたないから黙っときなさい!」
イリアの手に口を塞がれたミルファは彼女の意見に同意するようにこくこくと頷く。ついつい真面目に考えて口を挟んでしまったが、また特殊過ぎて難解な話が始まらないとも限らないし、黙っていようと決める。
しかし、運命とは数奇な物だとミルファは思った。まさか目の前に居る殺人鬼の前世がゲイボルグだったとは。奪い消すしかなかったことを悔やんでいたあの時のリリヴァの思いが鮮明に甦り、彼に対して申し訳ない気持ちが少し湧くようで複雑な気持ちにさせられる。
「いやはや、やっぱりうさぎちゃんとオレは運命の相手だったんだ。ボクちゃんの勘に狂いはないのです」
嬉々として笑うハスタは腕を広げてミルファを抱き締めようとするが、スパーダがサッと自分の背に覆い隠す。ハスタは、オレ嫌われてる? と唇に弧を描きながら言い、残念そうに腕を下げた。そして間延びした話し方から一転、静かな声色に変わったかと思うと、彼はミルファを舐めまわすように見詰めながら唇を舌で潤す。ぞくりとした恐怖と既に味わった痛みが身体中を走り、彼女は目の前のスパーダの服の裾を思わず掴んでいた。
安心させるように、大丈夫だ、とだけ言い、スパーダはハスタとの間にバチバチと雷光を走らせるように睨み合う。前世の因縁の二人の間にあるそれは、避けようのない宿命だった。
にひ、とわざとらしく笑ったハスタは「悲しいですねぇ」と低く囁き、くるりと槍を回して弄り始める。その様子を見たリカルドが仲間達に注意を促す。戦いが始まるまでそう長くは掛からないだろう。
「これは宿命だよ、できそこない君。オレ様とお前が殺し合うのは前世から決まってたことですポン」
「うるっせェな、お前の方ができそこない野郎だろうが。……けど、宿命ってのは同感だな」
立てた親指で首を斬る動作をし、自信満々挑発的に笑ってみせたスパーダは汗で濡れた前髪から覗かせた灰眼で討つべき殺人鬼を見据えた。
「テメェは何度でもオレがへし折ってやる」
スパーダの煽るような言葉に不機嫌になることもなく、あっけらかんとした様子で空に軽く投げた槍を手に取る。少し乾いた血に彩られた切っ先をべろりと舐め上げ、ああ、やっぱり血は美味いと悦に入ったハスタは目に殺戮を宿す。これからもっと赤が降ることを想像し、嬉しそうに口角をこれでもかと上げるのだった。
全員血祭りにご招待します。そう言い、ハスタは槍を構えた。――独特な槍の構え方だ。ふらりふらりと槍も身体も動いているため、どう狙いを定めて攻撃してくるのかが分かり辛い。軽口に騙されそうになるが、彼はリカルドと同じく殺しのプロなのだ。実力を見誤るべきではない。
全員が自らの武器を手にして、準備を終える。
「ああ、本当にありがとうございますリカルド氏! オレを目覚めさせてくれた先生はお礼に一番グチャグチャに殺して差し上げたい! いや、デュランダルが一番? いやいやそれとも……」
一番を誰に贈るかと脳内の自分と論議しているのか、こめかみをぐりぐりと人差し指で押しつつぶつぶつとひとり芝居を繰り広げるハスタを尻目に、リカルドは彼の言葉で憶測が現実のものだったことを理解した。やはり奴は西の戦場で戦った際に覚醒したのだ。
よく口の回るハスタは、自分が今どういう立場にあるのかも勝手に漏らし始めた。西の戦場から逃げ果せた後はオズバルドに実力を買われ、彼の下で流血三昧の日々を送っているのだとか。あまり喜んで考えたい内容ではないが、傭兵であることを辞めた訳ではないであろう彼はオズバルドに雇われて人を殺める仕事を喜んでしている、ということなのだろう。
しかし、オズバルドとはまた懐かしい名前が出たな、と収容所に居た四人は思う。威圧的な態度をした中年太りの軍人――ルカ達を戦場送りにしたあの男を忘れることはない。……ハスタがあの男を“ブタバルド”と称したことは、ミルファは聞かなかったことにした。
転生者研究所や、ナーオス基地にあった人形兵器の開発、ハスタの雇用。あの軍人は武力を重視しているとは思っていたが、ガラムの傭兵であるハスタを雇うのはいったいどういうことなのか。何を企んでいるのだろうか、目的が見えないからこそ、無性に気味が悪く感じてならない。
カツ、と先が上を向いている変わった靴の踵が、思案するのはそこまでだと言うように鳴り、熱気の中を歩む。
「大地の御告げに従っちゃいましょう。お前らを殺せっていう、な!」
「さあ、来やがれ! ぶっ殺してやるぜ、殺人鬼!」
「皆、準備は完了しているな」
「バッチリやでぇ、リカルドのおっちゃん!」
言い終わったかと思うと、ゆらりゆらりと揺れながら、だんだんと足を早めて距離を詰めてくる。多対一を有利に活かし、ぐるりとハスタを囲むように位置する――が、ハスタは槍を軸にしてあっちこっちに跳ねている。これでは連携が取り辛い。
まずは奔放な動きを止めることが先決だ、とスパーダが突進し、勢いそのままに斬りかかる。片手で槍を振るいいなしたかと思うとそのまま追い打ちを掛け、心臓目掛けて尖端を向かわせたが、獲物である彼はそれを易々と躱して横から連続付きを繰り出す。開幕早々戦意が高く、ボルテージは更に高まっていく。
鍔迫り合うように拮抗する剣と槍。動きを止めている今なら、とイリアが弾をこれでもかと乱射した。温存など考えもしない荒技に仲間は度肝を抜かれる。……が、しかし。それは全て弾かれる。ひょろりとした腕からは想像できない力で槍を振り回し、双剣ごと銃弾を弾いて見せられ、改めて只者ではないと思い知らされた。戦闘センスも元々の腕力も並ではない上に転生者の力が加わっているのだから、簡単に決着は着かないだろう。
「どこまでもしぶとい奴め……。――ネガティブゲイト!」
「たぁっ!!」
リカルドの放った術が闇の球体による空間を発生させ、ハスタの身体を呑み込む。苦しげな呻き声が魔空間から聞こえて来たのでダメージを負わせていることが分かる。動きを捕らえている今だ! すかさずルカが空間ごと斬り込んだ。
手応えをしっかりと感じたことで倒せると確信を持てたのだが、ルカの安堵は裏切られることとなった。
「あ〜、いってぇ〜」
「そ、そんな! 効いてない……!?」
「君、アスラだろ? その太刀筋、覚えてますよぉ〜」
確かにダメージを与えた筈なのに、傷口から血を流しているというのに、さっきまでと変わらない様子で満面の笑みを浮かべているではないか。目は相変わらず笑っていないが。
不死身かっての。と、イリアが弾を装填しながら毒を吐く。空になったカートリッジがカラカラと落ち立てる音を聞き、良い音だとハスタが一層深く笑んだ。
槍を地にザクリと刺し、それを軸にして高く跳ぶ。反撃開始と言わんばかりに襲い掛かるその顔は狂喜で満たされており、ぞくりとした悪寒が辺りを支配する。これで涼しくなれば少しは戦いやすくなるのに、と額の汗を拭わずにはいられない。
ハスタの攻撃の手が届く前に、と各々が先手を打ち、技を繰り出していく。銃弾や検圧、天術が襲い来るにもかかわらず、彼は器用にそれらをひょいひょいと躱していくので動きを捕らえられない。ムキー! というイリアの声と地団太が響くばかり。
(着地する所を狙えば、当たるはず……!)
足が地に着く瞬間を狙ってミルファは術を発動したが少し掠った程度で足止めにすらならなかった。べ、と舌を出して残念でした、とお道化るハスタにリカルドは忌々し気に舌打ちし、苦虫を噛み潰したような顔で銃口を向けて狙いを定める。
「す、隙が全くないね。……というよりも、隙があってもそれを遊撃に変えているというか」
「ミルファの言う通りね。でも、これではキリがない……」
「ほんなら、こっちが無理矢理隙を作ったったらええんちゃう?」
エルマーナの提案はシンプルだが一番適切だろう。大人数だからこその荒技ではあるが。まさに多勢に無勢という言葉がぴったりである。
待ってましたと言わんばかりにスパーダとイリアがルカを引き連れながらハスタへと攻撃の雨を降らしに駆ける。剣圧、銃弾、突きによる一閃。それらが入り惑うと共に様々な色合いの赤も混じり散っていく。
「へこたれんなよ、ルカァ! ケツ蹴り上げンぞ!」
「うん、もちろんだよ……!」
「気張りなさいよ、あんたら!」
押して、押して。踏み込んでいくスパーダたちの攻撃は確実にハスタの体力を削っている。が、しかし。血を流して痛みが体をじくじくと支配していく筈だというのに、痛みを受ける度に彼は喜悦の色をその白い顔に浮かべているのだ。気味が悪い、とイリアが舌打ちをしながらリカルドの支援を背に惜しみなく弾を撃ち降らせる。
アンジュとミルファによる回復術を受けながら剣は敵へと喰らい付く。刀鍛冶が鉄を打つような、ガン、ギン、という重く弾ける音と共に火花が散る!
「できそこないのくせに、こんなに楽しませてくれるとはなぁ〜! テンション上がるぅ」
「……っせぇ! ニヤニヤしやがって、気持ち悪ィんだよ!」
ググ、と押し合い視線ですらぶつかり合うスパーダとハスタ。その二人の横――ハスタの死角から、エルマーナが低く腰を落とし、加勢に入った。
奴の意識は完全に目の前の宿敵にあったため、完全に意表を突かれたのか少し目を見開いている。
この一撃は必ず当たる。そして、それが隙になる。それをみすみす見逃す手はないだろう。決着を付けるならここしかない、とミルファはハスタへと狙いを定めて天術の詠唱を始めた。
「臥竜砕!」
「秋沙雨!」
エルマーナがブンと振り上げた腕が見事にハスタの鳩尾にクリーンヒットし、彼女の腕と同じように細身の体が上がり、宙を舞った。そこに追い討つスパーダが雨霰のような突きを繰り出し全ての雨はハスタの身体を刺し貫かんとする!
二人の連携攻撃は見事に決まった。受け身を取り、空中で体を一転させ地に足を落としたそのとき、詠唱が終わる。足元で眩く輝いていた魔法陣が収縮し、術を形作っていく。
沢山の人達を自らの快楽の為に傷付けるこの男を、これ以上好き勝手奔放にさせる訳にはいかない。ここで、終わらせないといけない――!
「ドカンと一撃、お見舞いしちゃいます! ミラクルハンマー!」
ハスタの頭上に光の術で作られた大きなハンマーが現れ、ガンッ! と頭にクリーンヒット。その見た目は何トンもありそうなほど重厚であったので、床に顔を縫い付けられたかのように地に伏せる彼を見て完全にやり過ぎてしまったとミルファは少し申し訳ない気持ちを抱いた。
満身創痍で息も絶え絶えなのでここで戦いを終えられたのは最良と言えるだろうが、まだ完全に終わったとは言えない。ナイス、と笑ったイリアがミルファの背を叩くと、ルカ、スパーダ、リカルドが女性陣を自分達の後ろに匿うように立ち、殺人鬼に最期を贈ろうとしていた。
長銃を片手で持ち、突っ伏しているハスタの頭に下ろしその口を押し当て、動いてくれるなよ、とリカルドが念を押す。
「……おいおい、オレの美しい思い出たちが消し飛ぶところだったじゃあないか? 君達」
「安心しな。今からその頭ごとぶっ飛ばしてやっからよォ」
頭が痛いよお、と白々しい嘘泣きを披露し始めたハスタは見事にスパーダの神経を逆撫でさせた。手にしている双剣をハスタの眼前に向けて終わりを諭してやると、終焉間近の殺人鬼は慌てた様な素振りを見せる。それすら本心なのか怪しいものではあるのだが。
ひとつ提案があるんだけど。と言い出したかと思うと、頭部に突き付けられている銃口をガッと掴み身体に届けられる筈だった道を防ぐ。細い腕からは考えられないほどの強い力で握られ、振り払えない。スパーダが咄嗟に剣を振るうが、そのまま体を起こしてしまったハスタは降参するように両手を上げた。時々魔術の当たった後頭部を労わるように擦るが、槍は手にしていない。
反抗するつもりがないのか、それとも何か策があるのか。傷だらけのハスタは戦う前と変わらずへらへらと唇にだけ笑みを乗せている。そんな彼が何を提案するというのか。疑念の込められた視線を一身に受けながら、ハスタはその“提案”を口にした。
「オレのこと仲間にしない? 強いよ?」
「却下に決まってんでしょーが!!」
「ウチも嫌や、こんな変な奴」
「丁重に、お断りさせて頂きますわ」
「わ、わたしも、ちょっと……ごめんなさい」
即座に女性陣に却下されたハスタの立案。それも仕方のないことだろう。もはや嫌いという次元では片付けられる話ではなく、彼はとても友好関係を結べるような倫理観を持っている人間ではないからだ。特にミルファは彼に対してまだ恐怖の気持ちが抜けきれていないので一緒に行動するのは遠慮したい、というのが本音なのだ。
それにも気付かずに、なんでぇ? と首をこてんと傾ける彼のその行動にすらイリアはギャーギャーと怒り騒ぐ。生理的に受け付けないとまで言うが、言われている本人は全く気にしていない。それがまた彼女を苛立たせてしまうとも知らず。
「君の案、可決は無理みたいだね」
「ええ〜おかしいな〜。オレの脳内会議では過半数で可決なんだけど。逆になんでダメなんですか? 許してもいいんだぜ?」
「許す訳ねェだろ、この殺人鬼が!」
そりが合わない上に宿敵。そしてミルファを傷付けられて立腹しているスパーダの怒りは相当な物だったのでハスタの軽口は聞くに堪えない。これ以上好き勝手させて溜まるものかという思いもあるので早々に始末すべきだと考え、リカルドに弾が入ってるかどうかを確認すると、抜かりないとの返事が来たので交渉の時間は終わりを告げる。
キャンディあげるから、と言われて岩陰に身を潜めていたコーダが釣られかけていたのでイリアが小さな体をむんずと掴んで自分の後ろへ置いた。熱さも相俟って頭に血が昇りやすくなっているのか、もう我慢できない! と叫んだ彼女は一旦納めた拳銃をもう一度器用にくるくると回しながら取ったと思うと即座に睨み構える。
さすがにまずいと感じたのか、待った待ったと慌て始め、命を奪わないでというように懇願するハスタ。もう一つだけ案があるから聞いてくれと言い、降伏を示していた手を下ろしたと思うとルカを指差した。
「アスラの坊や、ちょっくら耳貸してくんない?」
「僕?」
「そうそう。返すから安心してくださいな」
こっちへおいでと手招きをして呼ばれ、ハスタの今の状態では反撃できないと思ったのか、ルカは言われるがままに近付こうとする。しかし、ミルファがその歩みを手を握って止めさせた。
緑の穏やかな目をぱちくりと丸くさせて、どうしたの? と訊ねるルカに、ミルファは危ないから近付いたらいけないと切に訴える。渦巻く黒い予感がどうしても離れないのだ。何もない訳がない。あの人を警戒せずに怪我を負うことになってしまった経験と、前世での出来事が危険だと信号を発信しているようにドクドクと胸が騒めいている。
「大丈夫だよ、あの人は今動けないはずだから」
ミルファの言葉を軽視している訳ではないのだが、ルカとしては彼女がハスタへの恐れと心配しがちな性格からの言葉だろうと感じて安心させようとした。勿論恐れが先走っている部分もあるのだろうが、彼女にとってはそんな言葉で片付けられないほどの不穏だった。
押し付けがましいが、何もない方が良いに決まっている。……もう一度ちゃんと説得しよう。近付かせたらいけない。そう思い、細く小さな指がルカを行かせまいと手を握る力を少し強めようとしたときだった。
「――ッ!?」
突如、ミルファの背中に激痛が走った。じくじくとこじ開けようとする痛み。ゆっくりと薄い肌に刃物が辿るように一筋の線を入れようとしているような、そんな感覚が襲い掛かる。
その痛みが前触れもなく唐突で想像の範囲外だったミルファはあまりの衝撃に耐えられず、身体中のバランスを保っていた糸がぷっつりと切れたかのようにどさりと倒れ込んでしまう。
それでも、それでも。行かせてはいけない。離してはいけない。そう思って強くルカの手を握っていた手に力を込めようとしたが、彼女の指先は何も捕らえていなかった。確かに、すぐそこに居たのに、何故。
痛みに抗いながら、足手纏いな動かない身体ではなく顔だけを動かしてルカを探す。赤い瞳が捉えたのは、彼女の目よりも生々しく赤い、どろりとしている紅溜まり。それの中にルカがミルファと同じように倒れていた。じわりじわりと、ジャケットの紺に赤が侵食していく。
いつの間にかハスタの手に握られた槍の切っ先が同じ赤で濡れていた。勢い良く突き刺されたというのは一目瞭然だ。
(……早く、早く! 早くしなくちゃ、ルカくんを助けなくちゃいけないのに、どうして……!? 動けない……!)
回復術を、早く治療を施さなければ。ルカが危険な状態なのは素人目にも明らかなのだ。それがわかっているのに、ミルファの身体は痛みに縛られている。
「……っ、う、ぁ……っ!」
「へえ! オレの呪いも健在なんデスね」
「……どういうことだ、ハスタ」
「てめェ……ッ!!」
痛み支配されているミルファは、仲間が駆け寄ってくれていた事に気が付かなかった。鬼気迫る様子で傷だらけの殺人鬼と相対するスパーダとリカルドは無意識の内に抱いていた自分達の浅はかさに憤慨している。傷だらけで所詮抵抗など出来る筈がないと高を括っていたのだ。さっさととどめを刺していれば――そう押し寄せる後悔は津波のよう。
早々にハスタを何とかしてルカとミルファの安否を優先させたいが、ハスタはミルファの状態に何か思い当たるところがあるのだろう。子供が興味津々に玩具を見詰めるかの如く嬉しそうにじろじろと瞬ぎもせずに彼女へ釘付けになっている。
ルカくんは? と、ミルファは何とか絞り出せた声でルカの安否を確認した。傍に居るエルマーナとコーダが、今イリアとアンジュが応急処置のために回復術をかけていると教えられ、良かったと安堵する。
しかしその瞬間。正体不明の痛みは根を生やすようにまた強く広がり、激痛に感情までもが支配されそうになった。
「オレを捨てるから、こうなるんデスよ。……最期の時のこと、思い出したかい?」
ハスタは伏せるミルファを見て満足げに、舌舐めずりをした。痛みに耐える表情がたまらなくそそる、と。餌を捕食する肉食獣のようにギラギラとしたその瞳に、ミルファは息を飲むことしかできない。
(思い出す……? 最期?)
記憶の糸を手繰ろうとするが、それどころではない。は、は、と水から上げられた魚のように口をはくはくさせて息を整えようとする。彼に齧られたときや戦いで負う痛みとは比にもならぬほどの痛み。身体中の細胞が悲鳴を上げている。
霞む視界に彼を映すことでしか返事は出来なかった。ぐったりとしながらも自分を映すミルファの瞳に満足したのか、ハスタは珍しく楽しいという感情を露わにした。
「安心しなよー、今はまだ食べないからサ。楽しみは後々まで取って置く子なんで、オレ。その時はキミの全部オレのモンにしちゃうデスよー。他は血祭りな」
「逃がすか!」
仕留めようとリカルドが数発弾を撃ち込むが、さすがは転生者。ハスタの傷は塞がり掛けており、命を奪う筈だったそれをくねりくねりと身を捩り躱す。
そのまま槍を肩に担ぐや否や、彼は手をひらひらと振り、何の躊躇いもなく流れるマグマを背にしながら高所から飛び降りて姿を消した。
「ああもう、あんな奴どうでもええねん! それよりルカ兄ちゃんとミルファ姉ちゃんや!」
「早く町へ運ぼうよ! ねえ!」
リカルドは急いで大きめの布を道具袋から広げ、その上にルカを横たわらせると、なるべく動かさないように抱き抱える。
(少しだけど、痛くなくなってきた。慣れてきたのかな?)
どういう原理なのかはわからないが、それでもありがたい。一刻も早く町へ戻るためにも早く立ち上がらなければ、とミルファは腕を軸にして体を起こそうとしたが、ふわりと身体が浮いた。スパーダがミルファを抱き上げてくれたのだ。
「大人しくしてろ、今運んでやっから」
「スパーダ、でも……」
「置いて行けなんて冗談でも言うなよ。……オレは、ルカもお前も助ける」
ルカが危険な状態だと云うのに、足を引っ張るなんて嫌だ。けれど、強がってもふらふらで、置いて行って貰ったとしても、とても一人でなんとか出来る状態ではないことも分かる。それに、自分だったらどうだろうと考えた。もしスパーダが置いて行けなんて言ったとしたら……とても悲しいし、怒ってしまうとミルファは思った。それなら、自分だってしちゃだめだ、と。
……これから自分の身体はどうなってしまうのかという不安と痛みはまだミルファの身体に残っており、全て消え去った訳ではない。今ここで降ろしてと頼んだところで何の意味も成さない上に、邪魔になるだろう。それこそ足手纏いだ。
(今は、不安な気持ちに負けている場合じゃない……!)
大変な時だというのに何も出来ないのは悔しいが、今は甘えるのが良いと自分の中で結論を出したミルファは恐れを呑み込む。改めてスパーダに「ありがとう」「ごめんね」「よろしくお願いします」と伝え、そっと体を預けた。……重いと思われないよう、適度に緊張しながら。
スパーダはその強張りに気付くことはなかったが、任せろと力強く答え、支える手の力を強めた。
ミルファに外傷はないので、イリアとアンジュは引き続きルカへ回復術を掛け続ける。エルマーナとコーダは魔物が居ないかどうかの確認。ミルファは大丈夫そうならばエルマーナと連携し、術を使い道を開く。接近戦は避けたいので、物陰に身を潜めつつ、けれど迅速に。町へ戻るための作戦を端的に説明したリカルドは、いけるか? とミルファに確認を取る。
こくりと頷いて見せた彼女の返事を受け取り、「すまんな」と労わるように言い、少し眉を下げた。
「さあ、行くぞ」
一刻も早く、大切な仲間であるルカを救うために。