26.目覚めを待つ
深夜の町中で宿屋からぼうっと灯りが漏れ出ている。緊急で宿の一室を借りたその部屋で、医者と怪我人は二人きり。治療の邪魔にならないよう、仲間達は部屋の外で待っていた。
「ミルファ、背中の痛みは平気なの?」
「うん、もうだいぶ治まって来てるよ。ありがとう、アンジュちゃん」
そう。不思議なことに痛みは治まりつつあった。恐らくだが、ハスタが上手くこの地を離れることが出来、関わりの糸がまた切られたからなのだろう。
心配しないで、と笑うミルファにアンジュも力なく微笑み返した。普段通りに振る舞ってはいるが、彼女も今の状況が苦しいのだろう。
苦しそうに呻くルカの声を扉越しに聞き、平常心で居るのは難しく不可能に近い。現にミルファは心配で胸が張り裂けそうな思いだった。早く、無事だという姿をこの目に焼き付けたい。あんな血濡れた姿ではなく、優しく、不器用にくしゃりと笑う、君の。
(ルカくん、どうか、どうか無事でいて……)
ああ、神様。と、修道女でも無いのに熱心に神に頼るしかない。ミルファは縋るように指を絡め、ぎゅうっと手を重ねて、祈る。強く、強く。
針時計が時を刻む音がカチ、カチ、と異様に大きく響いているように感じられる。それほどに静かで、誰も口を開かないのだ。
そして、コツ、コツと絶えず響く音と針の音が重なる。右往左往。何度繰り返しているのか。挙措を失いロビーをうろうろとしているスパーダのブーツが焦燥を駆り立てるような落ち着きのない音を鳴らす。
「……ベルフォルマ。少しは落ち着いたらどうだ」
「あァ!? 落ち着いてられっかよ!」
見兼ねたリカルドが一言溢すと、今にも掴みかかる勢いで彼に食ってかかるスパーダの怒号が夜間の宿屋に響く。
静かにね。と、他の宿泊客も居るのだということを諭す。涙ぐみ震えるイリアの背中を擦りながら言ったアンジュの制止の言葉のお陰でスパーダはそれ以上何か言うことはなかった。……舌打ちはしていたけれども。
そこからまた静寂が訪れた。いつも明るく場を和ますエルマーナとコーダも、ルカへの心配で胸がいっぱいのようで何も喋らない。当たり前だが、皆彼が大事だからこそ、普段通りに振舞う事さえ難しいのだ。
ぐすぐすと悲嘆に濡れる空気が続いていたが、ガチャリと扉が開いた音が聞こえると、一転。視線は部屋から出て来た医者に一身に注がれた。
中へどうぞ、と医者に促され、全員足早にルカが診察されていた部屋雪崩れ込むように入ると、白く整えられたベッドの上で静かに寝息を立てて眠っているルカの姿が飛び込んで来た。
はああ、と深く魂の抜けるような息を吐き全員が胸を撫で下ろす。
ひとまず診察と治療を終えたと医者がルカの状態を説明する。一時はかなり危険かと思われたが、急所が外れていたので九死に一生を得たとのことだった。加えて自然治癒が高いとかで、これ以上悪化することはないだろうと見解を述べられる。
回復術を施していたお蔭もあるのだろうが、医者には申し訳ないが適応法の件があるので天術を使ったなどと話せない。こんな夜に来て貰っておいて騙す様な真似をするのは心に苦みが広がるようだったが、こればっかりは仕方ない。
アンジュが深々と頭を下げて万謝の心を表すと、医者は穏やかに微笑んでみせた。そして、十分ルカの様子に注意するようにと助言をする。痛みから発熱が予想されるとのことで、出来るだけ傍に居て様子を見てくださいと助言を頂いた。
「では、また何かあれば連絡してください」
「はい、そうさせて頂きます。本当にありがとうございました」
宿を後にする医者を入口の扉の前まで見送ると、全員ロビーに集まる。ルカの傍に居て片時も目を放したくないほど心配ではあるが、大勢で居ても何にもならない上にもしかしたら起こしてしまうかもしれない。
待合用のソファーに再び腰かける。心なしか先ほどよりは空気が少し軽くなっていた。
木製の壁掛け時計の針は、いつの間にか深夜を差していた。ロビーには相変わらず誰も居ないが、宿の店主が気を利かせて明かりを付けたままにしてくれている。
「さて、これからのことだが。ミルダの世話は俺達ですべきだろうな」
「ええ……そうですね。じゃあ、交替制にしましょうか」
日替わり交代制で二人一組で看病に当たるという案が出される。これは、全員心身ともに疲弊しているので休息が必要だということで担当じゃない日はしっかり休むという提案でもあった。
今深夜から明日の夜までをアンジュとリカルドが担当し、次の日はイリアとエルマーナ。そのまた次の日はスパーダとミルファ。これを順番に繰り返していくのはどうかな、とアンジュは全員の同意を求めた。特に何か問題がある訳でもないので否定する理由もない。全員、こくりとひとつ頷いて話し合いはあっさりと終了した。
良かった、とミルファはほっとする。イリアは一番取り乱していたし沢山泣いていたし、きっとまだ混乱しているだろうから休んだ方が良いと考えていたのだ。とても看病なんて出来る状態ではない。
「イリアちゃん、お部屋で休もう?」
「あ、ええで、ウチ行くから。ミルファ姉ちゃんもゆっくりしぃな」
ぐたりとするイリアに歩み寄り体を支えようとしたミルファだったが、エルマーナが代わりに手を引いて、頭に乗せたコーダと共に割り振られた部屋へと向かっていった。平気なように振舞っているが、彼女だってかなり疲れている筈なのに。
(本当に、しっかりしてる。わたしも見習わなくっちゃ……)
抱き抱えて運んで貰っていただけで皆のように自分で歩かなかったのだから、その分働かなくては。何か出来ることをしたい。そう意気込むミルファの肩がとんとんと優しく叩かれる。アンジュだ。
「ミルファ、本当に平気? 部屋で背中見てみましょうか」
「う、ううん、大丈夫だよ。わたしなんかより、ルカくんの方が……」
「こら。なんか、じゃないでしょう」
ミルファもルカとまではいかないが自己肯定が低い。アンジュは妹を叱る姉のように、ほんの少し眉尻を上げて言い諭す。大事だから心配しちゃうものなのよ。と。
心配する側の立場の気持ちを痛いほど分かっているミルファは、すぐに自分の言葉選びが良くなかったことを反省した。言葉も大事だが、彼女の場合は心持ちの問題もある。家庭環境の影響が大きいのだろうが、それでも素直で朗らかに育ったのは家族以外の人達に恵まれていたからなのだろうとアンジュは感じていた。
優しいラベンダーの瞳にじいと見詰められ、ミルファはどうしたのと首を傾げる。念押しするように、本当に大丈夫なのかと問われ、こくりと頷き、何度目かの大丈夫を口にした。
心配して貰えるのはとてもありがたいし嬉しいことだが、ミルファとしてはやはり申し訳なさが勝つようだ。……それに、同じ女同士とはいえ、肌を見せるのは少し恥ずかしかったりする。そもそも今までそんな機会は多くなく、屋敷のメイドが正装を身に纏う際に着替えを手伝ってくれた時くらいだ。こんなことを言えばそれどころじゃないと叱られてしまうと思ったので、ずるいと分かりつつも内緒にすることにした。
「とりあえず、ルカ君の服を洗って繕わないとね。血が落ちなくなっちゃう」
「あ、わたしがやるよ。何だか眠れそうにないし、手伝いたいの」
「そう? じゃあお願いしようかしら。わたし達はルカ君の様子を見てくるわね」
ルカの眠る部屋の前で待っていたリカルドに声を掛け、アンジュと彼が扉の奥へと消えた。ぱたんと優しく静かに閉まる。
しん、と水を打ったように静まり返ったロビーで、くしゅ、と。ミルファは手渡されたルカのシャツとジャケットを握った。
黒く変色し固まった血の跡。真夜中で静かな場所。後ろ暗い考えが姿を見せるには恰好な状態だ。
こんなことを考えても仕方ない。ルカの怪我は治らない。けれど、考えずにはいられない。……わたしがあのときもっと強く手を引いていればもしかしたら、と。
どうしようもない考えを振り払うように首をぶんぶんと横に振るい、落とそうとする。それでも残ってしまった小さな不安は、ミルファに火山での出来事を忘れさせることはしなかった。“最期の時のことを思い出したか?”というハスタの言葉がミルファの脳に纏わり付き支配し始める。
力を欲し、そして、ゲイボルグと契約を果たし――彼女は、灯の女神は、どうしたのだろう。あの殺人鬼の言葉の真意を考えるが、まだミルファにはそれに関する記憶を見ることが出来ない。
力を欲したことが悪いことだったとは、彼女には到底思えなかった。役に立つために命を燃やし続けたかったことを、ミルファはよく分かっているし……解ってもいる。それでも、望みは叶わなかった上に兄を傷付けたという事実はいつまでもリリヴァの心に闇を落とし続けたであろうことは想像に難くなかった。
リリヴァが戦う力がなかったのは体が弱いせいで、生まれ変わりのミルファは健康体。弱いながら、力も扱えるようになってきた。ミルファが記憶をなかなか思い出せなかったのは、自己を否定するリリヴァの影響が大きいのだろう。
謎はまだまだ残っている。“あの痛み”が何か分からないことがそれを物語っていた。だが今は憶測という出口の見えない迷路に自分から迷い込んでいる場合ではない。足を踏み入れかけた部屋から踵を返すように、ミルファは竦んでいた身体を再起させる。
今度こそ血を洗い落とすためにそのまま一歩足を動かせば、ロビーのソファーに腰を掛け項垂れたままのスパーダが目に入った。
「スパーダ……?」
少し顔を上げようとした彼の翡翠色の髪が、サラリと揺れた。髪にかかった影から覗く瞳は憂いに揺れている。
ミルファは一目見てすぐに分かった。スパーダも同じなのだと。不安、悔しさ。自責の念に駆られている。きっと、ルカがハスタに刺されたのは自分のせいだと考えているのだ。話になど耳を貸さず、無慈悲に、あのまま首を落といていれば――。
しかし、それは違う。スパーダが悪いだなんてことは絶対にない。自分が逃れるための隙を作るためにルカを利用したハスタの行動が正当化されて然るべきものではない。あれは、あの行為は、彼がしたことで。
(スパーダのせいじゃ、ないよ)
そう言えたらいいのに、今は何を言っても空虚で配慮に欠ける言葉にしかならないだろう。そう考えたミルファは何も言えず、ただ、大丈夫? と並木道にでも転がっているような言葉を掛けることしか、ソファーに座る彼の前に立ち尽くすしか、出来ない。それが堪らなく、どうしようもなく、悔しい。鼻の奥がツン、と染みるように痛み、涙が滲みそうになる。
「大丈夫」
血の付いた服達を洒落たガラス製のローテーブルにそっと置き、手を伸ばして少し腰を屈めてスパーダを抱き締めた。ミルファと違いがっしりとしたその身体全てを包み込むことは出来なかったけれど。曲げられた背中にそっと手を回し、母親にあやして貰っていた朧げで数少ない記憶を頼り真似て、とんとんと優しくその背を叩く。
「大丈夫だからね、スパーダ」
なんでもないことしか言えないけれど、気の利いた事なんて言えないけれど。少しでもスパーダの苦しい思いを拭えたなら、包むことが出来たなら。……力になりたい。大切な幼馴染である彼が前を向いていられるように。自分を追い詰めたりしないように。
とんとん、とん、とん、と心地よい心音を分けるような律動が静かな時を奏でる。ふ、と抜けた息がそれを解いた。
ミルファの肩に顔を埋めるようにされるがままになっていたスパーダがそこからゆっくりと顔を離し、菫のさらりとした髪を掛けるミルファと目を合わせる。そして、ピン、と狭い額を弾いてカラカラと笑った。
「ガキ扱いすんなっての」
「し、してないのに……」
うう、と少し赤くなった額を押さえながら、ミルファは元気そうに笑うスパーダを見る。暖かな気持ちが胸の中を満たしていき、安堵が広がるのを感じた。そして、どうしようもなく嬉しくなり、春風吹く日に開く花のようににこりと笑顔を咲かせる。
「ルカくん、早く目が覚めるといいね」
「ああ、そうだな」
「えへへ、元気になって良かった」
ミルファの微笑みに、スパーダは漠然と、こいつには敵わないと思った。
聖地で――口ばかりで調子に乗ってしまったせいで仲間を危険にさらした。そのことが情けなくて悔しくて、自分に対する怒りがふつふつと沸き立つかの如く、止まらなかった。けれど、ミルファの包むような優しさに轟々とした思いは溶かされていったのだ。
反省するのは大事だが、いつまでも後悔の鎖に足を捕られ続けるのは、違う! 陰鬱に溺れるなど、自分らしくもない。前を向け。ずっと、ずっとそうして来ただろう、とスパーダは自分を激励する。
「……そうだ! ミルファお前……身体大丈夫なのかよ!」
「へっ? う、うん、大丈夫だよ?」
彼女があまりにもあっけらかんとしているので失念していたが、正体不明の症状に見舞われていたことを思い出し、スパーダはギッとソファーを鳴らして立ち上がると、がしりとミルファの肩を掴んで頭から足の先まで異変を見逃すまいと凝視した。
「……慣れたなんてふざけたこと言うなよ?」
「た、確かに慣れて来ては居たけど、今は本当に……」
「バカ! そんなのはな、慣れるモンじゃねェ!」
ぐにぐにと叱咤と共に頬を引っ張られるが、スパーダの篤厚さを感じて悪いとは思いつつミルファの頬は嬉しさに綻んでしまう。引っ張られた頬を心配してくれてありがとう、とへにゃりと笑うものなので再びデコピンを喰らわされるのであった。
小さな痛みに呻く彼女をちらりと盗み見るスパーダは嘘を付いている時の彼女の特徴――不自然な愛想笑いも、目を逸らすこともしなかったので隠している訳ではないと悟った。ほ、と小さく息を零すと、どういたしましてと毎度お馴染みに粗雑に頭を撫でて髪をわしゃりと乱してやる。
あ! とミルファが気付いた時にはもう遅く、彼女の艶やかな髪はあっちやそっちにぴょんと跳ねてしまっていた。不満げにツンと唇を尖らせながら、細い指を櫛のように使い、長い髪を波に沿うようにまっすぐに梳いて整える。
いつものように「やめてねって言ってるのに」「悪い悪い」というもはやお約束のような言葉を交わし合うと、ミルファはよいしょ、と置いておいた服達を手に取った。
「スパーダも、今日はもうゆっくり休んでね」
「あ? お前はどうすンだよ」
「んと、わたしはアンジュちゃんのお手伝い」
そう思いおやすみと言おうとしたが、スパーダはオレも行くと言い、抱き締められたことで少し乱れた帽子を被り直した。
でも、と。休んだ方が良いとおろおろしながら気遣うが、彼はニッと軽く笑う。
「眠れそうにないから、手伝いくらいはしてェんだよ」
幼馴染同士とはやはり似るものなのか。先刻のミルファと同じような言葉を口にした。くす、と小さく笑い嬉しそうにする彼女をスパーダは不思議そうに見詰めながらも足を揃える。
怪我人を気遣い起きていた宿主に声を掛けて洗剤を借りると、ルカの部屋の扉を小さくノックしてからそっと開く。当番の二人が出迎え、手元にある服と洗剤で目的を察したようで、リカルドが風呂場まで案内した。
もう深夜なので水の音ですら隣人の睡眠を邪魔しかねない。どうどうと流さずに静かに浴槽にお湯を溜め、上品な香りのする乳白の中に衣服を浸け置く。汚れが緩むまでルカを見詰めていたが、やはり一向に起きる気配はない。
アンジュが緩く絞った濡れタオルがルカの狭い額にそっと乗せられる。ほんの少し冷たい桶に浸けられたそれが再び彼の熱を吸うまで、何分かかるのだろう。
早く、ルカの傷が消えてくれと願って止まない。浮かび落ち始めて浴槽を赭に染め始めた黒い血のように、傷も溶け消えればいいのにと。