27.見えた想い
晴朗な青空の下、人々の弾むような声が町を賑やかせている。さすが昼時と言うべきか、人通りは多い。どことなく、最初にこのガラムを訪れた時よりも溌剌としたように感じるのは、殺人鬼という畏懼すべき存在が消えたからだろう。
そんな中、宿屋のとある一部屋では軽い診察が行われていた。上側だけはだけさせるようにして身体の様子を目と指先で確認する。菫の長い髪が緊張で微かに揺れたのを見て、アンジュは安心させる言葉を掛けた。
五分とかからなかったそれは、あっさりと終わりを迎える。結局「病状の自覚がなくて大問題になることもある」と言われアンジュに診て貰ったものの、ミルファ自身が大丈夫と言っていたように外面上特に問題はなかったようだ。
「痛くない、のよね」
「うん。ほ、本当だよ? 嘘なんて……」
「大丈夫、疑ってなんていないわよ。あれだけ痛がってたものをすぐ我慢なんて出来る筈ないもの」
ずいと身を乗り出し、信じてとおろおろしながら瞳で訴えかける必死さにアンジュはくすくすと笑みを零した。
ほ、と安心して大袈裟と思うほどに息を吐くところりと笑顔になったミルファは、いそいそと服を着直し整える。やっぱり、女同士とはいえ恥ずかしくて頬に少し火照りが残るようで。
最後の仕上げにと胸元の黒いリボンをきゅっと結んで、不安だった気持ちがなくなった喜びを表すかのようにぴょんと立ち上がった。
もうお昼だね。呑気なその声にアンジュが壁掛け時計を見やると、途端にお腹が目を覚まして空腹を訴えかけてくる。……お腹が鳴ってしまう。鎮まれ鎮まれと抑え込んでいる彼女の様子を見て今度はミルファがくすりとひとつ綻ばせた。
「休憩したら? アンジュちゃん」
「……う。ええ、そうさせて貰おうかしら」
「ふふ。わたし、リカルドさんにも言ってくるね」
とてとてと部屋を出て行くミルファの背を見送った後、アンジュはお腹を満たすものを求めて町中を歩こうかと食べたいものをあれもこれもと思い浮かべる。だが、きっと食事を目の前にしてもいつものように心躍ることはないだろう。
軽めに……とは言っても他者からすれば多い部類に入るだろうが――早く済ませようと考えながら椅子から腰を上げた。
すると、三回。繊細さの欠片もないノックが扉を鳴らす。ミルファが戻ってきた訳ではないことは容易に分かり、「どなた?」と訊ねながら扉を開くと、ペールベージュの帽子を被った仲間の青年が立っていた。軽く手を上げて夜中ぶりだと挨拶をするや否や、彼は帽子のつばを弄りつつ、きょろ、と部屋を見回す。特段意識していないのは分かるが、女性の部屋を不躾に見るのは頂けない。こら、とアンジュに指摘され、へへ、と笑いながら悪い悪いと頭を掻いた。
「女性の部屋だってこと、忘れないようにね。それで、どうかした?」
「ああ、っと……ミルファ知らねェ? もう昼時なのに見当たらなくてよ」
あら? と、アンジュは首をこてりと傾げた。
ミルファは今さっき看病組の休憩のためにルカの部屋に戻った筈だ。それを伝えられ、スパーダは少しわざとらしく呆れるかのような溜め息をはぁあと吐く。結局当番も関係なくずっと手伝いしていたのかよ、と。
「……スパーダ君、ちょっと、お話いいかしら」
「あ?」
前触れもなく、本当に唐突に切り出された言葉にスパーダは目を丸くした。何か悪い事をしたか、それともさっき部屋を覗くかのように見たことをさらに咎めるためか。……だが今この状況で説教タイムなどわざわざ取るだろうか?
しかしながらアンジュの目は真剣そのもの。話はスパーダの考えるどれとも違う答えである物だということは理解出来る。……憶測に憶測を重ねていても仕方がない。スパーダは部屋の中に入り、どかりと無作法に椅子に座った。
「で? 話ってなんだよ」
「スパーダ君」
静かに扉を閉めると、アンジュは部屋の奥の窓前までゆっくりと近付く。妙な緊張感を消すかのように、スパーダは片足首を膝に乗せ、言葉を待つ。
キシ……と小さく軋む床板を鳴らし、彼女は難しい、真面目な表情をして振り返った。
「ミルファの事、なんだけど」
桃色のグロスで薄く彩られた唇から発せられた名前に、心臓が大きく脈打った。一瞬息が詰まり、ひゅ、と空気を呑む。
何かあったのだろうかと、緊張で手に力が入ってしまう。今朝会った時は特に何事もなく元気だったはずだが、と彼女の様子を思い出しながら、何か見落としていたのかとぐるぐる思考を巡らすも、特に思い当たることがなかった。
しんと静まり返る部屋の中に緊迫した空気を感じながらアンジュの言葉を待つ。しかし、待てど待てどなかなか紡がれる事がない。小窓から外を眺めたまま、話そうとしないのだ。
「……おい、アンジュ。ミルファがどうしたんだよ」
「……」
「アンジュ!」
痺れを切らして急かすように声を荒げ、上げていた足を床に叩くように下ろす。じんじんと広がる衝撃さえ気にならないほど、焦り、焦り、胸がどうにかなってしまいそうだ。
早く聞かせてくれ。早く教えてくれ。そうでないと、彼は、幼馴染の元まで駆けて行ってしまいかねない。自分よりも小さく、細い、ミルファを揺さぶって気を失わせてしまいかねない勢いで。
くるり、と。巻かれたポニーテールを揺らしながら振り返ったアンジュは、焦心苦慮を顔に浮かべていた。
「ちゃんと、見ていてあげて欲しいの」
「……? どういうことだ?」
「あの子の身体、診たわ。何もなかったの……でも。ハスタさんの、あの言葉。私……何か知っている筈なのに、思い出せないのよ」
脳裏に散らばる記憶の書庫に手を伸ばせど、弾かれてページをめくることが出来ない。アンジュは、明確にミルファの症状を理解出来ずにいた。過去――前世で、何かを見た。否、側で見ていた筈なのに。
ルカの状態に加え、不確定なことで皆を不安にさせる訳にもいかない。皮肉にもミルファと同じようにそう考えたアンジュは話を広げないことに決めたのだ。しかし。
何故自分にだけなのかと疑問に思ったスパーダは、浮かんだ瞬間それを投げ掛けた。すると目の前の聖女は優しい顔のまま苦笑し、答える。
「あなた、後から知ったら絶対に怒るでしょう?」
「ンなこと――! ……いや、そうかも知れねェ、か……?」
絶対にないとは言い切れずそのまま口籠るスパーダに、アンジュはやっぱり言って良かったと自分の判断を少し評価した。
それでも、やはり自分が何か掴んでいる筈なのに手の中にあるそれの正体が分からないことが忍びなくて仕方がない。ごめんなさいね、と申し訳なさそうに眉を下げながらも笑むアンジュに、スパーダは力強く頷いてみせた。
「言われなくても、オレはあいつのことずっと見てるぜ。危なっかしいし、放っておけねェからよ」
至極当然だと云うように言い切り、は、とひと息吐いて椅子の背に身体を預ける。ずるりと全身の力が抜け落ちそうになるほどの安堵に身を包まれつつ。
旅に出てから何度こうして彼女に冷や冷やさせられたことか。そう考えながらも、ミルファにこうして身を案じてくれるような仲間や友達が出来たことは自分のことのように嬉しいものでもあった。
呆れたり、切羽詰まったり、笑ったり。百面相とまではいかずとも色取りどりと変わっていく端正な青少年の顔。その様子を見ていたアンジュは、微笑ましいと口もとを緩ませた。
アンジュも、もちろん仲間も、知っている。酷く余裕が無くなる姿も優しく笑う顔も、ミルファに関係するときばかりだということを。……知らないのはスパーダ本人と彼女くらいのものだ。
ふふ、とつい零れた笑みを聞き、今の笑うところかよ、と訝しみながらスパーダはアンジュを見上げた。
「スパーダくんはミルファのことになると本当に過保護ね」
「あぁ? そんなことねェよ」
彼にとっては普通のこと、というのが何とも。それだけ大切なのだろうとは思ったが、アンジュは敢えて口出ししなかった。
スパーダの思いは、名付けられた“二人の関係”に収まり切るようなものではない程の、深い深い心の箱から収まり切らずに漏れ出している。それほどの思いと、その正体。それは、自分で気付くべきことだろうから、と。
それがいつになるのか、と楽しみに膨らむ心からくすりと笑みが顔を出してしまう。
そして、窓の外から部屋を明ける光がちかりと穏やかなラベンダーの瞳に差し込み、昼時だったことを思い出す。
さあてと、と先程までの緊迫した空気を晴らすようにそろそろ食事に行こうとアンジュは扉の前に立ち、ドアノブへと手を伸ばす。すると、ガチャリと優しく扉が開き、ルカの部屋に居るはずのミルファがひょこりと顔を覗かせた。
「あ、アンジュちゃん! あれ? スパーダもいる!」
居るとは思わなかった幼馴染に、にこっと嬉しそうに笑みを向ける。扉を挟んだまま、二人にどうしたの? と訊ねるものなので、アンジュは極自然にミルファこそどうしたのかと話をくるりと回すように聞き返した。さすが、処世術に長けた女性だ。
不審に思うこともなく、ミルファは手をぽんと叩いて「あ、そうだった!」と声を上げた。
リカルドが戻って来たので自分もランチタイムにしようと思ったと話すが、昼食をさっさと済ませて部屋に戻って来たリカルドに、いい加減休むようにと言われてしまったと罰が悪そうに笑う。
きっと彼のことだ。薄くカットされた、みずみずしいレタスとトマト、フレッシュハムが挟まれたサンドイッチをひとつ食べたくらいで戻って来たのだろう。あまり食事に重きを置かない上に、見るからに線が細い体躯。いつも誰よりも少ない量しか食べないので容易に想像出来る。
「ルカくんの様子はどう?」
「熱上がりかけていたけど、今は少し落ち着いてるみたい」
ルカは平熱を保ち、呼吸も規則正しく、貫かれた腹部の傷口も開いていない。今のところ、良い兆候と言えるだろう。
すっかり看病にも慣れたミルファがルカの今の状態を的確に、且つ正確に伝えたので、アンジュもスパーダも状況をしっかりと理解できた。このまますぐ目を覚ましてくれればいいのにと、淡く、それでいて強い希望がなお高まっていく。
「わたし、お昼頂いて来るわね」
「あ、あのね、イリアちゃんとエルちゃん、お昼ごはんはルカくんの傍で食べるって言ってたよ」
「あら、そうなの。それならわたしもそうしようかな。ありがとう、ミルファ。スパーダくんも」
じゃあね、と部屋を出たアンジュがそっと扉を閉め、ぱたんという静かな音と共に静寂が訪れた。ふたりきりになったなぁ。漠然とそう思い、特に何があるでもないが何となく相手に視線を寄せると、見事にかち合う。誤魔化すことがある訳でもない癖に、ミルファはコミカルコミックよろしく汗をぴゅぴゅんと飛ばすかのように、緩くにへらと笑うのだった。
その様子がおかしくて、ぶは、と吹き出しそうになったがなんとか堪える――が、ク、と少し息が漏れてしまった。……ミルファが気付いていないのでセーフだ。
「スパーダ、お昼食べた?」
「いや、食ってねーよ。お前を誘おうと思ってたんだ」
「あ、そうなんだ! じゃあ一緒に食べよう?」
ぱたぱたとスパーダの方に駆け寄りにっこりと笑うと、まるでお腹に尋ねるかのように薄い腹を擦りながら何を食べようかと宙にぽんぽんと思い浮かべる。リカルドさんに色々聞いたんだよ、とガラムの食事処で人気のメニューを次々に歌うように口にした。オイルパスタ、オムライス、魚料理――。白身魚のマリネが特に美味しいらしい。
「……そんなのいつ聞いたんだよ」
「あっ。……え、ええと」
「手伝いしてるときだろ、どうせ。……知ってんだからな。アンジュから聞いてる」
「う。うぅ……だってなんか落ち着かなくって……」
スパーダにきちんと休むように言っておいて自分がそれを実行していなかったことに少なからず後ろめたさを覚えていたので、しゅんと身を縮こませて申し訳なさそうにするミルファ。
力ない幼馴染の様子を見て、もう何度目になるのか――灼熱により記憶が脳に焦げ付いたかのように、こびり付いて消えないビジョンを脳裏に浮かばせた。必死にルカの手を取って止めようとしていた彼女の姿を。流れる汗が舞い、突如襲い来た痛みに蹲って耐え、声すら出せないほど苦しんでいたあの姿を。
彼女もまた、ルカが大怪我を負ったのは自分のせいだと、自分が手を離さなければと思い込み、責めているのだ。
……あれはお前が悪い訳じゃないのに。どちらかと言えば、倒せたと油断していたオレが──。そこまで思い、スパーダは考えを頭の隅に追いやった。もうそうやって後ろばかりを見ていても仕方ないと分かっているだろうが、と。
「オレが言うのも何だけどよ、お前が責任感じる事じゃねェだろうが」
「……うん」
「お前が悪いワケじゃない。……わかるだろ」
「…………うん。ごめんね、スパーダ」
いつも言葉足らずで粗野な振る舞いが目立つスパーダが、寄り添うように、声で頭を撫でるように、諭してくれている。
……まただ。また、助けて貰ってしまった。いつも、小さい頃から、ずっとそうだ。
(わたしも、スパーダのこと助けたいのに)
ぎゅう、と締め付けられる胸の奥のようにスカートを握りながら俯いていた顔を上げると突然真ん前にスパーダの顔があったので、ミルファは面食らい目をぱちぱちと瞬かせる。
「わ、ど、どうしたの?」
「……いや、なんか我慢してたりするんじゃねーかと思ってよ」
アンジュの提言を思い出し、意味はきちんと分かってはいたが「見ていてあげて」という言葉通りにミルファを見つめている。訝しむように目を凝らしてまで。さすがにまじまじと見られてしまっては緊張してしまうので、なんだかむずむずしてしまってミルファはもじりと自分の指と指を小さく絡める。
気恥ずかしさが拭えなくて、つい、じり、と半歩後退ると、一歩距離を詰められてむしろ距離が近付いてしまった。
いたちごっこを繰り返していると、ブーツの踵がこつんとベッドの縁とぶつかる。いつの間にかベッドの近くまで来ていたことを二人はそこでやっと判断できた。
そこまでは良かった。そこまでは。
「ひゃあっ!?」
「う、わ!?」
「ご、ごめんね、スパーダ大丈夫……?」
「……」
「? スパーダ?」
ミルファが咄嗟に目の前のスパーダの服を掴んだ事で、一緒に倒れ込んでしまったのだ。
ぼすんと片脚をベッドへと乗せ、ミルファに跨り押し倒している、そんな体勢になってしまった。スパーダは、あわあわとふためく彼女の艶やかな髪や柔らかそうな肢体に目を奪われて――。
返事がないことを心配したミルファの細い指が、そっとスパーダの額や頬に触れられる。どこかぶつけたりしていないかどうか案じる声は、彼には届いていない。
彼は自分の瞳に映すミルファに釘付けになっていた。添えられたように傍らに落ちている自分の帽子が、なんだかトッピングのように見えるほど、“美味しそう”に見えてしまう。ゴクリ、と口の中に溜まった生唾が喉を通った音とバクバクという心音で彼女の声は掻き消されていた。
こんなにも、“女”だった、か?
自分の下で組敷かれている幼馴染に嫌でも異性を感じてしまい、汗が止まらない。じわりと肌に滲むそれのせいでシャツが肌に張り付くようにすら感じられた。実際そこまで汗をかいてはいないのだが。
「スパーダ、ほんとに大丈夫?」
「え、あ、ああ」
「そっかぁ……良かった」
事故とはいえ異性が馬乗りになっているこの状況。……にも関わらず、彼女はなんでもないようにいつも通りニコニコと笑っている。
普通ならこういう時は慌てたり警戒したりするものではないのか。そう疑問が浮かんだとき、同時に釈然としない苛つきがぐつりと煮え、湧き上がってきた。
無垢な瞳をスパーダに向けるばかりのミルファを前にして、スパーダはいつかの、掴みかけたなにかが再び現れたような感覚に陥る。
なぜ、こんなにも心がかき乱されるのか。なぜ、彼女は自分と違い平然としているのか。スパーダはミルファに異性を感じたというのに、そのミルファはそうではない。“幼馴染”だから、異性として見ていないということなのか。
――そんなのは、不公平だ。
「……お前さぁ」
見えない感情を今度こそ手にするために、手放さないために、シーツを押さえていた無骨な右手は白い海を泳ぎ、小さくて柔らかい左手に触れ、絡め取った。
どうして手を取られたのか、不思議そうに眼前の彼と掴まれた手を交互に見やるミルファに構わず、スパーダは自分の下にいる彼女に言葉を落とした。
「今がどういう状況か、わかんねェの?」
明らかに不満そうに、そして呆れるようにジトリとした視線を送るスパーダの言葉にぱちくりと目を数回瞬かせてから、広がる天井と彼の顔だけ見えているということに今更気付き、ミルファはみるみる顔を赤く熱らせた。
細い体を捩って逃げようとするが、そう簡単にいく筈もない。所詮は“男”と“女”だ。がっちりと押さえ付けられた手すら解くことができない。
「ど、退いて、スパーダ……おねがい……っここ、困るよぉ……」
「何だよ、腹減って困ってんのか?」
「ちが、そうじゃなくて……っ」
彼女に跨ったまま、空だった彼の左手は容易く右手首を捕らえ、絶対に逃さないという意思でシーツに縫い付けた。そして、あの地下水道での諍いにも満たないあのときのように顔をグッと近付けてやる。すると、ミルファは顔を更に赤らめてまるで熟れた林檎のようになった。その時のことを思い出したのだろう。
あまりに素直で初な反応にスパーダは正直意地悪をしてやりたいという加虐心をくすぐられるが、なんとかそれを堪える。そして漠然と思った“ある感情”に、心の臓が揺さぶられたことを自覚した。
可愛い、愛しい、なんて。そんなのは、まるで。
「……っ」
「スパーダ、ど、どう、したの……?」
返事の代わりに届けられたのは、自嘲的な吐息。
静かな室内で、ドクドク、ドッドッ、と嫌に自分の心音の響きが相手に聞こえてるような気すらして、一秒が刻まれる度に気恥ずかしさは増していく。まるで火山の聖地にいたときのように顔だけでなく体が熱くなって湯気が出そうだと感じながら何も言葉が出ないふたりは、ただただ見詰め合うばかり。
再びゴクリという音がするより先に、ミルファのか細い声が発せられた。ねえ、あのね。そう、彼を伺うように。
なんだよ? とスパーダが聞き返すと、うぅ……と恥ずかしそうに半ば瞳を潤ませて訴えかけるように彼を見詰め、逸し、また見詰めた。……が、ちらちらと送った目線だけで察して貰えなかったので、ぎゅうと目を瞑り力を入れて言葉にした。力んだ割には、その声はかなり小さく震えていたけれども。
「そ、その、あのね、恥ずかしいの……爆発しちゃいそう。だから……」
「!」
スパーダはその言葉で改めて自分が何をしていたか認識したのか、シュバッと効果音が付きそうなほど勢いよくミルファを解放した。そして、彼女の傍らに落ちていたキャスケット帽を手に取り、被り直すと立ち上がり背を向けた。
自分から仕掛けておいて何だが、耐え切れない。だめだ。スパーダはそう強く感じ、このままだと何だか……してはいけない事までしてしまいそうな気さえしていた。守りたいと思ってる幼馴染に手を出すなんて、本末転倒も良いところだ。
スパーダがちらりと後ろにいるミルファを盗み見ると、彼女はむくりと体を起こし、火照った頬を両手で包み込んでいた。
幼いと思っていた幼馴染の見せる愛らしく女性という蝶を思わせるような仕草に、ちくしょう! と顔に熱が籠もっていく。一体何に対して腹を立てているのか。
……それはともかく、何か隠し事をしているのではと思っていたが、そういう訳ではなさそうだったのでそこには安心出来た。ミルファが痛がる素振りすらなく、笑って誤魔化すように笑う癖も出ていない。それなら今のところは大丈夫という事なのだろう。
「な、んもないならそれでいいんだよ」
うわ、ダサ。くっそ。声が裏返ってしまった。
「お前、もうちょっと警戒しろよなァ」
「で、でもわたし、スパーダのこと警戒なんて、できないよ」
「それ、オレのこと男扱いしてねーってことか?」
「? スパーダは男の子だよ……?」
はぁ、と、嬉しいやら悲しいやら複雑な感情を混ぜこぜにした溜息を吐くと、スパーダは扉の方に向かって数歩進む。もういい加減昼食を取るべきだ。それに、このままふたりきりで居ると余計なことばかり考えてしまいそうで。
メシ行こうぜとどこか力無く言うと、後ろからとてとてと小さく軽くブーツをタップさせてひょこりとミルファが彼の前に出てきた。
果実のように赤い瞳に真っ直ぐに見詰められてスパーダはドギマギとしてしまう。
「スパーダ、やっぱり元気ない。美味しいもの食べて少しでもいいから元気出してね」
にこりと笑う、そのあどけない表情は春の空の下に咲く花のよう――なんて。柄にもなくそんなことを思った上に、どうしようもない愛しさがどきりと胸の奥を叩いたのをスパーダは確かに感じていた。
そして、モヤモヤとした雨雲が晴れたように、葉に隠れた小さな一輪の花を見つけたときのように、彼ははっきりと自分の感情を自覚する。
どうして今まで気が付かなかったのか。今更過ぎるくらいに、簡単なことだったのに。
「ね、ね。なに食べたい?」
「そうだな〜……ここは豪快にステーキいっとくか」
「ええっ! みんなに怒られちゃわない?」
「ヒャハハハ! 別に言わなきゃバレねーって!」
「そ、そうかもしれないけど〜」
宿を出て飲食店の立ち並ぶ通りを目指してふたりで歩く。
贅沢ランチにありつこうとしているスパーダに、絶対気付かれるよと慌てるミルファ。そんな彼女を余所に、彼はこの真昼間の好清な空のような笑みを浮かべた。大事な仲間が危険な上体の今、まだ少し心にかかる雲は残ったままだが、それでも。大切なものがやっと、やっと見えたのだ。
ミルファは打って変わった幼馴染の晴れ晴れとした様子に首を傾げはしたものの、ホッとしてにこやかに顔を綻ばせる。
(は、……ほんと、今更だな)
こんなにも、安心と愛しさを覚えながらも心をかき乱されていたのに、気が付かなかったなんて。スパーダは自分で自分の頬を殴ってやりたい気持ちになる。
幼馴染という関係に囚われて、彼は自身の気持ちが見えていなかった。それは、ふたりの関係は変わらない当たり前のものだと、隣にいることが当たり前だと思っていたから。
ミルファは大切な幼馴染。だがそれは、正しくもあり正しくないとも云える。スパーダは気付かない内に彼女をひとりの女として見ていたし、そう接していた。ただの幼馴染への思いで収まるようなものではないのは明瞭だ。心配も、嫉妬も、焦りも。笑っていて欲しい、一緒に居たい、守りたい――そう願う心も。
(――オレは、ミルファが、好きだ)
少年から青年へと変わる最中の彼が、ひとりの少女へ向ける真っ直ぐな想いだったのだ。