33.魂の集う場所
小鳥のさえずりが聞こえる早朝、ミルファは目を覚まして鏡と向き合い身支度を始めた。
マムートの住民の朝は早いようで、もう外から声がしている。店開きの準備をしているのだろう。ご苦労様です、と心の中で労いの言葉を浮かべながらパジャマを脱ぐ。が、まだ完全に目が覚めていないのか、着替えを側に持ってくるのを忘れていた。はしたない、と思いながらランジェリー姿のままごそごそと鞄の中をまさぐり、いつもの服取り出す。
旅の中では白いシャツもアイロンで整えられない。少しだけよれているそれを腕に通し、黒いプリーツスカートのジッパーを上げる。すると同じ部屋で眠っていたアンジュが目を覚ましてむくりと身体を起こして伸びをした。
「おはよう、ミルファ。相変わらず早いのね」
「アンジュちゃん、おはよう!」
窓際に立ち、空へ向けて祈りを捧げるアンジュ。その間にミルファは身支度を終えて鏡に向かってニコリと微笑んで見せた。今日も笑顔で頑張るぞ、という意気込みというか、おまじないのようなものだ。
未だに夢の中に居るイリアとエルマーナの身体を揺する。朝ごはんそろそろだよ、と言うとふたりは目を擦り欠伸をひとつして目を覚ました。
「ん〜〜……ねむい」
「おはようふたりとも! ……あれ、コーダくんは?」
飼い主であるイリアの隣で寝ていたはずのコーダが居ない。と思ったが、ベッドの横の隙間に挟まりながら未だに眠っているではないか。愛らしくもどこか抜けた姿に、彼女たちは朝から笑いを溢した。
世界を滅亡から救う旅の途中とは思えないほどに和やかで、平穏な日々だと勘違いしそうになる――そんな朝の一幕。
◇
元々町に用があって寄ったわけではない。先を急ぐため、宿で朝食を頂いてからマムートを後にする。口の中でまだ、塩味の効いたポーチドエッグが残っているように感じた。
昨日一日ゆっくり休めたのか、リカルドの顔色は少し血色良くなっている。それでも他の人と比べれば青白いのだが、これはもう今さら一朝一夕でどうにかなることでもない。変えようのない仕方ないことである。
テノスへ向かうための陸路を進む長い道のりの中、ミルファはリカルドの体調を気遣うが、フッと笑いながら「そんなにヤワじゃない」と一言返されただけだった。けれど、怒っているわけではないことは解る。周りの仲間たちも「冷たい」などと咎めることもない。リカルドが心配するなという意味合いで言っているのはその場に居る誰もが理解していた。それほどの時間を彼らは共にしているのだ。
「そういえば、戦場を通らなきゃいけないって言ってたけど……」
「ああ、この先にある」
以前、西の戦場に送られたときのことを思い出す。また、沢山の人の死を目の当たりにしなければならないのだろうかと気が重くなる。雲ひとつなく澄み晴れ渡る空は清々しかったけれど、気分はずぶずぶと落ちていくようだった。まるで、ぬかるむ足元のように。そう、今まさに沈むブーツのような……。
打って変わった状況に驚きミルファは勢いよく顔を上げた。すると、青い空はどこへやら、薄暗くてじめじめした場所に迎えられていた。草も木も枯れている、人気のない場所――。
「うっわ……なによここ……、うぇ、ぬかるんでて気っ持ち悪ぅ〜〜……」
「ここがレムレース湿原、か」
ぬかるむ地面をたしたしと踏み付けて足を進めることにたじろぐイリアだが、リカルドは涼しい顔で先陣を切って進んで行く。傭兵だからかこういった環境にも関わらず普段通りにいられるのはさすがといったところだ。
仲間たちが続々と進んで行く中、頑張って付いて行かないと、と意気込むミルファの隣でスパーダが辺りを見回しながら気怠そうにハァと息を吐く。
「なーんかお化けでも出そうな場所だぜ……」
「っや、やめてよスパーダ……」
「あ? お前まだお化け怖いのかよ」
「大丈夫やってミルファ姉ちゃん! おばけなんか出えへん出えへん!」
幽霊を実際に見たことある訳じゃないが、むしろ未知だからこそ怖い。こんなじめじめしていてうすら寒くて暗いところでいきなり大きな声を出されたり驚かされたり、声もなく立たれていたら怖いに決まっている。……うん、つまり、すごく怖い。ミルファはぶるりとか細い身体を恐怖に震わせた。
行こう、とえいやと進んでいく。目的地に辿り着くために。しかし、足を進める度に光景が悪化していき顔が青くなっていくようだった。自然が朽ちているだけでなく、死体の数がどんどん増えていくのだ。戦場が近いということはここでも戦いがあった可能性が高い。それが分かっていても鬱蒼とした気分は晴れてくれない。
そこも、あそこも。地に伏せる死体、沼地に沈む死体、死体、死体。それらが恐怖を煽る。隣を歩くスパーダの腕にぎゅうとしがみついてしまうミルファに、彼は「動いたりしてな」と揶揄うものだから彼女は涙目になってしまうが、それでも、敵兵に斬り付けられたのが分かる凄惨な状態の彼らに、どうか死後は安らかに眠れますようにと祈りながら歩く。
しかし――動きそう、という言葉をそのまま信じそうになるくらい死体たちは生々しい。沼地に半身が埋まっている亡骸なんて今にも動きそうで、ああほら手を前に――。
「――っ!?」
声にならない悲鳴を上げ、ミルファはスパーダの腕にしがみ付く力を強めた。
「どわぁ!? なッ、なんだよどうした!?」
「あ、ああああれっ……!」
ミルファはぶるぶると震える指先で沼地を差す。すると――ぬかるみから屍が這い上がろうとしているではないか。服装を見るに王都兵だろう。恐怖に囚われて目が離せずにいると、テノス兵の隊服だろうか、くすんだ青の軍服を着た屍たちも姿を現し、こちらに向かって手を伸ばしながら近付いてくる。まるで、仲間になれとでもいうように。
……これは何の冗談なのでしょうか、夢なのでしょうか、神様。
全員が非現実的な状況に目を離せずにいた、そのとき。いつの間にか背後から迫っていた屍がミルファの首を締め付け、グイッと後ろに引っ張られてしまった。スパーダにしがみついていたにも関わらず、異様に強い力で引き離されたミルファに手を伸ばすが、届かない。一行は屍の軍勢に囲まれ、手足にまとわりつく彼らの肉により身動きを取れなくされていた。
「さっさと蹴散らすぞ!」
「っく、……!」
仲間から少し離れたところでやっと身体が動いてくれたが、ミルファには首を絞める手を留めるしかできない。でも、このままでは死んでしまう。酸素が足りず霞む脳内で漠然とそう考えた。
申し訳ないけど、まだまだ生きたい。こんなところで死ぬわけにはいかない。みんなのことも助けたい! その思いが後押ししたのか、屍の手を退けようとする力が強まったように思う。火事場のなんとやら、だ。
すんでのところで逃れたミルファは、呼吸もままならないままにレイピアを抜き、その切っ先を屍に向けた。諦めることなく死へと誘おうとするそれに、底知れない悪寒が身体を突き抜けるような感覚に襲われる。
「……っ、ごめんなさい。――プチメテオ!」
剣を振り下ろす。星が散るような小爆発を起きたかと思うと、屍は細胞をぼろぼろと崩しながら遠くに吹き飛び、沼の中に沈んでいく。
「う……っ、けほッ、けほ……」
身体が酸素を求め、咳き込んででも取り入れようとする。締めていた手から解放されたけれど、やっぱり苦しくて呼吸がしづらい。それに、人間の細胞の損壊具合、臓物などを見てしまったせいで心は気分の悪さを訴えて嘔吐を促す。心と体の反する要求にぐらぐらと気分が優れない。
それよりも、自分のことよりも仲間のことだとミルファはへたりと座り込みながら、術を唱えて屍たちが群がる位置目掛けて術を放った。
「……っう、星の輝きを宿す、光の雨よ――レイ!」
光の雨が直撃しその光に熱されたのか、屍たちは跡形もなく姿を消し、辺りはしんと静まり返る。
気が抜けてしまい、倒れ込みそうになるミルファの元にエルマーナとスパーダが駆け寄る。ありがとうな、と強く抱き着くエルマーナに「やりすぎんなよ」と軽く小突いてスパーダはミルファを立ち上がらせた。
正直なところ、怖さが想像を超え過ぎていて足腰に力が入らないミルファだが、こんな場所でいつまでも立ち往生しているのも良くないことは解っているのでなんとか足を前へと進める。
「た、助かったぁ……ありがとう、ミルファ」
「ううん……みんな無事でよかったよ」
「はぁああ〜……。何なのよ今の」
「ちッ……こんなとこでゆっくりしてたらまた出て来るかもしんねぇぞ、さっさと行こうぜ」
スパーダの意見に一同同意し、少し急ぎ足で先へ進む。とにかく湿原を抜けなければ休むことも出来ない。
ぐちゃ、ぐちゃ。と滑る土を踏みつけて暗い道を歩く。そんな中、アンジュが口を開く。
「なんで屍が襲ってくるのか、だけど」
「なぜか分かるの? アンジュ」
推測の域は出ないけど、と前置きをして彼女は話をした。
恐らく、無恵――天上界の消滅が原因と言われている現象が起こす天変地異の影響が此処にも現れているのだろう、とのことだった。ここに在る屍は戦争で命を散らした人たちだ。死ぬまで国のために戦ったというのに、屍になっても戦うことになるのは、執念のようなものがそうさせているのかもしれない。結局は想像でしかないのだが。
遠い昔の文献によれば、この場所は小さな湖があってとても美しい光景が広がっていたという。北方の雪解け水がなだれ込み、それらと共に運ばれてきた土砂により埋まっていったせいだろうとアンジュは語る。長い長い年月――百年ほど掛けて浮かばれない魂たちが集う荒れ果てた地となってしまったようだ。
「……あれ?」
「どうしたの? ルカくん」
「いや、あれ……なんだろう?」
「ッヤダ、ちょっと……! なんか、に、肉の塊っぽいんだけど……!」
人間数人分の、塊。あまりに不自然なその物体に一同はまた釘付けになってしまう。そんな中、二の足を踏むわけにはいかない、とリカルドがライフルの銃口を塊に向けた。イリアは側にいるルカの後ろにサッと隠れて盾にしている。……にも関わらず、当のルカは少し嬉しそうだ。頼られたようで嬉しいのだろう、背筋が伸びている。油断するなよ、とリカルドが警告した矢先、その肉塊はうぞうぞと動き始めた。
ぼう、と鈍く輝きを発するもの――恐らくはこの地に漂う魂だろう――それを吸い寄せて取り込んでいる。さらに、辺りに横たわる死体や、蠢く屍たちも――。徐々に徐々に肥大していき、とてつもなく大きく、歪でおぞましい塊になったので一行は絶句してしまう。
立ちはだかるように在る塊からは、敵意も悪意も感じられない。
ミルファは思った。この魂たちは怨念なんかじゃなく、迷ってここに留まるしかないだけなんじゃないだろうか。だったら、この魂たちを在るべき場所へ帰してあげなくてはいけないのでは、と。
幽霊は怖い。ゾンビだって怖い。けれど、そんなことを言っている場合じゃない。怖くない、ただ迷子になった魂を送り出すだけ……と自分に言い聞かせて歩み寄る。
「……大丈夫、何もしないよ」
ミルファが手を伸ばすと、塊から光が溢れた。灯の女神、リリヴァの力の影響だろうか。暖かな灯は塊を包み込み、やがて彼らが膨張していく成長を止めた。
すると、悩むような苦しむような、とにかく辛そうな声が響く。集った魂たちは、自分が死んだことを分かっていない過去に生きた者たちだ。
「地上人が……なぜ、天上にいる?」
「……? ここは地上だけど……」
「ああ……そこに居るのはオリフィエル様……? センサスの者どもは……ラティオ……は……」
彼らはラティオに生きた者たちだろうということは分かったが、なぜかこの湿原を天上と誤認しているようだった。
もう遥か昔に戦いは終わり、天上は失われている。だというのに、この魂たちは姿かたちを失くした今でも支配されているようで……アンジュは哀れみと慈しみを抱きながら一歩前に出てミルファの隣に並んだ。
オリフィエルのかつての同胞、ラティオの者たち。彼らがもう苦しまずに、安らかに暖かな場所で眠れるようにと祈りを捧げる。
「さあ、お行きなさい。あなた方が正しく眠れる場所へ……」
光が弾けるように輝いたと思うと、肉の塊をもろもろと崩れ去りその地に伏せるように落ちていく。解き放たれた魂は光の粒となりこの地に降り注いだ。
最後の一粒が地に溶けるのを見届けると、ミルファは安心したようにホッと息を吐いた。アンジュへと向き直り笑顔を向けたが、彼女はどこか上の空だったので首を傾げていると、なんでもないわよと綺麗な笑みを返される。
「良かったね……きっと安らかに眠ることができるよ」
「ええ、そうね」
「ねえ、あれって……結局なんだったワケ?」
「ここを天上だと思ってたみたいだけど……」
前世がヒュプノスだったリカルドによれば――地上の魂は刈り取られ、天上の魂は循環するものだという。まれに循環の流れに乗れずに死んだ魂がその場に残る場合があるが、そのような状態だろう、と。
この地上を天上だと思い込んでいたこと、そして彼らの魂がこの地に溶けたこと――勘違いでそんなことが起こるのだろうか? 真っ当に還ることが出来なかったのだろうか? 引っかかりが残る――そんな中、エルマーナがこめかみを押さえて頭を捻る。何か大事なことを思い出しそうだ、と。
大丈夫? とミルファが駆け寄るも、エルマーナはこれ以上考えてもわからん! と頭を切り替えてふんぞり返った。記憶を思い出す片鱗による頭痛が起こったのではと心配したが、平気そうなので胸をなでおろす。
気が抜けたところで、リカルドが釘を刺した。とにかく、この先にある戦場を突破することを考えろ。そう言った彼に続き、湿原を抜ける。再び澄んだ青に迎えられ、今まで居た湿原の薄暗さが嘘のように感じられた。両腕を伸ばして空を感じていると、スパーダが後ろから揶揄いを含んだ声色でミルファの背中をぽんと叩く。
「ミルファ、これでちったぁホラー耐性付いたんじゃねェ?」
「つ、付くわけないよぉ! 現実に有り得るんだと思うと余計怖くなったもん……さっきの魂の方たちはともかく……」
「ふーん? ま、オレももうこりごりだけどよォ」
さっきの出来事をどこか俯瞰的に感じるほどにミルファは彼らを帰してあげなくてはならないと考えていたのだが、確かにあれは相当な体験だろう。しかし、耐性が付くどころか、襲い来る屍のことを思い出すと怖くて震えて来てなんだか血の気も引いている気がする。とにかく、もう二度と戦いたくないとミルファは身を震わせた。
怖いのはもちろんそうだが、何より……死んでまで戦うなんてして欲しくない。いつまでも争いに縛られたままだなんて辛く苦しいはずだ。正しい場所で、安らかに眠って欲しい。
どうかこの地にこれ以上悲しい魂が迷い込まないように、と本当に居るのかも分からない神へと祈りを捧げた。