38.空白の記憶

 澄み渡る大空に飛行船が一機。風を切り雲を潜り、青を駆けている。

「ヒュゥ! 良い景色やなぁ!」
「まあ、エルったら。観光じゃないのよ?」
「これから行くところ、美味いものはなさそうだなー……しかし」
「まーた食べ物の話かよ……」

 仲間たちの和気藹々とした会話を聞きながら、流れる雲を窓越しに眺める。
(なんだろう、胸が、ざわざわする……)
 言いようのない不安に襲われる中で、久しぶりに頭痛にまでも苛まれるミルファは、何か重要な記憶を思い出そうとしているのかもしれないと悟る。まだまだ埋まらない記憶のピースが、天空城で全て埋まるのだろうか。
 ……この胸騒ぎと、頭痛。幸せな記憶を思い出すわけじゃないと警告を受けているようで、これから何か良くないことが起こる……そんな気がしてならない。マティウスとの対立だけじゃない、何かが。
 不安な気持ちが渦巻く胸をギュッと閉じ込めるように抑えたとき、青と白ばかりだった景色に別の色が見えた。

「あ! あれじゃない?」
「きっとそうだ! 記憶で見た場所とそっくり……!」

 ルカとイリアが空の真ん中に浮かぶ何かを指差す。それは天空城だった。
 懐かしい気持ち、緊張、不安――いろんな感情で胸の奥がぐちゃぐちゃになるような思いだ。膝に乗せたコーダがミルファを見上げて不思議そうに首を傾げるので「大丈夫だよ」と言い優しく抱き締めた。半ば、自分に言い聞かせるように。
 不安だからと云って足を止めるわけにはいかない。進まなければ世界は終わってしまうのだから。
 かつてセンサスの砦として使われていた天空城。そこに到達した飛行船から恐る恐る外に出ると、一気に違う世界へと舞い降り、自分自身が前世の世界に来たように感じられた。けれど、懐かしくてたまらない。これは自身の中に存在する前世の記憶のせいなのだろうけれど。
 まるで自分の昔話かのように話をし始めたところでリカルドが「せめて歩きながら話せ」と言いコートを翻して先へ進む。その後ろに続きながら城の中を見渡して奥へと進んでいくが、人間と違い身体の大きな神々が多かったので城の天井が高かったり道の幅が広かったりと地上では見られない建てられ方をしているのが物珍しい。

「リリヴァはなぁ、よぉ寝室抜け出してここでアスラの帰り待っとったわ」
「……うん、覚えてるよ。それでよくアスラさんに叱られていたっけ」
「はは……、アスラは心配してただけなんだよ」

 ここはアスラの住まいでもあったとか、ヴリトラがこの長い長い通路で眠っていたとか……。まるで、自分たちが経験したかのように語り合う。
 記憶で見た中にはなかった神々の姿を模した石像があちらこちらに在ったので不思議に思っていると、エルマーナが言った。それは神の遺体だと。遠い遠い古の時代から、この天空城の時間は止まっていると思い知らされる。
 前世からの地続きである神の世界。何も変わっておらずそのままだということは、ひとり長く長く天上に居たヴリトラの最期の時にもこの景色が残っていたということになる。そう思うと、途端に切なくなり、ミルファはエルマーナのことを抱き締めたくなった。

「こんな辺鄙なとこに創世力ないと思うで。多分もっと奥や。ヴリトラもそこにおったはずやし」
「きっとそうね。慎重に向かいましょう」
「……創世力の、場所」

 創世力がある城の奥。きっと記憶の場で見たテラスだろう。その景色を思い浮かべたとき――ミルファの脳内で光が弾ける。その光に引き摺り込まれるように、意識を奪われた。


 ◇


 白い部屋。白いベッド。そして、白い女神。
 ここは、リリヴァの寝室だった。
 美しい銀の髪はベッドに広がり、まるで朝露に煌めく絹のよう。黒ずんだ翼から抜け落ちる羽根がコントラストを彩る。

「ねえ、ばあや」
「なんだ? リリヴァ」

 ばあやと呼ばれた主――ヴリトラは返事をすると緩やかに身体を起こし、リリヴァの方へと顔を寄せた。
 ゲイボルグの呪いにより命を削るリリヴァはベッドの上で過ごすことが増え、側にはいつも誰かが付き添ってくれている。あのアスラの頼みとあらば誰も拒否することはなかったので仕方がないといえばそうなのだが。
 今は、リリヴァとヴリトラのふたりきり。リリヴァは甘えるようにヴリトラの顔へと身を寄せると、アスラの前では聞けない、ずっと聞きたかった事を訊ねてみることにした。幸いアスラもイナンナも席を外しているので、今しかない。

「私とお兄様とあの子を拾ってくれたのは貴女なのよね。……私たち、成長したかしら」
「何を言うかと思えばそのような事か……」
「そのような事って……私は真剣なのよ?」

 仕方のない子だというようにクスクスと笑われてしまい、リリヴァは小さな唇をツンと尖らせる。するとヴリトラはすまぬと微笑み、リリヴァの頬に唇を当てた。彼女からの愛情表現が心地良くてリリヴァは嬉しそうに目を細める。
 身体も、心も、意思も、赤子の頃に比べれば成長している。それでもヴリトラから見ればアスラもリリヴァもずっとずっと可愛い我が子なのである。いつまで経っても子供扱いしてしまうのを辞められないのだ。
 拾った時はもっと小さかったと遠い日を思い返し話すその様子を見て、ああ、優しく愛に満ちた顔をするこの人のような者を母親と言うのだろうなとリリヴァは感じた。自分達を育ててくれたこのヴリトラこそが私の、私達の母親だと。
 この際だからもっといろいろと話を聞いてみよう。そう思い口を開きかけたとき。
 ――バタン! 突然、部屋の扉が乱雑に開いた。リリヴァは乱暴な扉の開け方をしたその犯人にじとりとした視線を送る。

「レディの部屋よ。ノックくらいしてほしいのだけど? ディターナ」

 氷の魔神、ディターナ。彼はアスラと似た角を、リリヴァと似た柔らかい髪質を持つ、男の姿をした魔神。アスラとリリヴァと同じくヴリトラに拾われ共に育った彼はリリヴァの双子の弟だ。
 寄り添うように眠り辺境に置かれていたふたりは、髪の色だけでなく瞳の色も肌の色も同じだったため双子だとヴリトラが認識し、そう伝え育てて来られた。
 主にリリヴァが無茶をしたり勝手に出歩かないためにとアスラから監視役を任されているディターナだが、センサス軍の一将を担い戦場へ赴くことも、軍議に参加することもあり、立派に働いている。リリヴァは彼ばかりずるいといつも不満に思っていたが、自分に出来ないことを出来ている弟が羨ましいだけなのだろう。
 じと、と姉から向けられた視線にたじろぎ、一言すまないと言うディターナが罰の悪そうな顔をするものだからヴリトラはクスリと笑みを溢した。

「しかしですね、兄様が貴女方を呼んで来いと……」
「アスラお兄様が?」
「ええ。こんなめでたい日なのだから皆で天地融合の瞬間を迎えよう、と……」

 アスラの頼みとあらば無下には出来ないと思ったヴリトラは身体をゆっくりと起こすと、リリヴァに掛けられたブランケットをそっと退かせた。

「城の者を呼んで来よう。リリヴァ、お前はアスラの元へ行くが良い」
「……! ありがとうヴリトラ! ディターナ、行きましょう」

 リリヴァは呪いと病気で身体が弱っていることも忘れてベッドから飛び下り、ヴリトラに微笑ましいと見守られていることも知らず弟の手を引いて寝室を出る。
 久方振りに出た部屋の外はまるで別世界のように感じられた。実際に城の中は何も変わっていないというのに。世界が明るく感じるのは、もうすぐそこに輝かしい未来が、長年の夢が叶う瞬間が待ち受けているからだろうか。
 ディターナの手を引きながら天上の澄んだ空気を存分に吸った。しかし、突然くんっとつんのめきそうになったので何事かと驚いて後ろを振り向けば、弟が立ち止まって俯いていたので、どうしたの? と問いながら近寄り頬を両手で包み込む。

「ディターナ? どこか苦しいの?」
「姉様……」

 辛そうな顔をしたディターナが、城では滅多に呼ぶことのない呼称でリリヴァに縋る。いくらアスラに付いて戦場で闘っている将軍とはいえ、まだまだ幼く愛しい私の弟なのだと姉は少し嬉しくなった。こんなことを言えば彼は不機嫌になってしまうだろうけれども。
 姉様と呼ばれるだけで弟の思いが解ったリリヴァは、ふわりと髪を揺らして柔らかく微笑むとディターナの手をそっと包み込んだ。

「……ディターナ、いってらっしゃいな」
「え?」
「貴方のことだもの。きっと、サクヤのことでしょう?」
「……! …………はい」

 サクヤは昨日から姿を見せておらず、今どうしているのかも分からない。
 ディターナはいつもサクヤと並びアスラの側近として粉骨砕身の思いで励んできた。彼はセンサスの仲間として、同じ側近として、想い人として――本当にサクヤの事を大事に思っているのである。花のような彼女が落ち込むと彼自身が枯れた花のように元気を無くしてしまうほどに。
 落ち込む彼女を元気付けたい、傍に居て力になりたい。そんな思いから彼はサクヤを探して儀式の場へ連れて行きたいのだろう。……それはまだ、彼女には酷だろうが。

「貴方に彼女を任せるから、ちゃんと連れてくるのよ。良いわね?」
「ああ! ありがとう姉様! 必ずサクヤを連れて行きます!」

 張り切って駆け出すディターナの姿が廊下の奥へ消えるまで見送ると、リリヴァは小さく溜息を吐いた。

「……私は、皆に幸せになって欲しい……。そんなにうまく事が運ぶはずないとはわかっているのだけど」

 祈るように手を組み俯くと、微かに灯が浮かぶ。この光たちが願いを叶えてくれれば良いのにと、出来もしないことを願ってしまいまたひとつ息を溢した。
 誰かひとり、たったひとりを焦がれるほどに愛したことのない自分にはわからないことだとリリヴァは思った。
(私では、サクヤの想いをきっと本当の意味では理解してあげられない……)
 サクヤが落ち込み出したのは何もここ最近というわけではない。イナンナとアスラが戦場の真ん中で出会い恋に落ちたあの頃から、アスラの愛する者がこのセンサスに身を置くようになってから。日に日にサクヤは顔を曇らせていた。
 アスラとイナンナが創世力を行使するという話になってからは花壇の手入れも怠っていたようで、今ではすっかり花々も枯れてしまい廃れている。
 サクヤは自分の目の前で、愛し合うふたりが愛を糧に力を使うのを目にしたくないのだろう。アスラがイナンナを愛している――それが証明されてしまうことを受け入れたくないのかもしれない。それほどにサクヤはアスラを恋慕っているのだ。恐らく慕われているアスラ本人も気付いているくらいに。しかし、アスラが愛したのはイナンナだ。そのことをいつかはサクヤも受け入れなくてはならない。
 リリヴァもディターナも、他の神々も、サクヤがまた花の女神に相応しい美しい微笑みをまた見せてくれるようになる日が来る日を望んでいる。
 容易いことではないだろうが、それでも、いつかは。長い時を生きる我等が神の身体であれば――それも叶うだろう。そうリリヴァは未来へ願いを託す。自分の命はもう長くはないけれど、もしかしたら転生を果たし、また皆の前に現れるかもしれない。そう思うと寂しさや悲しさは少し紛れる。
 女神として地上人たちには大した事をしてあげられなかったけれど、せめて大切な者たちの力になってからこの命を終わらせたいものだ。……こんなことを言ったらまたアスラやデュランダル、ヴリトラに怒られてしまうのではと、その様子を想像して思わずクスクスと笑みが漏れてしまう。

「……さあ、もうすぐね」

 少し体が気怠くなったので壁を伝いながら儀式の間へ向かう。ままならない自分に嫌気が差すが、そんなこと気にならなくなるほどに胸がドキドキとうるさく騒ぐ。待ち望んでいた、天地がひとつになる瞬間をこの目で見ることが出来る――なんて幸福なのだろう。
 天上の神々も、地上に堕とされた者達も、これからは搾取による関係ではなく手を取り合って生きる。その時がもうすぐやって来るのだと思うと、胸が踊るようだ。創世力を用いて、平和な世界を皆で迎え入れる。それが待ち遠しくて仕方ない。
 早く儀式の間に辿り着いて、力を行使する前にふたりの姿を見ておきたい。なんて声をかけたらいいだろう、応援していますと月並みな言葉しか浮かばないなと頭を悩ませつつ突き当りの角を曲がったところで儀式の間にアスラの姿が見えた。
 嬉しくなって、体の不調も忘れてタッと床を蹴り小走りで駆け寄る――いや、駆け寄ろうと、した。

「……?」

 だが、それは叶わず。腹部がじわじわと熱くなっていくので不思議に思い触れてみれば、手が深紅に染まる。赤に濡れた手を目の前にかざすと、ごぼ、と腹部だけでは飽き足らず口からも赤が溢れ出る。
 ……何が起こっているのか理解が出来ない。呆然とするリリヴァの腹部の熱が次第に痛みへと変わっていく。
 痛みで悶えそうなほどだが脳はどこか冷静だった。ああ、これは血だ、と零れ落ちていく意識の中でぼんやりと自覚する。
 立っていられなくなり膝をつくと血の海に座り込んでしまい、自分の血で城もドレスも汚れてしまったと霞む意識の中でそんな場合ではないことを考えていると、自分を貫く剣の切っ先が目に入る。
 ――見間違うものか。見間違うはずがない。何度も何度も見た、美しいステンドグラスのように透き通った刀身。それが、ずるりと白く薄い身体から引き抜かれていく。
 この剣を誰が扱っているのかと、自分にこの痛みを与えた者を振り返ったリリヴァはこれでもかというほどに目を見開いた。
 愕然とするリリヴァだが、憎い、という気持ちは沸かなかった。ただただ悲しく、そして、解らなかった。どうしてこのようなことをしたのか……ただのひとつも。

「ど……して…………――」

 私の命は、ここで終わるのか。そう悟ったリリヴァはその場に倒れ込む。もう、呼吸もままならない。視界も朧げになっていく。目の前に佇む相手がどんな顔をしているのかさえも解らない。
 元々か細かったリリヴァの命の灯はどんどん弱まっていき、瞬きをする間にその命は潰えた。
 血濡れの刀身を伝い赤の海にひと粒の雫が落ちたことは、誰も知らない。

hitsujitohana