39.残酷な真実

「ミルファ? どうしたの、すごい汗よ……」
「……! アンジュちゃん……」

 優しく気遣う声により、記憶の中から現実へと呼び戻される。
 驚きながらも心配そうにしているアンジュがミルファの頬をハンカチでそっと拭く。嫌に冷えた汗が伝い、どれほど自分が動揺したかをミルファは自覚した。
 突然頭の中に記憶を押し込められたような感覚に脳が混乱しているようだったが、感覚がリアル過ぎてあれは現実だと囁くようで手足が震える。リリヴァが貫かれていた腹部が同じように熱く感じて疼くようで、恐る恐る触れてみるが、もちろん身体は剣に貫かれていないし血に濡れることもない。ホッと深く安堵の息を吐くが、だからといって心臓はドクドクと騒ぐのを辞めないので体は冷えていく一方だった。
 あの記憶はなんだったのかとお腹をさすりながら思考を巡らせるが、そんなものに意味はない。――思い出したと理解している以上、あれが真実だということは分かり切っていることなのだから。

「おい。……おい、ミルファ!」
「え! な、なに? ごめんね、聞いてなかった……」
「お前、また無理してんだろ」
「だいじょうぶ……大丈夫、だから」

 明らかに顔が青いミルファが自分に言い聞かせるように呟くのを聞き、スパーダは彼女を頑固な奴だなと思いやれやれと溜息を吐いた。無理だと思ったら背負ってやるというと、ミルファは慌てふためいたかと思えばまた元気を失っていく。……明らかに様子がおかしい。訝しげにじいっと見詰めていると、俯いていた彼女は不安を拭い切れないままにスパーダを見上げた。
 自分だけ思い出した衝撃的な、死の直前の記憶。それをどう話して良いものかミルファには分からなかった。なんでもない、大丈夫。そう言って笑顔を作ってみせるしか出来ない。
 様子のおかしいミルファにスパーダはもちろん、仲間たちも違和感を感じ取っていた。しかし、世界が終わってしまっては元も子もない。今は一刻を争うので創世力を手に入れてから解決しようと考え、足を止めずに奥へと進んでいく。

「あ……」
「この、死体は……」

 ルカが指差した場所には、倒れるリリヴァが居た。石造のように固まっていることから、道々見て来た死体たちと同じだということは明らかだ。
 さきほど見たミルファの記憶とリンクする。漂う空気、廊下の綻びも汚れも、当時と何ら変わりない。リリヴァの下には黒ずむ泉がある。――ここが灯の女神の息絶えた場所なのだと嫌でも分かる。
 自分の前世であるリリヴァが亡くなった場所に今まさに立っている。死の直前の記憶がまた脳を駆けるものだから、ミルファは顔面蒼白になりしゃがみこんでしまう。大丈夫かと駆け寄ってくれる仲間たちは、なぜこんな場所でリリヴァが亡くなっているのか全く分からなくて頭を捻る。

「ミルファお前、もしかして死んだときの記憶、見たのか?」
「……!」
「そうなの……?」

 こくりと頷くミルファに、誰も何も言えなかった。まさか「どんな死に様だったのか」など聞けるわけがない。青ざめていた理由がそれだと思った仲間たちはミルファを労わりながら通路の奥を見据える。今はこの奥に進むしかない。儀式の間。創世力が在る場所へ――。
 男性陣が先行し、そのあとに続く。息を呑み、震えて止まない足を奥へと動かして。創世力を手に入れるために、そして、リリヴァが息絶えたあと何があったのか――それを知るために。
 背をさすってくれるイリアにありがとうと伝えると「気にしないの」と言われてしまったのでミルファは困ったように笑うしか出来なかった。
 ぶわりと風に迎えられたかと思うと、天井のない開けた場所に出た。よく記憶に見たテラス。アスラが民や兵を鼓舞し、デュランダルを掲げ咆哮した場所だ。
 そこには、また神々の死体があった。今度は、ふたりの神が折り重なっている。

「これは……アスラとイナンナ……? デュランダルが、折れてる……」
「……刺し違えてるんじゃねェか、これ?」
「何よ……一体、ここでなにが……」

 大きな体格のアスラの胴には折れたデュランダルが、美しく華奢なイナンナの胴にはアスラの腕があり、それぞれを貫いている。イナンナのしなやかな手にはデュランダルの柄があり、ふたりが争ったであろうことは解った。
 絶望に満ちたふたりの顔を見て、造り物ならどんなに良いかとミルファは思い、ぎゅうと痛いほどに手を握りしめて俯く。彼女はもう、悟ってしまった。ここで何が起こってしまったのかを。
 ミルファの大きな双眼から涙が溢れそうになったとき、重く静まり返る空気を、重く響く声が破る。

「――なぜ天上が消滅したか、分かったか?」

 並ぶ柱の陰からマティウスが姿を見せた。その後ろにはチトセとシアン、ケルとベロの二匹と、ハルクスが控えるように立っている。
 よく見れば、アスラとイナンナのそばにある台座には創世力がない。既にマティウスの手にあるのだろうと悟ったが、今はそちらに気持ちが向かないルカとイリアは動揺の色が顔から抜けない。
 青ざめるふたりを前に、マティウスは淡々と無情な真実を告げた。

「お前は裏切られたのだ、ルカ。そしてその絶望の気持ちが世界を滅ぼした」
「僕の、せい……?」
「……言ったでしょう。そこの女が裏切ったって」
「……あたしが……裏切ったの……?」

 こんな真実、あんまりだ。予想していたとはいえ真実を突き付けられてしまって愕然とするしかないミルファだったが、落ち込んでる場合ではないと溢れそうだった涙を堪えてイリアへと駆け寄る。
 ガクガクと今にも崩れ落ちそうなイリアの身体を支えて、ミルファは立ちはだかる彼らを見た。この場に遺された光景が語る無惨さも、チトセがイリアへと向ける強く恨みの籠った瞳も、真実だと物語っているようだった。
 しかし、一行は未だに信じられない。あんなに愛し合っていたふたりがどうして、と。

「見よ。私の顔こそ、イナンナの所業の証拠だ」

 ――途端、マティウスが自分の仮面に手をかけてその正体を明らかにした。
 誰も、何も言葉を発することが出来ず、ただただ暴かれた物に釘付けになる。性別も年齢も不明だったマティウス――ずっとひた隠しにされてきたその顔も声も、まるで生き写しかのようにイナンナそのものだったからだ。
 酷く驚く一行の様子が気に入ったのか、マティウスは美しい顔を悪辣に歪めて笑ってみせた。


 ◇


 天上統一を果たし、創世力を手に入れたアスラ。
 幼少期から家族と語らってきた夢――天地をひとつにするという望みを叶えるため、儀式を執り行おうとしていた。……とはいっても、国を挙げての勝利の祝杯を終えたばかりでもあるので、兵や民を集めず粛々と行おうとしているのだが。主役であるアスラとイナンナはもちろん、自分の家族である者たちやオリフィエル、サクヤなど……いつも近くで支えてくれていた者たちには集まってもらいたいとアスラは思っていた。
 招集をディターナに任せて、一足先に儀式の間へと赴いたアスラがひとり雲を眺めながらこれから来る未来を思った。天地融合が成れば対立も次第に収まっていき、地上人は天上人からの搾取に怯えることも無くなるだろう。これから世界はより良くなっていく。自分が全ての民を導いてみせる。そうアスラが意気込んでいると、後ろからこの世で最も愛しい女神の声がした。

「アスラ、もう来ていたのね」
「イナンナか。……ああ、もう待ち切れなくてな。起きてすぐにここまで来てしまった」

 自分の方へと歩いてくるイナンナを見てアスラは思う。愛するイナンナは今日も美しい、と。戦場の中心を悠然と歩き、ラティオからセンサスまでデュランダルと共にやって来たあの頃から、くすむことなく瑞々しいままだ。
 彼女は少々不安がりではあるが、そんなところも愛しい。自分が守りたいと独占したくなってしまうほどに。

「イナンナよ、お前の献身を俺にくれ。代わりに俺は信頼を捧げよう」

 陳腐な言葉しか並べられないのが悔しいとアスラは思うが、これが彼なりの愛だった。イナンナが不安に思うことも全て自分が何とかしてみせる。そして自分の隣で永遠に幸せで居て欲しい――そんなことを胸に、アスラはイナンナの手を取り創世力の前まで歩み寄った。
 台座にある創世力から発せられる輝きはとても美しく、ふたりの顔を白く照らしている。

「天地融合は成る。理想の世界が生まれる。イナンナ……お前とともに世界を創れることを誇りに思うぞ。新しい世界を――これから始まる善きもの全てを、お前に贈ろう」

 猛々しいセンサスの将とは思えないほど穏やかに微笑み自分の想いを伝えたアスラ。嬉しいと思いを口にしてイナンナは美しく咲き誇る花のように微笑んだ。

「……まだ皆は集まっていないが……もう儀式を進めておこうではないか。さあ、イナンナ。地上と天上をひとつに――」

 アスラが創世力を見詰め、その輝きに触れようとしたとき。ずぶり、と嫌な音が響いた。
 筋骨隆々な彼の身体を、美しく透き通る刀身を持つデュランダルが貫いている。その剣を手にしているのは、イナンナだった。
 彼女はカタカタと震えながらも柄から手を離さない。

「……魔王様、許して」

 唇をわななかせながら涙に濡れた顔は苦しみに溢れている。目の前で泣くイナンナを初めは愕然と見詰めていたアスラは彼女の裏切りを理解すると、静かに語りかけた。初めから殺すつもりで近付いたのかと。全て嘘だったのか――あの煌めく愛しい日々たちが全て嘘だったのかを知りたくて。

「……私がラティオの元老院から下された使命は、確かに貴方の心を奪い暗殺することだった。けれど、私は本当に貴方を愛してしまったの……」
「ならば……何故だ……」
「地上の人間を天上に戻すのは、許せなかった……」

 バルカンが鍛えし聖剣デュランダル――それでアスラを討てと命令を受けていたイナンナだったが、彼女の心にはアスラが住み着いてしまったのだ。使命との狭間で揺れ動いたが、結局暗殺を選んだ。それには理由がある。
 イナンナの母は天上に生きる女神にしては珍しく地上人に好意的で、頻繁に地上に降りては大地の恵を授けていた。しかし、地上人の手にかかり亡くなってしまう。大地母神であるイナンナの母である豊穣の女神を生贄とし、土地の豊作を願う為に。
 イナンナは、傲慢にも母を殺し笑いながら生きている地上人をどうしても許せない。憎き彼ら地上人と手を取り生きるなど考えられなかったのだ。だからアスラの望みを叶えさせるわけにはいかなかったのである。
 自らの胸の内を渦巻く憎悪に打ち勝つことが出来なかったイナンナは嗚咽を漏らし泣き続けていた。
 彼女の話を黙って聞いていたアスラは腹部に刺さるデュランダルにそっと触れて語りかける。相棒だと、戦友だと、親友だと信じ共に戦場で駆けたというのに――自分だけが、空虚な関係性を信じていたのか?

「……残念だ、アスラよ。我はただの武具。人の道具に過ぎぬのだ。お前を制し天を平らげるために使われるならばそれに従う他あるまい」
「っく……、お、れは……天地を……約束を……」

 家族で夢を語った日に思いを馳せる。ヴリトラから古に伝わる話を妹弟と共に聞いていたとき、リリヴァが語った言葉――天上人も地上人も関係なく幸せに暮らせる世界が見たい――という願い。それが三兄妹の、家族の夢となり、必ず世界をその時へと導こうとで決めたのだ。病弱なリリヴァの代わりに自分がその願いを叶えると約束した。なのに。
 愛に、友情に裏切られ、道半ばで倒れることになるとはなんて情けないのか。家族だけを信じていれば良かった。少年のように無邪気な思いなど捨てていれば良かった。後悔に胸が張り裂けそうで、悔しくて、たまらない。
 唇を噛み締め過ぎたことで口の中が切れる。腹から溢れる血が逆流し、血が交わり大概に溢れる。ぼたぼたとデュランダルの刀身を濡らす赤を虚ろに見詰めていると、違和感に気が付いた。

「……?」

 真新しくない血痕がデュランダルに付いている。少し黒ずみつつある、こびり付いた血が。アスラの血ではない、誰かの物。
 不思議に思ったアスラはイナンナに血の主を確認しようと顔を上げたところで儀式の間の入り口が目に入った。正確には、そこに横たわる何かが。
 霞む視界の中、凝視して解る。柔らかく長い銀の髪と、血に波紋を広げる黒い羽根。その持ち主である自分の妹が血の海の中で息絶えていることに。

「リ、リ……ヴァ……?」
「ごめんなさい……。私……使命を果たすために……っ」
「……殺したのか……ッ」

 大粒の涙を零してイナンナは立ち尽くす。それは肯定を意味していた。
 ――ミシ、ミシッ、メキリ。軋む音がデュランダルから発せられている。
 手で刀身を挟み込み、怒りのままに力を込めたアスラはデュランダルを真っ二つに折り砕くと、そのまま地面に叩き付ける。
 何もかもを失い、奪われた。絶望したアスラは恨み辛み、悲しみ――己に内在する全ての負の感情に支配され、心の苦痛に喘ぎながら自らの手でイナンナの体を貫いた。


 ◇


 全員が同じ記憶を見た。この天空城自体に記憶が重く深く根付いていたのだろう。
 イリアがガクンと膝を付き、瞳からぼろぼろと涙が溢し床を濡らす。

「嘘よ……、だって、それじゃ……やだ、嘘……うそ、うそうそ!!いやああぁぁぁっっ!!」

 城中に響くイリアの悲鳴にハッとしたミルファは、彼女に寄り添いぎゅっと震える身体を抱き締める。こんな真実を見せられて冷静でいられるはずがない。イリアの心は今罪の意識で押し潰されそうになっているであろうことは考えなくても分かる。

「アスラのイナンナへの恨みは骨髄にまで達した! イナンナの裏切りが魔王アスラの魂に絶望と憎しみを刻んだのだ! そして、私が生まれた!」

 死んでも許すことが出来ないほどの激情がアスラの魂に刻まれた。転生してもその無念は消えることなく残っているのだ。リリヴァがゲイボルグに掛けられた呪いのように――。

「マティウスがアスラ……? じゃあ、僕は、僕は何? 僕だってアスラなのに――」
「お前は我が半身。アスラの迷いだ。思い出せ! 大義をはばまれ、愛しい妹を殺された無念をな!」

 ルカは震え上がった。全てを憎み、悲しみ、天上を崩壊させてしまったのは――転生者を生み出し、世界中の人々を、大切な仲間たちを不幸にさせたそもそもの元凶は自分だったなんて、どう償っても償い切れない。
 マティウスが語ることなど頭に入って来ないルカもまたイリアと同じように罪の意識で頭がいっぱいになっている。
 そんなルカにマティウスは手を差し伸べた。自分たちと共に来い、と。ルカは一瞬たじろいだが、仲間を振り向くこともせず彼女の後に続いた。
 イリアを抱き締めたままでは引き留めることも出来ないと思ったミルファは、アンジュとエルマーナにイリアを頼み急いで立ち上がると、ルカへと手を伸ばした。行っちゃだめだよ、と望みを掛けた手は、いつの間にか側まで近付いてきていたハルクスに阻まれてしまう。
 ルカとミルファの間に立ったハルクスはニコリと整った微笑みを作ると、一歩近付きエスコートするようにミルファの手を自分の手に重ねるよう促した。

「ミルファ様もどうかこちらへ。マティウス様が貴女を必要としているのです」
「え……?」
「我が妹よ。私と同じように身体を貫かれた痛みや恨み辛み……忘れておらぬのだろう?」

 リリヴァの無念は全身に刻まれたかと思うほどに分かっているつもりではあった。しかし、今この場に立っているのはリリヴァではなくミルファなのだ。
(ごめんね、リリヴァさん)
 彼女の無念を晴らすよりも、自分の手で大切な仲間を助けたいとミルファは強く思った。そんな彼女の思いを知ってか知らずか――否、察したのだろうが――マティウスは艶っぽく潤う唇をなぞると愉快そうにくつくつと喉奥で笑う。すると、仲間たちを品定めするようにじろりと見回して形の良い唇をニヤリと歪めた。

「お前がこちら側に来れば……そうだな、そこの裏切り者を含んだお前の仲間を殺さずに救ってやってもいい」
「……!」

 わたしが付いて行けば、みんなは死なずに済む。そう瞬時に受け取ってしまったミルファの心は揺れ動く。虚言でしかないと分かるが、それでも。今ここで創世力を使われて皆が死んでしまうよりは自分が彼女たちの元へ行く方が時間を稼げるかもしれない。説得なり、あわよくば創世力を奪うなり……望みは薄いが、もしそれが叶えば世界が終わることにはならないはずだ。
 もしかしたら、説得をし続ければ本当に気が変わって願いを変えてくれるかもしれない。非常に確率の低い賭けではあるが、何もしないよりは良い。そう思ったミルファが口を開く。

「……わたしが行けば、ルカくんを連れて行かないでくださいますか?」
「バカッ! そんなの、嘘に決まってンだろ!」
「スパーダ……、で、でも……っ」

 ミルファの手を掴むスパーダの手は痛いほどに強く、そして、震えていた。彼の苦しみが伝わって来て、ミルファは動くことが出来なくなってしまった。
 いつも共に戦場を駆け抜けた相棒だと思っていたのに、かけがえのない友だと言われて嬉しかったはずなのに、それでも行われたデュランダルの裏切り。スパーダだって愕然とするしかないだろう。
 今ここでスパーダを振り切りマティウスの元に行くことは可能ではあるのだが、今まさに苦しんでいる彼を放っておくことはミルファには出来ない。
 それが、ハルクスにも分かっていたのだろう。やれやれと肩を小さく竦めると彼はスパーダへと向き直り、目の前の彼を刺すように敵意を剥き出しにした言葉を放つ。

「裏切り者は黙っていて頂けますか? スパーダ様。私の大切な姉様を貫いた貴方に、ミルファ様といる資格はありませんよ」
「……ッ! ……せぇ、――うるせェッ!!」

 冷酷な言葉は易々とスパーダの心を抉った。彼自身そう≠セと思ったのだろう。まともに反論も出来ず全身を強張らせたと手と手で繋がっているミルファには分かった。
 握られていた手が離れたかと思うと、スパーダはハルクスに殴りかかる。待ってと止めても止まらない拳はいつものように戦いに集中したものではなく自棄を起こし乱れた気持ちと共に振るわれた一発。軽々と受け止められてしまうに決まっていた。

「テメェ……ッ!」
「まるで子供だ、貴方は。そんなことでは……大切な人を守る騎士にはなれませんよ。前にもそう言ったでしょう?」
「……!!」
「やめて……やめてよハルクス!」

 正論なのかもしれないが、苦しみを煽るようなことばかり言うハルクスのことも苦しみもがくスパーダのことも見ていられなくて、精一杯声を出して自分の執事を止めた。

「どこまでもお人好しですね。お嬢様は」

 ミルファを無理に連れて行くようなことはせず、ハルクスは優しくルカの背中を押した。
 このままルカがマティウスの元へ行ってしまっては良くない。行かせたくない。連れて行かれてしまえば、世界滅亡の片棒を担がされるかもしれないのだ。そんなことをさせたくないという思いから、ミルファはもう一度手を伸ばして、今度はしっかりとルカの手を握った。

「ルカくん……っ!」
「…………ごめん、ごめんよ」
「え……?」
「ごめん……僕は……みんなの顔を、見るのが、怖いんだ……」

 背を向けたまま、ミルファにしか聞こえない声量でぼそりと思いを吐露するルカ。そのまま引力に導かれるかのようにミルファの手からするりと抜け、マティウスの方へふらりふらりと歩き始める。

「ルカくん……だめだよ!」
「ルカ君……!」
「おいゴラァ! ルカ! 今すぐ戻って来やがれ!」
「なぁ、行ったらアカンて。こっちおいでや、ルカ兄ちゃん……」
「ミルダ。お前の望む未来はそちらにあるのか?」
「ルカ! 行っちゃだめだぞ、しかし」
「……ル……、カ……っ」

 ミルファ、アンジュ、スパーダ、エルマーナ、リカルド、コーダ、イリア。共にここまで旅をして来た仲間たちが去り行くルカを呼び戻そうとするが、彼の足は止まらない。誰ひとりとして、ルカを責める人なんて居ないのに。怖くなんてないのに。心配しているだけなのに。伝わらないのがもどかしくて、どうしたら良いのか分からない。
 震える身体でイリアが立ち上がり、ルカを追い駆けようとしたが時既に遅く、彼はもうマティウスの元に辿り着いてしまった。
 歓迎しよう。そう言うとマティウスは手を広げて、光り輝く物――創世力を取り出す。

「私は世界を滅ぼさなければならない。人であれ、神であれ、存在するだけで対立を生むからな」

 マティウスの言葉を聞き、今まで事の成り行きを見守るしか出来なかったシアンが瞳を見開くと、彼女に掴み掛かる勢いで声を上げた。理想郷を作るという言葉を信じていたのになぜだ、と。
 シアンを一瞥すると、マティウスは哀れみを込めた瞳を向けて、愚かだと言いたげにクッと笑う。今まで何の疑いもなく付き従っていた哀れな少年を捨て置くために真実を告げた。腐った天地が無くなることこそ、人類が共に消えゆくことこそ理想郷だと。
 彼女の語りを聞きながら大きな瞳に涙を溜めていたシアンは、転生者を利用するだけ利用してきたことを許せないという思いが燃え上がり、激昂する。目をキッとつり上げてマティウスに飛びかかろうとするも天術により弾き飛ばされて柱に体を打ち付け、ずるずるとずり落ちて床に倒れこんでしまった。そんな彼の元にケルとベロが駆け寄り、悲しげに鳴きながら労わるように傷口や涙の伝う頬を舐めている。

「……は、無駄だ。お前らは同一人物だからふたりでも使えない。そもそも信頼も献身もないんだ、創世力は反応すらしないよ。ボクには分かる」

 力の番人ケルベロスだったシアンの言葉の通り、創世力はただ輝いているだけで何も変化がない。
 顔を歪めたマティウスは思い通りにいかない苛立ちを見せ始めるが、そんな彼女にチトセが自分の命を使ってほしいと名乗りを上げる。しかし、マティウスは冷やかな顔を向けて何の返事もしなかった。
 チトセの顔は悲しみに暮れ、こんなにもお慕いしているのになぜ、とマティウスに詰め寄るが至極面倒そうに顔を歪ませられてしまうだけで彼女からの愛は得られない。ハルクスは涙を溜めるチトセの肩を優しく支え、マティウスからそっと引き離した。

「では、ルカ。お前の心に住み着いた女――イリアの命をもって創世力を使え」

 ルカの耳元でそう囁いたマティウスは力が振るわれる瞬間を待つ。しかし、ルカは一向に動く気配がない。頷くことも首を横に振ることもしなかった。ずっと俯いて立ち尽くしたままだ。
 心ここに在らずといった様子にマティウスが痺れを切らしそうになった瞬間、ルカの前髪がさらりと風に揺れる。ほんの少し空気を吸うだけでも上手くいかず、浅く吸い込んだ唇が震えていた。
 
「裏切りとか、そんなの、どうだっていい。……僕は自分が許せない。だから……僕なんか消えてしまえばいい。……それが一番いいんだ……っ!!」

 耐え難い前世の記憶により招いた心の不安定。それが力を暴走させた。
 ルカを中心として放たれた力は城を大きく揺らし、城中に亀裂を生じさせる。このままでは、天空城は崩壊してしまう。その前にルカを止め、彼の近くに倒れているシアンも助けなければ皆一緒に崩落に巻き込まれて死ぬだろう。
 誰もルカに近付くことが出来ない――それほどの暴走に、マティウスたちは打つ手がないと判断し、空間移動の術で姿を消した。

「ルカくん! シアンくん! わんちゃんたち! ……きゃあっ!?」

 ミルファが駆け寄ろうとしたとき、それを許さないというようにルカ達との間の床がひび割れてしまい、ガラガラと壊れ始める。その勢いは凄まじく、反動で後ろに大きく飛ばされ尻餅をついてしまうほど。お尻は痛いが、そんなことに構っている場合ではない。近付けそうにないけれど、何か……何か方法があるはず! 必死にどうすれば助けられるかを考えていると、リカルドが冷静に判断を下した。

「……飛行船へ戻るぞ!」
「……ッイヤ! 離してよ! ルカが死んじゃう!」
「てめェ……ルカを置いて行くってのかよ!」

 リカルドは、泣き喚くイリアと暴れるスパーダの腕を引きながら来た道を戻って行く。もう、あらゆる道が崩壊して瓦礫が地上へ向けて落ちていっている。もうこれ以上ここに居ても出来ることはない。それが分からないほど愚かではないが、諦めたくなくて、藻掻くしか出来ない。
 足を止めたリカルドが、あくまで冷静にふたりに問い掛ける。残って何ができるのかと。

「このまま残り、俺達が城と共に滅ぶのが奴の願いか?」

 その問いかけに、誰も何も答えない。……分かり切っている。少し臆病で自分に自信がないながらも懸命に生きている心優しい自分たちの仲間――ルカはそんなことを望むような少年ではないと。

「……恨むなら俺を恨め。ここでお前達を置いて行くようなことだけはせんぞ」
「リカルドさん……」

 悔しそうに唇を噛むスパーダと涙を流し続けるイリアの背中を軽く押し、リカルドは先陣切って走り出す。
 どの道、どうやっても助けられない。それならルカの力の暴走を乗り切り、生きて戻り、そして彼が無事に戻って来たときに迎えられるようにした方がずっといいだろう。
 不甲斐ない自分を許せず、悔しさから零れそうだった涙をぐっと堪えると、ミルファはコーダを抱き上げて仲間たちの後に続いた。

「……ルカ兄ちゃんはこんなことで死んだりせぇへん。ウチの子やで? ウチが保証する!」
「急いで戻りましょう! 私たちがルカくんの帰る場所になるためにも、ね」
「ルカ、戻ってくるかー? しかし」
「うん、きっと! その時は、笑顔で迎えようね」

 みんなの顔を見れない。怖い。そう言っていたルカの言葉を思い返しながらミルファは走る。怖いなら、二度と怖いと思わないくらいの笑顔で迎えるから、だから、きっと無事で居てと願いながら。

hitsujitohana