49.天地をひとつに
誰も、何が起こったのか理解できない。否、したくないのだ。
夥しい量の血がボタタッと落ちて床を赤で濡らすのを見て、なんて残酷な夢だろうとスパーダは考えた。
夢だ。夢なんだ。そうでなければ、なんだっていうのか。目の前の光景を受け入れられず進まない思考は、ぐるぐると巡る。
「大丈夫……だった? スパーダ……」
理解、したくなかったのに。大切な幼馴染の声が無情にもスパーダを現実に引き戻す。小さく掠れた声で名前を呼ばれ、喉が引き攣った。それでも絞り出した声は、これ以上なく弱々しい。
ミルファの名前を呼ぶと、彼女はいつものようにふわりと微笑んだ。彼女を濡らす血が非日常的で、心臓をぎゅうぎゅうと鷲掴んで潰さんとするようだった。
ずるりと倒れてきたミルファの体の重みを体で感じる。震える手で彼女に触れると、その手はグローブと同じ赤に染まってしまう。ぬるりと生暖かいその色が大きく傷付けられた胸元からどんどん身体から流れ出るのを見て感じた“死”を振り払いたくて、叫んだ。
「ミルファ……っ、ミルファ!!」
叫ぶスパーダの声に、仲間たちも幻覚から覚めるようだった。立ち尽くしていた異形の魔王の手から血濡れの大剣がガシャンと落ちた途端、イリアの悲鳴が木霊した。
「ミルファ! 起きなさいよぉ!」
「イヤや……イヤやぁっ! ミルファ姉ちゃぁん!!」
駆け寄るイリアとアンジュとエルマーナ。必死に全精神力を注ぐように回復術を施すアンジュだが、傷を癒すはずの力はなかなか作用してくれず、ミルファの身体から血が流れ出ていく。
マティウスが剣を手放したとはいえ何をするかわからないため、ルカとリカルドは駆け寄りたい気持ちを押し殺して対峙しながらも必死にミルファの名前を呼ぶ。
意識が朧げになりつつあるミルファは、仲間たちの声が遠退いていくのを感じていた。体から血が抜けていく感覚に従うしかない中、傷が酷いのだと察する。受けた一撃は痛みさえも感じなかった気がしたのに。
力が入らない。だけど体は生きようとしているからか、心臓が異常に熱く脈打っている。だからこそ、だんだん冷めていくのもわかる。熱さと冷えが同時に感じられる、奇妙な感覚。
(わたし、死んじゃうんだ……)
ぽつん、と、漠然と脳に浮かんだ現実。もっと生きたかったけれど、自分の命がどうなるかなんて考えていられなかった。むしろ、スパーダを助けられた――それがひどく誇らしく思える。
「なんで、だよ……。なんで庇ったんだよ……!」
「スパーダ……」
「こんな、……ッ!」
「……約束、したから……」
血濡れた身体を支えるスパーダが、ミルファの答えにくしゃりと泣きそうに顔を歪めた。グッと唇を噛み締める彼が涙を流しているように見えて、そっと頬に手を伸ばそうとするけれど力が入らず、腕が鉛のように重く感じる。今の自分には、スパーダに触れることすら出来ない。叶わないのだ。
「ごめんね……」
彼との約束は果たせない。そう悟ったミルファから出た言葉は謝罪だった。
大切な幼馴染を守るためとはいえ、自分の示した約束を優先して彼の望んだ約束を守れなかった――それが申し訳なくて、悔しくて。それでも、守りたかった。スパーダのことも、スパーダの未来も。
(だめ……。瞼が、おも、い……)
出会えて良かった。楽しかった。仲良くしてくれてありがとう。どんなに短くてもいいから仲間たちに早く自分の思いを伝えなければと思うのに、霞んでいく意識を保つことが出来ず、ミルファは瞼を閉じてしまう。出血多量で体が麻痺しており、いうことを聞かないのだ。
「……っ、ざけんな……」
スパーダがグッとミルファの手を痛いほど握りしめる。
守ると誓ったのに。これからもずっと、隣で笑っていて欲しいのに。自分は彼女を守ることが出来なかった。そうして襲い来る喪失感はただただ暗くて、未来なんて見えない。ミルファが居ない世界で生きるなんて、考えられない。息の仕方も忘れたのではと錯覚するほどに。
回復を施し続けるアンジュと、道具袋を広げて懸命に手当てをするイリアとエルマーナと、恐々としながらもミルファに寄り添うコーダを見て、スパーダは自分の心に激励を飛ばす。諦めるな、と。
(オレがミルファの命を諦めて、どうすんだよ!)
思い付きで上手くできるかは分からないが、少しでもミルファの気力が続くようにと自分の精神力を繋いだ手から分け与える。手探り状態ではあるが、少しずつ。
ミルファを見詰める視界の端で魔王がぐらりぐらりと軸を失ったかのようにふらつくのが映る。
「……あ……ああ……。リリヴァ……私が……私の及んだ行為の為に……」
あんなにも禍々しかった魔王の力がどんどんと消えていったかと思うと、マティウスは異形の魔王の姿ではなく、ただの少女の姿へと戻っていた。ガクンと膝から崩れ落ちた彼女の心は絶望感でいっぱいになる。
事の成り行きをただ見ているしかなかったチトセもまた、前世でアスラとリリヴァを失ったときの喪失感をその身に浴びたように感じてどうしたらいいのかわからずに、ただマティウスの名を呼ぶしか出来ない。
チトセを支えていたハルクスがゆっくりと立ち上がると、スゥッと手に天術の力を溜めて鋭い爪を創ると、それをマティウスに突き付ける。それを見たチトセが血相を変えて彼の後ろから身を乗り出した。マティウスの元まで走るかと思ったが、混乱の中に居る彼女にはそんな行動力も湧いて来ないのであろう。
「これより、ルカ様たちが創世力を使い世界を救います。もし貴女がそれを邪魔立てするのなら……」
「……」
「私は、世界のために貴女を殺します」
自分が仕えてきた心優しい主であるミルファの凄惨な姿に動揺しないほど、ハルクスは冷静でいられなかった。始めはただの仕事としてこなしていた味気ない日々も、彼女と過ごす内に少しずつ、ただ自分を侵す夢に怯えて毎日を誤魔化して過ごすだけのものではなくなっていったことは彼の記憶に新しい。
マティウスを救いたいと思っていることは確かだが、救うことが出来ない現実を受け入れるのも大事だ。その見極めのために向けた氷爪は、答えを求める。
突きつけられた刃を見やり、少女の姿に戻ったマティウスは自嘲的な笑みを溢した。諦めたような、毒が抜けたような、そんな笑みを。
血濡れたミルファの姿が、遠い前世のあの日――血の海に伏せたリリヴァと重なった。
――世界の破滅。これこそが正しいと信じて、たったひとり孤独なままに突き通して来たというのに、なぜ彼女がまた赤に染められているのだ。なぜまた同じことを繰り返しているのだ。それを考えたマティウスはひとつの答えに辿り着く。
「……私、は……間違っていたのか……」
つい出た声は、自身の過ちを認めたも同然のものだった。
前世の間違いを今世でこそ正す。そのためにここまで来たのだ。そう、間違いを正すために。ならば――。
マティウスは翡翠に抱かれる菫を目に映すと、長い睫毛と共に瞼が伏せる。再び開かれたその眼には決意が宿っていた。ほんの少しの希望すら携えて。
「……ルカよ。創世力で何を願うつもりだ?」
マティウスから敵意や戦意を感じられないのでルカは剣を鞘に納めた。それに倣い、リカルドも渋々銃口を下げる。
向き直ったルカは、はっきり、まっすぐ、願いを口にした。
「天地をひとつにして、全ての人が救われるように、神々の祝福を受けられるようにしたい」
「なるほどな。それは原始の巨人の願いでもある――悪くはないだろう」
世界の始まりの存在、原始の巨人。体から大地を、頭から天上界に生きたあの神々を生んだ者たち。
彼らはおそらく、自分と同じで寂しかったのだろうとマティウスは思った。孤独を嘆き、愛を求めて創世力は成ったのだと。それならばルカの願いは巨人の願いで、アスラたちが願った世界のための正しい願いに他ならない。世界を無に還し世界を平らげようと思っていた誤った願いとは違う、崇高なものであると受け入れられると思った。
「……創世力を使うがいい。今ならば、もしかすれば……“全て”救えるやもしれん」
ルカが追ったマティウスの視線の先には、スパーダに抱き留められたミルファが居た。それは、死の回避を意味しているように思えて、ルカの胸は希望にドクリと脈打つ。
自分と同じアスラの転生である彼女ときちんと話をしなければと思うが、状況は待ってくれない。救いたい、何が起ころうと。世界も、大事な仲間であるミルファも。
ルカが仲間たちを見渡すと、彼らもまたこちらに視線を向けていて、託すと語る力強さを込めて頷く。誰も異論はなく同じ思いなのだと受け取ったルカは、イリアへと手を伸ばす。
「イリア、お願い。僕と一緒に力を使って欲しいんだ」
創世力は大切な人とでなければ使えない。ルカはその相手にイリアを選んだ。まさか自分が選ばれるとは思っていなかったイリアは目を瞬かせる。やがていつものように力強くまっすぐな瞳をルカへ向けると、ミルファの手を握った。絶対助けるから――そう伝えると、ルカの元まで駆け寄る。
「やりましょ、ルカ!」
ふたりは頷き合うと、台座に置かれた創世力の元まで歩みを進め――銀色の輝きに手をかざした。そんなルカとイリアの背に世界への願いを託しながら、スパーダはミルファの小さな手をぎゅうと握る。
すっかり血の気の失せたまま気を失う彼女を見詰めていると、辺りが創世力の輝きに包まれ始めた。願いを胸にいつもの子供体温とは違い少し冷たくなりかけている華奢な身体をそっと抱き締め、額を寄せる。縋るような思いで。
「生きてくれ……ミルファ……。オレの、ためにも――」
紡いだ言葉は誰にも聞こえないほどに小さく、ごうごうと輝きを増していく銀色に呑まれていく。
「天地をひとつに。全ての者に祝福を!」
――そうして世界は、白に包まれた。
◇
すう、と目を開ける。菫の髪を持つ少女は思った――夢の中のようだ、と。現実ではあり得ないほどに、見回す先はどこまでも白い水平線だ。
「……ここは……?」
ぺた……とおもむろに胴体に手を触れてみる。真正面から攻撃を受けて負った傷もなく、服からは赤黒い血の色が消え失せていることに気付く。漠然と、死んでしまったのかと思ったところで目の前に突然、銀色の髪と美しい翼を持った女神が現れた。
「自己犠牲精神が強すぎるのも問題ね」
「リリヴァさん!?」
夢で見た自分の前世、時々声で自分を導いてくれた――灯の女神リリヴァ。
やれやれといった様子でこちらを見据える彼女を見て、ミルファはますます夢だという疑惑が確信めいたものになっていく。しかし、リリヴァは夢ではないと言い切った。夢に近い、だが夢ではない――意識体での会話だというのだ。
嘘みたいだというミルファに嘘ではないことを告げつつも、なんでもいいことだが……と、説得や説教が目的ではないことを思い出した女神はコホンとひとつ大げさに咳払いをして見せる。
「私は最後の道案内のために来ただけよ」
「最後の……?」
首を傾げるミルファに、リリヴァは言った。ルカとイリアが創世力に天地融合を願ったことで、今まさに世界が変わっていこうとしている最中であり、前世の存在は今の転生者の中で眠りにつき今後はもう声を聴くこともなくなる、と。
凛と整った美しい顔立ちを崩さないまま、リリヴァは人差し指をピッと立てた。天地がひとつになること以外にもうひとつ叶えられる願いがある――そう伝えられるが、ミルファには見当もつかない。
「彼らは全ての者の祝福を願いながら、貴女の命が救われることを強く祈ったんだろう。これは、その願いのおまけのようなもの。ミルファ、貴女が負った傷は癒えて、死ぬことはない」
想像だにしなかった状況に目を瞬かせるミルファを見て、リリヴァはくすりと穏やかな笑みを向けた。
「原始の巨人の願いである愛から創世力は生まれたんだもの。みんなが、世界やあなたを思い願ったことが叶わないはずがない」
「リリヴァさん……」
「実際はどうか分からないけれど、現に貴女の身体は創世力のお陰で救われているのだし……こんな奇跡くらいロマンシティズムに信じてみてもいいんじゃない?」
「で、でも……いいの、かな」
自分が死んでしまうなどと考えもせずにスパーダを守るために動いたのは確かだ。死にたいわけではないが、なんだかずるい気がして手放しで喜ぶことが出来ない。顔を曇らせたままの少女に、女神は瞳を伏せる。そして改めて思った――ミルファの、自分の我儘に対する異常な罪悪感は自分のせいだろうと。
戦いたいという願いを抱いたことでアスラを傷付けた。平和な世界を見たいと言ったことがきっかけで愛し合うふたりが殺め合う結果となった。ゆえに死んでいくときに思ったという――自分の願いのせいで、我儘のせいで傷付く人が出る、と。そうやって死の淵で悔いた感情がきっとミルファの枷となっているのだ。しかし、これからの未来を生きるのならその枷は壊すべきだろう。
「――自分の望みを口にしてみなさい」
促されたミルファは、自分の胸に手を当てて気持ちを固めていく。
ルカの気弱な中で輝く優しさ。周りを明るく引っ張るイリアのまっすぐさ。アンジュの強かさと慈愛を兼ね備えた心。不器用ながらに大人の責任を果たさんとするリカルド。世話焼きなエルマーナの希望に満ち溢れた笑顔。小さいながらにいつも皆の旅に付いて来てくれたコーダ。そして、大切な幼馴染であるスパーダの強さと眩さ――。大切な仲間たちのことで胸がいっぱいになる。
仲間たちの未来をこれからも見ていたい。スパーダとの約束を守りたい。自分の夢に向かって歩きたい。膨らんでいく希望はもう、答えを出している。心は考えるまでもなく決まっていた。
「……生きたいです。新しい未来を、みんなと!」
ミルファの思いを聞き届けたリリヴァはニコリと嬉しそうにほほ笑むと、ミルファの手を引き、白を割き光の差し込む方へ促す。
「ならば、進みなさい」
道を示したリリヴァの姿が薄く消えそうになり、ミルファは急いで彼女の手に手を重ねた。
私の生まれ変わりが貴女でよかった。光の粒となりながらそう言ってくれた女神の言葉にミルファは涙を浮かべる。
まだまだ話したいことはたくさんあったし、出来るなら友達にもなりたかった。そして、自分はリリヴァの悔いや無念を晴らすことが出来たのか知りたかったが、リリヴァが自分に向ける穏やかな笑みが答えのような気がしてそれ以上は何も聞かなかった。ただひとこと、ありがとうと伝えると女神は満足そうな表情を携えながら手を振り、姿を完全に消した。
黄泉の世界があるとしたなら――彼女は何百年も会えなかったアスラやディターナ、ヴリトラにやっと会える。きっと穏やかに大切な者たちと過ごせるだろう。
白の世界に差す光が溢れ、ミルファを包む。そして、鼓動が強く胸を叩くような、生を感じる音に身体が支配されていく。ドクンドクンと脈打つそれは、現実に引き戻していく――。
◇
暖かく柔らかな光が目覚めを促す。
この瞼を開けたら、みんな、居てくれるかな。希望と、ほんの少しの臆病さを胸にゆっくりと現実と向き合うと、強く自分を抱き締める彼の翡翠に目を奪われる。
胸元にそっと耳を寄せてみると、暖かな体温と、とくんとくんと鳴る心音に安堵させられた。ほっと息を吐くと、溢れんばかりの喜びに涙が滲む。
――生きている。スパーダも、自分も。仲間たちも。そして、世界はひとつになり救われたのだ。
ぴく、とスパーダの瞼が少し動いたかと思うと、ゆっくりと目が開かれ、灰色がミルファを捉えた。ぱちぱちと瞬きを繰り返し、彼の意識は覚醒していく。
「おはよう、スパーダ」
ミルファはいつものようにそう言い、ふんわりと微笑む。そんな彼女の甘く柔らかな香りがスパーダの鼻をくすぐった。
さらりと流れる髪。血色の良い頬。小柄な幼馴染の少女が、何よりも愛しいミルファがそこに居る。それが分かるとスパーダは反射的に勢いよく、息がし辛くなるほど、骨が軋むほど――強く、つよく抱き締めた。彼女がここに居ることを、確かで揺らぎない現実だと確認するように。
「っすぱ、」
「ミルファ……ッ!」
彼の口から絞り出されたように紡がれた自分の名前。スパーダの声を聴くだけでこんなにも胸が詰まって、滲んだ涙が溢れそうになるなんて。自分の思いをうまく言葉にできなくて、でも、なにか伝えたくて。わたしはここにいるよ。そう言って、ぎゅうとスパーダの首に腕を回した。
「ねえ、スパーダ。約束……守れるよ」
「……ッ、バカやろ……!」
肩に顔を埋めるスパーダの髪をそっと撫でると、柔らかくてサラサラで……だけどほんの少し固い髪質を手に感じる。
ミルファを失うかも知れなかった恐れと安堵から感極まって涙ぐむスパーダを抱き締めながら、ミルファの心は彼への暖かな想いに満たされていく。
分けて貰った勇気のお陰で大切な彼を守るために行動できた。いつも心には彼への思いがあって、自分の望みはスパーダの幸せであると改めて強く実感する。彼は、わたしの特別だと。この世でいちばん大切な存在だと。やっと、気付くことが出来た。
(スパーダ。わたしはあなたが、すき。ずっとずっと……だいすき)
大切な幼馴染としてだけじゃない。ひとりの特別な男の人として――スパーダが好き。
遅すぎる恋と愛の自覚。でも、どんなに遅くても気付けて良かった。想いを見つけることが出来て良かった。ミルファは心にある宝物ごと抱き締めるように、再びスパーダにぎゅうとしがみついた。