51.あふれる想い
工場地区や市街地を抜けると、見慣れた庭園調のエリアが見えて来た。豪勢な貴族の屋敷が建ち並ぶ景色を目にすると、帰って来たんだなと改めて現実を感じるとともに妙な緊張がミルファを襲う。それもそうだろう。名家の娘が何日何か月も家を空けているだの、適応法で捕まったことで犯罪者になっただのと噂されているかもしれない。そして、どうであろうと両親は自分に失望し、見捨てるかもしれない。いや、もう既に要らないものとしているかも……。
旅の中で自由を知り、自分のしたいことを見つけたミルファにとって家を出るという決意は揺らがないが、それでも唯一の肉親を恨むことなど出来ないのである。
家が近付くにつれ、歩幅が短くなり、歩く速さもゆっくりとしたものになっていく。
――見間違うはずもない、大きな門。大きな屋敷。自分を外へ羽ばたかせないための鳥籠のような、あの家。嫌な思い出ばかりでもないが、寂しさと哀しみがたくさんある屋敷に足を踏み入れて、話をまともに聞いて貰えるだろうか。また外に出さないように、今度はもっと厳重に閉じ込められるのでは。不安がどんどん膨らんでドクドクと心臓が鈍く鳴く。
「ミルファ、無理すんなよ。別に今すぐ帰らなくても、明日にしてもいいんじゃねェの?」
「うん……、ありがとう……でも、すぐに帰らないと、これ以上心配とか迷惑とかかけられないし……」
まーたいい子ちゃんな部分が出やがった。とスパーダは心の中で悪態をつく。彼女が人に迷惑をかけたくないといつも誰にでも思っているのは知っているが、あの両親が心配なんてするのか? と疑問を口にしそうになる。そんなことを口にしてしまえば、ここまで来ても親への情を捨て切れないミルファは傷ついてしまうだろうから口にはしなかった。
「あのね、スパーダ。約束……また明日でもいい?」
「え? ああ……」
「約束があれば、頑張れるから……」
最後の戦いが終わったら話したいことがある。そうは言ったが、別に急いで告白したいという理由もない。ミルファが人生の大事な局面を迎えようとしているのだから、それが終わってからでもなんでも、聞いて貰えたならそれでいいとスパーダは思った。あわよくば、の想いは無きにしも非ずではあるが。
スパーダは俯くミルファの頭を撫でるためにそっと手を伸ばす。約束はいつでもいい――そう言おうとした瞬間。
「ミルファッ!」
「!? あ…………お、おと……さま、」
厳しい声がミルファを呼んだ。それだけで小さな身体がビクリと強張る。声の方を恐る恐る見れば、ミルファの父親が門を乱暴に開け、こちらに向かって来ているのが分かった。
ずかずかと近付く父親の形相は険しく、鬼気迫るものがある。圧倒されたミルファは思わずたじろぎ後退ってしまう。
火に油を注ぐだろうと思ったが、スパーダは挨拶をしようと帽子を取り頭を下げた。……が、ミルファの父はフンと鼻を鳴らし一瞬彼を見るだけだった。その眼は以前までのようなベルフォルマの家名に媚びるものでなく厄介者に向けるそれで、ああ完全に敵視されているなとスパーダは思った。
「お前は……ふざけているのか!? 適応法で捕まるなど冗談じゃない! 我がフィオリーゼの名前に傷が付いたらどうしてくれるんだ!」
「ご、ごめ……なさ、い。わ、わたし……」
開口一番の言葉にミルファは怯えながらも、やっぱり、と愕然とする。自分の心配なんてするはずがなかった。人間を、自分の子供を、本当に出世のための道具としか思っていないんだと、まざまざと見せつけられてショックのあまり息の仕方も忘れそうになる。
それでも、自分の願いを言わなければいけない。勇気を振り絞って、緊張から冷たくなっていく指先を懸命に動かし、ぎゅうと力を込める。唇が震えて、喉が引き攣って、うまく声が出せない。それでも、ミルファは口にした。自分の望みを。
「っわた、し……家を出ます! それで、看護師さんになりたい、ん、です……っ! 政略結婚なんて、しません、わ、わたしは、自分で自分の未来を選びたいんです……!」
堰を切ったように溢れ出した言葉は、イメージしていたよりも弱くて情けなくて格好のつかないものだったけど、初めて自分の望みを親に言えた。その達成感と開放感は言い知れないほどで、あれだけ鬱蒼としていた心が軽く晴れていく。
よく言ったと言いたげにニッと笑うスパーダだったが、呆気に取られていたミルファの父親はそれとは裏腹にみるみる顔を赤く恐ろしくさせていく。娘からの初めての反発を受け、自分が辱められたように感じたためだろう。
「私の言うことが聞けないのか!? お前はもう嫁ぐところも決まっているのだぞ……! 今更そんなことがまかり通ると思うのか!」
「でもわたしっ……」
「口答えするな!」
頭ごなしに怒鳴りつけ、聞く耳を持たない父親の姿に怯えながらも自分の気持ちを口にしようとするが、威圧されてそれも叶わない。話を聞いてと言う懇願も、父の心には届かないのだ。
肩を震わせて涙すら浮かべて怯えるミルファを見て、スパーダは自分の心が怒りで煮え滾っているのに脳はどんどん冷静になっていくのが分かった。無遠慮に彼女へと伸びる手を視界に捉えて――。
「ミルファ」
「スパーダ……?」
「行こうぜ。お前には悪いけど、無理だ。これ以上は」
乱暴に掴まれそうになったミルファの華奢な手首をスパーダの手が掴む。
話は通じない。オレが耐えられない。そういう意味を含んだ静かな言葉に、ミルファは言葉を失った。もうだめなんだという絶望にも似た感情と、もう頑張らなくてもいいという救いを感じてしまった自分に悲しくなる。
旅でも学んだことだ。どうしたって相容れないものはある。けれど、自分はずっと寂しさと苦痛に耐えて来た。親の願いという絶対的に反発を許されなかったものに立ち向かった。だから、もう、いいのかな? そう思いたくて、許されたくて、愛されたかった。ずっと堪えてきた願いたちが涙となりアスファルトを濡らしていく。
途端、先ほどとは違い、ギイと控えめに門が鳴った。――ミルファの母親だ。いつものように髪は整えられておらず、急いで出て来たのが分かる。娘の姿を視界に捉えて一瞬安堵した表情を見せたが、今の状況を察するとどうしていいのか分からず気まずそうに瞳を伏せるだけだった。
「スパーダ君、どういうつもりだね? 親子の話に割って入るなんて――」
親子などと、どの口がほざくのかとスパーダは嘲笑しそうになる。だって、今までずっと親の所有物のように扱ってきたくせに。ミルファがどう思っているかなんて考えもしなかったくせに。名を馳せることしか頭にないくせに。そう言ってやりたいが、我慢する。話しても無駄だからだ。
言っても聞かない目の前の少年と娘に苛立ちを隠せない男は、ぐあっと再び手を伸ばすが、スパーダがぐいとミルファを引き寄せたのでやはり叶わなかった。虚仮にされていると頭が沸騰しそうになりながら少年を睨み上げるが、彼の眼は娘のように怯えることもなく、その灰色に心無い男を映している。
「ミルファのこれからの人生、あんたの好きにさせたりしない。そんなこと許すくらいなら、オレがコイツの人生貰います」
揺らぎのないまっすぐな言葉に、その場に居る誰もが言葉を奪われる。当のスパーダは至って冷静で、誤魔化すこともしない。この場を去ろうとするスパーダに再度手を引かれたミルファはつんのめきそうになるが、おぼつかない足を動かしながら彼について行く。
背中の方で、父親の怒号が飛んで来ているのが分かる。母親が懸命に諌めているのが分かる。けれど、目の前の幼馴染の真意が分からなくて、言葉のままに受け取ってはいけないと必死に自分を律した。
「ま、待って……待ってちょうだい!」
「……!? お母様……」
長いドレススカートをはためかせながら走り寄る母の姿に目を丸くする。この人も何か文句を言いたいのだろうな、と消沈する思いを隠せなくて、ミルファは俯いた。
お腹を痛めて産んでくれたのに期待に答えられなくてごめんなさい。自分から言える言葉を探していると、ミルファの母親は乱れる息を整えて大きく息を吐くと、頭を下げた。
「……ミルファ、ごめんなさい。私、間違えていたわ……」
「……え、あ……の、おかあさま……?」
母親は語った。子供は良い家に嫁ぎ、お金に不自由しない生活を送れるのが一番良いと思って来た、と。だから厳しい教育方針を良しとしてしまったのだと。ミルファの兄達も出世し、真っ当に生きている――だから間違っていないと思ってしまった。娘が生まれてもそれは変わらず、むしろ政略結婚のためにと男である兄達よりもなんでも出来るように教育してきたのだという。
しかし、少しずつ綻びが生じた。適応法で捕まったと聞いたとき、いつまでも戻って来ない娘を思ったとき――本当は嫌だったのではと、自分の中に微かに残っていたであろう母としての心が訴えかけた。寂しそうに俯く娘の姿を見て見ぬ振りをしたとき、決定的に間違えた――取り返しのつかないことをしたのだと。
「償っても償い切れないのは分かってる。でも、どうか……謝らせて。ごめんなさい……」
いまさら何を、という気持ちはないとは言えなかった。けれど、許してと母が泣いている。それを見て、なんとも思わないわけがなくて。
「わたしは……ただ、お父様とお母様に愛されたかった。わたしを見て欲しかったの」
不自由しない生活を送るよりも、勉強なんかよりも、両親のぬくもりが欲しかった。他の家の子供みたいに、絵本を読んで欲しかった。抱き上げて欲しかった。寂しくて眠れない夜は、隣に居て欲しかった。
あの頃の思いを満たして取り返すことなんて到底無理だと分かる。けれど、遅過ぎることはないと、悔いてやり直したいと思っている人の手を払い除けることは間違いだとミルファは思っている。
スパーダは甘すぎるミルファの思いを理解すると、手首から手を放してそっと背中を押す。
(……きみはいつも、わたしに勇気をくれるね)
ありがとうと微笑んだミルファは、肩を震わせる母親に近付いてそっと身を寄せた。互いにかける言葉が見つからず、ただ寄り添い合う。
本当は大好き、だなんて感動的なフィナーレを飾る舞台演劇のようなことは言えない。だけど、ただただ母の思いが嬉しい。涙ぐんだ母親が自分の背中におずおずと手を回してくれた、それだけでミルファには充分だった。
どちらからともなく身体を離すと、母と娘は不器用に微笑みを向け合う。
虫のいい話だとは思っているが……と、これからの人生の手助けだけでもさせて欲しいと申し出られてミルファは目を瞬かせた。父への説得も自分がするから、もう無理をしなくていい。そう言われたが、ミルファは首を振った。母が自分の肩代わりをするのは違う、と。
今すぐには無理でも、立ち向かうべきだと思ったミルファはぎゅっと手に力を込めてみる。震えず戦えるように。
「でも、ミルファ。私があなたに出来ることは、したいの。無理に家を出たりしなくていいのよ。家がないと、困るでしょう……」
確かにそうだ。旅の中で得たお金があるにはあるが、それでもずっと宿に泊まるなんて現実的ではない。スパーダとの秘密基地で寝泊まりしようにも、まだエルマーナたちが使っているだろうし、それに――彼も家に帰らないとしたら、そのときは一緒に眠ることになる。あの狭い部屋で。そんなことになったらと思うと、ミルファは息が出来なくなる想いだった。
母の気遣いをありがたく受け取り礼を伝えると、彼女はスパーダへ向き直って深々と頭を下げる。
「スパーダ君、ありがとう。あなたはミルファのことをずっと守ってくれていたのよね……」
「あ〜……いえ、オレはオレのしたいことをしてただけですから」
敵視していた相手から感謝を伝えられ、どうしたらいいか分からず頭を掻くスパーダ。別に自分が許さずともミルファがこれでいいと思っていて、且つ彼女の安全が保障されるならとやかく言うこともないかと決める。
それでもありがとう、と頭を下げるミルファの母親の姿に、やっぱり親子なのだと思わざるを得なかった。
「あの……よかったら、これからもミルファと仲良くしてあげてちょうだいね……」
「当たり前です。ミルファはオレの大事な人ですから」
きっぱりと言い切るスパーダに親子はぱちくりと面食らうが、母親は安心した笑みを浮かべると屋敷の方へと踵を返した。自由に生きてちょうだいね、という言葉を残して。
母親の背中を見送りながらミルファの心はざわついていた。思ってもいなかった母親との会話を嬉しく思っているけれど、スパーダの言葉が頭から離れてくれない。
(人生を貰うって、なに? 大切な人って、なに?)
深い意味なんてないに決まっているのに。幼馴染としてそう言ってるだけだって分かってるのに。自覚した想いはどうしたって彼に想われたいという欲に厚い顔を覗かせてくる。いやだ、わたしは。これ以上を望みたくない。望んじゃいけない。
ドクンドクンと大きく鳴る心臓のせいで呼吸の仕方がわからなくなりそうで、いつもどうやって接していたか脳の引き出しを必死に引っ張り出していく。
少しの静寂を破ったのはミルファの声だった。
「っあの、スパーダ。さっきの言葉……ありがとう……」
「ああ。別に思ったこと言っただけ――」
「でも、でもね!」
スパーダの言葉を遮って、ミルファは震える唇を一度きゅっと引き結んで言葉を紡ぐ。
「だめだよ、あんなこと言っちゃ……。人生、なんて……そんなの、ちゃんと好きな人にしか言っちゃ、だめなんだよ」
「……ミルファ」
恋をしたのが、好きになったはじめての人がスパーダで良かった。きっと自分の人生で最初から最後まで彼が自分の一番だと確信すらあるほどに、スパーダはミルファにとってかけがえのない人だ。
傍に居られたらそれでいい。奇跡なんて要らない。幼馴染の関係を壊したくない。だからこのままでいい。
壊れたら、もう傍には居られなくなる。その恐怖に勝るものなど今のミルファにはなかった。
「スパーダがわたしのこと大事に思ってくれてるの、わかるよ。わたしもスパーダが大切だから……でも、だからこそ……っ」
「ミルファ」
「わ、わたし! スパーダの人生の邪魔になりたくないの……っ」
「ミルファ、」
名前を呼ばれるだけで、聞けよ、と言っているのが分かる。それほどたくさんの時間を一緒に過ごして来た。だから、責任感が強く有言実行を信条とするスパーダなら、“人生を貰う”と言ったならそれを全うしようとするというのも分かる。きっと、自分の夢すら手放して。そんなこと絶対にして欲しくない。
口を止めたらいけない。納得してもらわないといけない。止めないで。否定しないで。その想いから矢継ぎ早に出て来るミルファの言葉。
それに、このままじゃきっと、良くない。わたしはつけ上がってしまう。ずっと一緒に居たいから、離れたくないから、期待させないで。わたしのわがままを、引き出さないで……。
「邪魔なんかじゃねぇよ」
わかった。そう言ってくれるのを願っていたのに、また自分に都合の良い言葉が聞こえてきて、受け入れたらだめだとミルファは首を横に振る。何度も、何度も。
華奢な肩をぐっと強く掴んでも顔を上げずにいるミルファを前にして、スパーダは歯痒い思いに苛まれる。
「オレは、お前に隣に居て欲しいんだよ……! なんで分かんねェんだよ!」
「すぱ……、」
「オレは守りたいんだよ、お前のこと。お前がいる世界ごと!」
あのとき、マティウスの刃に切り裂かれたミルファの姿が体中に刻まれて焼き付いて、恐怖がこびりついて離れてくれない。冷たくなっていく赤の海の中、無力感と共に未来が閉ざされていくように感じた。必死に自分を奮い立たせても、この世で一番大切な人を失う恐れを消すなんて不可能だ。
もう二度とあんな思いをしないために、彼女をあんな目に遭わせないために、強くなって未来に進みたい。幼馴染の関係が壊れてしまうかもしれないなんて、もう恐れない。
「約束の話、今言うわ」
「え……」
「……オレにとってのお前は、ずっと特別だ。大切な幼馴染で、好きな、女なんだよ。好きだ。ずっと、ずっと昔から」
静かに、だけど確かに。スパーダは誤魔化すことなく自分の想いを口にする。
ルビーレッドの瞳を瞬かせるミルファをまっすぐに見詰めて。
「これまでと同じでいいから、オレの隣から、居なくなるな」
ミルファの頭の中でスパーダの言葉が何度も何度も繰り返される。きちんと理解しようと思ってる。思っている、のに。まっすぐに自分を映すその灰色の瞳からも気持ちを伝えられてる気がして、彼の想いが体いっぱいに注ぎ込まれていくような感覚に溺れる。
スパーダと同じ気持ちだなんて、ずっと好きでいてくれていたなんて、と喜ぶ心とは裏腹に、彼の優しさに胸が締め付けられそうになる。自分の想いを伝えるのはとてつもない勇気が必要なことなのに、そんなときでも相手の不安を感じ取り、幼馴染の関係のままでいいと言ってくれる彼の胸中だって不安なはずなのに。
ごめんね、スパーダ。いつも守ってくれて、甘えてしまって。苦しめて。
ごめんね。きっとまたスパーダが危険な目に遭っていたら同じように守ろうとしてしまう。
自分もスパーダを守りたいから、守られてばかりじゃ嫌だから。傷付けるのを分かってて酷いと思うけれど、でも、それでもミルファは、スパーダと生きたいと願いたくなる。
わたしも、ひとりで生きられるように強くなるから。スパーダの帰ってくる場所になるから。だから、臆病も建前も、脱ぎ捨てて、いいですか?
ミルファは、目の前の彼の元へ飛び込むようにしがみつく。勢いが余り過ぎてスパーダは体勢を崩したが、咄嗟に腕の中にある小さな体を支えて一緒に倒れ込んだ。
「ミルファ、どうし――」
「スパーダの言葉に、頷いてもいい……?」
昔と違う、逞しく大きくなったスパーダを感じながら願う。
スパーダが幼馴染としても特別な想い人としてミルファを好きだと言ってくれたように、彼女もまた、彼をどちらの意味でも好きで、これからも一緒に居たいのだ。
隣から居なくなるなと言ってくれる彼の望みに、自分の望みも重ねたい。その想いをぽつりぽつりと口にする。
「ずっと、スパーダの隣に居たいの……」
「ミルファ、」
「……あ、のね。わたしも……好き……。わたしのいちばん大切な人は、好きな人は、スパーダだよ……」
口にした瞬間、心にため込んでいた想いが解放されたように軽くなった。スパーダの首に回した腕に少し力を込めて、彼にすり寄る。ドキドキと高鳴る心音が重なり合って安心したことでこぼれたやわらかい涙がぽろぽろと頬を伝っていく。
スパーダの服が濡れてしまうことも頭になく胸に顔を埋めて泣き続けるミルファを、彼はそっと抱き締めた。夢のようだけど夢なんかじゃない。現実だと信じたくて、決して幻ではないと思いたくて。
どこの馬の骨とも知れない奴との仲を、自分の与り知らないところで深めていくなんて心配しなくてもいい。彼女の隣に立つのは自分で、彼女に触れていいと聞けるのも、自分だけだ。そして、何より。これまでのようにミルファを大事に想い、気持ちを押し殺さず傍に居られる。それが嬉しくて――スパーダはおもむろに菫の髪に指をかけた。
スパーダの指先に気が付いたミルファはふわりと微笑むと、嬉しそうに黒いレースグローブの指先を赤い手袋から延びる肌に触れる。そうなればもう、火が付いたように膨れ上がる想いを止められなくて。
ミルファの後頭部にするりと手を滑らせたかと思うと、空いていた方の手が頬に添えられて、翡翠と菫がさらりと重なった。
突然のキスに驚くミルファは目を丸くさせるが、嫌だなんて少しも思わなかった。触れ合う唇が柔らかくて、暖かくて、確かにここにあると感じさせてくれる。幸福に満たされて、溢れてこぼれそうになり、また涙が目尻に滲んだ。
そっと唇が離して見詰め合う中、ああやってしまったとスパーダは項垂れた。がっついてるとかそういうことが目当てだとか少しでも思われたくないのに、感情のままに動いてしまった。本当はもっと、こう――何度かデートを重ねてから、せめてしていいか確認取ってからするもんだろ! と思うが後の祭りで、ミルファの前ではプランも何もなくなってしまうんだと思う。そんなもの、最初からなかったのだが。
悪い、と言うスパーダにミルファはううんと言い首を振った。スパーダだからいいよ、などと言われ、かぁっと喜びに身体が熱くなるのが分かる。そんなスパーダの様子に気付かないまま、ミルファはぎゅうと再び抱き着いた。
「ありがとう、スパーダ。わたしのこと、好きになってくれて。いつも一緒に居てくれて。守ってくれて。勇気をくれて……」
「ああ。……オレも、ありがとな」
「ね、スパーダ……これからもよろしくね」
「へへ、当たり前だろ」
改めて交わされる約束に笑い合うふたりだったが、突如スパーダが頬を掻くのでミルファが首を傾げる。すると、「もっかいしてもいいか?」と尋ねられたので、なんだか可愛いなとミルファがくすくす笑ってしまったものだからスパーダはぐぬぬと悔しくなる。
「ずいぶん余裕じゃねーのミルファ」
「そ、そんなことないよ! 息とかどうしたらいいか分からないし、スパーダがすっごく近くて恥ずかしいし……」
「そ、そうかよ……」
いじらしくて可愛らしいミルファの様子にスパーダは胸がきゅんと高鳴るのを感じた。この姿を見れるのは自分だけなんだ、自分だけに許されることなんだ。そう思うと調子に乗ってしまうのも当たり前だろ、と誰に言うでもなく踏ん反り返りそうになる。
「そんなの、これから慣れていけばいいだろ」
「う、うん……?」
「つーことで、二回目な」
「え? ま、待ってスパ、……っん、」
心の準備が出来てないと慌てるミルファの静止を却下するかのようにスパーダは指を絡める。彼の端正な顔立ちが近付いて来て、格好良すぎるとかそんなことしか考えられない彼女の唇に、少しだけかさついた唇が重ねられた。さっきよりも少し深く密接に重ねられ何度も角度を変えられてこすれるものだから、ミルファは目が回りそうになる。けれど、これからこうして大切なスパーダと特別を重ね合える喜びに心は穏やかに喜び高鳴っているのも確かで。幸せでどうにかなってしまいそうだと思ったとき、恋愛小説のヒロインの気持ちがやっと分かったような気がした。