52.夢へ向かって
ずっと忌み嫌っていた、ベルフォルマ家。門も扉も大袈裟なほどに大きい屋敷をスパーダはくぐる。
ここには自分の居場所じゃない。こんな場所に居てたまるか。そう思って勢いのままに家出をしてここに帰らなくなってから、もう数年。我が家だなんて暖かなものではなく、まるで敵の根城のようにすら感じられる場に乗り込むくらいの気概で立ち向かう。
ハルトマンとは違う新しく雇われた執事に出迎えられる。正直顔もはっきり覚えていなかったが、ようやくお帰りになられたのですね、なんて言われ、スパーダはきっぱりとそういうわけじゃないと返す。
屋敷に足を踏み入れたのは、筋を通すためだ。家出少年のままでは良くないということは分かり切っている。だから、突っ撥ねるだけでなく、目を逸らさず、逃げずに向き合って自分の選ぶ道を叩き付けてやるんだと心に決めてここに来た。
強い決意を宿した灰眼を目にした執事はただ事ではないと感じ取ったのか、父親を呼んでくると言い足早に去っていく。
通された大広間。どかり、とこれまた大袈裟な装飾の椅子に腰掛けた。緊張と意気込みで少し強張った自分に落ち着けと制するように深く息を吐く。まともに話すことも少なかった父との対談。幸い、兄達は屋敷に居ないようだったので横槍を入れられる心配もない。……まあ、自分が家を出るというのなら止める理由はないだろうが、念のためだ。
ギイ、と扉が開かれる音に視線を向けると、父親が立っていた。相変わらず何を考えているのか、表情を一切崩すこともなく。
「帰ったか、スパーダ」
「……ああ」
こちらに興味があるのかないのか、全く読めない。別に泣かれても怒られても面倒だからこれで構わないが、父親の様子にスパーダは予想通り過ぎると心の中で悪態を吐いた。
父親は対面する席に座ると、机に両肘を立てて手を組み、スパーダを定めるためにじいと見据えてくる。品定めするようなその目が嫌なんだと思ったが、自分は文句を言うためにここに来たわけではないと目標を正すと姿勢を正して向き合った。
「オレは、自分に誇りを持てる仕事をする。騎士になれなくても、自分に誇りを持てる仕事を」
末男には分配できる領地も地位もない、だからお前は騎士になれない――そう宣告されてから、スパーダは諦め切れない歯痒さと現実を感じながらもがいた。剣の腕に嫉妬した兄達に非人道的なことをされようとも、やり返しはしなかったし、剣の鍛錬も士道訓の復唱も欠かすことはなかった。それほどに諦め切れなくて、熱を持て余していたのだ。
人を守る仕事がしたい。守りたい人ごと世界を守りたい。それはスパーダが旅をする中で、仲間たちと絆を育み語らう中で見つけられた自分の進みたい道。
スパーダの決意を聞いた父親は深く息を吐く。落胆でも安堵でもなく、ただ、そうかと事実を受け止めるように。
「具体的にどうするかは考えているか?」
「海軍にいる兄貴に手紙出す。んで、海軍に入れてもらうつもりだ」
反抗意識から光の差さない道を進もうとするスパーダが、無計画でなく自分で考えて堅実に道を作り進もうとしている。それに対して、父親としては何を今更などと思うはずもなかった。将来の道が閉ざされていると言った手前、政略結婚のために嫁を貰うなどという道を示すしか出来ないので、具体的な“しゃんとしろ”という叱咤激励も兄達の嫉妬を買う行動も辞めろとは言えない。兄達が末男を消そうとしていることを知ったときは「自分の品位を下げるようなことをするな」と叱責をしていたようだが。
父親の助けを必要とせずとも前に進む息子の成長に、自分への少しの後悔と将来の姿への期待が重なる。……やれるところまでやってみるといい。そんな風に今さら父親面するべきではないと考えた男は、ただ目を伏せた。
……とはいえ、文字書きくらいは出来た方がいい。学校へ最終学年まで通わないのかと問うが、スパーダは行くつもりはさらさらないと答える。
士道訓以外の勉強も読書も全て放り投げて来た、あのスパーダが。と父は目を丸くした。本気を感じ取った父親は確信しながらも少し踏み込んだことを訊ねた。
「お前をそこまで変えたのは、フィオリーゼの娘か?」
「……あいつだけじゃねェよ。仲間が居たからだ」
「……そうか。中途半端は許さん。兄たちと同じように隊長を務めるぐらいにはなって貰わんとベルフォルマ家の恥だからな」
「ハッ。ンなもん、すぐにでもなってやらァ」
絶対一泡吹かせてやる! と言い出ていく息子の背中を、扉が閉まる少しの時間だけ見送った。スパーダの父は書斎から窓の外を見やり、屋敷を後にするスパーダを一目見て口元に笑みを浮かべる――楽しみにしている、と。
垣間見せた父親としての顔はすぐに鳴りを潜め、彼はいつものように王都を守る楯としての仕事に戻って行った。
「……なんか、拍子抜けだな」
もっと頭から否定されたり、馬鹿にされたりして喧嘩になったり、剣を交えるくらいはするだろうと想像していたのに。
初めて向けられた父からの期待は、それほど不快ではなかった。騎士になれないという現実、兄たちからの過度な嫌がらせ、自分の味方は屋敷のどこにも居ないという虚無感――全て投げ捨てる思いで家出をした。幼い頃からずっと、ハルトマンとミルファ以外は自分を見ないのだと思っていたが、父はもしかしたら息子が自分から真っ当な夢に向かっていくのを待って居たのだろうかとスパーダはそんなことを柄にもなく考える。
今さら親子の絆が欲しい訳ではなかったが、自分が出世した暁には報告に来るくらいはしてもいいかと気の早い未来に思いを馳せ、足取り軽やかに街中へ踏み出す。
◇
「じゃあ、お父さんと話できたんだ」
「ん……まぁな」
人々が行き交い、鳥が街並みを彩るタイルの上を飛び歩く。少し前まで本当に戦争があったのかというほど和やかで、陳腐かもしれないが平和という言葉がそぐう。
レグヌムの住民地区、広場の一角。ベンチの上には少年ふたりの影。カリ、カリ、とペン先が紙をかく音が続く。
旅の終わり、近い内に会おうと交し合ったスパーダとルカは今まさに、手紙の書き方を教えるという約束を果たしていた。
海軍士官の手紙だが、一応は家族である兄へ送るものだ。ルカは丁寧に手紙の書き方を教える。頭語に“拝啓”を置き、結語を決めて時候の挨拶を入れ、本文は堅苦し過ぎなくてもいい、と。ルカの少しぎこちなく下手な字の手本と便箋とを何度も行ったり来たりしながら拙くも懸命に手紙を完成させていく。
敬具と名前を書き切ったあと、便箋を空にかざした。
「完成した?」
「ああ。サンキュ、ルカ」
慣れないことはするもんじゃないなと笑いながら封筒に自分の決意の証を入れて封をすると、郵便局まで行き手紙を託す。速達で、なるべく早く、と言われた職員は困り果てていたが。
海軍士官である兄が本当に手紙を読んでくれるか、果たして自分を受け入れてくれるか、分からない。それでも夢に向かっての一歩を進めたような気がしてスパーダは晴れやかな気持ちだった。
すっかり威圧感のなくなった城下町を特に目的もなく歩くふたり。自分たちが戦い取り戻した、平和な世界を噛み締めるように。誰も、彼らが壮絶な戦いを潜り抜けてきたことなど知る由もない。
「せっかく平和になったのに、スパーダは学校行かずにまた戦いへ飛び込むんだね」
「学校なんか籍置いてただけだからな、なんの未練もねェし」
「ミルファと離れてでも、やりたいことなんだもんね」
「一生離れるわけじゃねーしな」
戦争がなくなっても、敵が居なくなるわけではない。海賊や密輸などの悪事まで消えることはないだろう。そういう悪をぶっ飛ばすのが自分に一番合っているとスパーダは笑った。
実技試験や長い見習い期間を経て、ようやく入隊となり、現地に投入される。“人を守る仕事に就く”――それがどんなに難しいことでも、時間がかかっても、自分の成し遂げたい新たな目標に変わりない。ならば挑戦するに決まってる。そう語るスパーダにルカは格好いいなと羨望のまなざしを向けた。
ルカは、結局自分は夢を決め切れていないと項垂れる。医者になりたい夢も、父親の期待に応えたい望みも、どちらかをまだ選べなくて、踏みとどまっていた。
「お前の気持ちはもう決まってんじゃねェの?」
「えっ?」
「グリゴリの里で話したときとかよォ、楽しそうに話してたのは医者になりたいって言ってたときだっただろ。誰が見ても分かるぜ」
自分が自分の気持ちに一番気付くのが遅いだなんて、と恥ずかしくなるルカ。そこでふと、別れの際にイリアが掛けてくれた言葉を思い出す。
「イリアがさ、言ってくれたんだ。立派な医者になってねって……。それってつまり、イリアにもバレてたってことなんだね」
「ま、そうだろうな」
みんな、分かっていて見守ってくれて、イリアは背中を押してくれた。それならばもう、迷うことはないなとルカは心が軽くなるような思いだったが、自分の気持ちをあの厳格な父に伝えなければいけないということなのかと察して胃が痛くなる。
母はきっと自分の意見を尊重してくれるけれど、父はどうだろうか。信じて帰りを待ってくれていた父も、いざ帰った時に笑ってくれた父も、普段は見えていなかった一面だ。けれど、あの暖かさを知ったとはいえ、全てを急に変えられるほどルカは柔軟ではないのである。それでも伝えなければ。自分もみんなのように前に進めない――ルカはぐっと拳を握りしめた。
「……で?」
「うん?」
「お前から言ってくんの待ってたけど、イリアとはどうなったんだよ? ちゃんと告ったのか?」
「……う……」
情けない出来事を思い出し、ルカはまた旅をし始めた頃のようにしおしおと背を丸める。
「い、言わせても貰えなかったんだよ……」
「あ? どういうこったよ」
旅の終わり、仲間と別れたあの日。ふたりきり(コーダは居たが)になったあとルカはイリアに自分の想いを伝えようとした。このまま何も言わずに別れたのでは後悔が残るから、少しでも繋がりを途絶えさせたくなくて、決死の思いで、君のことが好きです、と。しかしそれは「また今度にして! 今聞いても夢に集中できないだろうし」とイリアに遮られてしまったのである。
ずん……と肩を落とすルカに、スパーダは同情した。自分もミルファに言わせまいとされていたようなものだったが、ルカには自分のような押しの強さはないので言えなかったとしても仕方ないのだろうなと。
「でもよォ、それってオーケー貰ったようなもんじゃね? お前が言いたいことをアイツが察して、また今度って言ったんだろ? 確定だと思うけどな」
「そう……なのかなぁ」
スパーダの言葉に顔を上げたルカの瞳は少しだけ希望が宿っていた。
また今度と言ったなら、決意が固まったときに会いに行ってもいいんじゃないかとスパーダが提案してやると、ルカは力強く頷く。自分もスパーダのように、夢に向かって歩き出したいと新たな決意を胸に抱きながら。
「スパーダは、ど、どうだったの?」
「お、オレはそりゃばっちり決めてやったさ! バシッと男前にな!」
「……大袈裟に主張するのが逆に怪しいよ、スパーダ」
「ンだとォ!? ルカてめえ〜〜!」
ガッと首に腕を回したり頭をぐりぐりされたり。ぎゃあぎゃあとじゃれ合うふたり。嫌じゃない、痛くない、心地よい感覚に声を出して笑い合う。
ずっと旅の中で背中を押してくれたり支えてくれたふたりが好き合うことになって、ルカの心は自分のことのように嬉しくて弾んでいた。僕が一番最初に報告してもらえたのかな、と少しの自惚れと共に。
「あ……もうこんな時間だ。帰らなきゃ」
街中にある広い公園の時計が夕飯の時刻を差していることに気付いたルカは、少し寂しそうに眉を下げる。
明日から学校に行かなければいけないし、休日も今までの遅れを取り戻すために勉強に励まなければならない。医者を目指すためにも。だから、今日のように好きな時間にスパーダと会えるとは限らない。それが酷く残念でならなかった。
またね、と言えないルカにスパーダはいつものように歯を見せて笑うと、「また報告に来てやる」と言い手を振って貴族街の方へ足を向ける。相変わらず後腐れのない様子だった彼だが、「あ」と声を出すとルカを振り返った。
「海軍行ったらさ、お前に手紙出してやるよ」
「……! う、うん! 僕も出すよ。絶対に!」
「ありがとな、ルカ。お前は俺の親友だ」
初めて出会ったときは、気弱でうじうじとしていて気が合わないと思っていた、ルカという年下の少年。前世の縁のある間柄だったがそんなことは関係なかった。共に旅する仲間として、友人として長く接してきた彼は、自分にとって初めて背中を任せ合える戦友でもあって。もう、かけがえのない友――親友となっていた。
別に恩着せがましく、お前もオレを親友だと思えよと言いたくて言ったわけではなかった。ただ、言いたくて。伝えられるときに伝えたくて。スパーダはまっすぐに揺らぎなく、敬意すら込めて心を口にしたのだ。
――ルカは、人生で出来た初めての親友の存在に瞳が潤む。心も背中も大きくて憧れた彼が自分を最高の友だと言ってくれた、その事実が嬉しくて、自分がすごい人間になれたかのようにすら思った。
「ありがとう、スパーダ。僕の、し、親友……」
「そこで照れんなよ!」
ぶは、と吹き出すかのように笑ったスパーダは、今度こそ夕焼けの中に消えていく。その背中を見送ると、ルカは好物であるチーズスープの香りを漂う我が家に足取り軽やかに帰って行くのだった。
◇
太陽と月が何度も巡り、季節が変わって少し寒くなった頃。すっかり貿易や船の運航が盛んとなったレグヌムの港で船の汽笛がぼうぼうと鳴る。
――今日は、スパーダの旅立ちの日だ。
手紙を送ってから数週間後、海軍士官であるスパーダの兄から「自分の力でやってみろ」という、応援なのか挑発なのか分からない返事があった。海軍に入るための手続きを済ませてくれたということで、この度無事に夢の入り口に立つことが出来るようになったのだ。
少し離れた場所から、スパーダと彼の見送りに来た下町の友人たちの様子を見守りながらミルファは思う。
彼の手にある大きな鞄から、乱雑に詰め込まれた長旅のための荷物が溢れ返りそうになっている。それらが必要になるほど、遠く長く離れた場所に行ってしまうんだと改めて実感して、覚悟していたはずの寂しさがミルファの胸を締め付けた。
肩を落としそうになるミルファの元にスパーダが戻って来たのでどうしたのかと首を傾げると「彼女のとこ行けって言われた」と笑った。少しの気恥ずかしさを携えたままミルファはもじりと微笑む。幼馴染だけでなく新たに加わった“彼女”や“恋人”という肩書き。くすぐったくて特別なそれに、いつか、慣れるのだろうかと思いながら。
「ルカくん、学校だから来られないって残念そうにしてたよ。テストなんだって」
「うげ、テストかよ……大変だよなぁ、ルカちゃまは」
「ハルトマンさんとの挨拶は……良かったの?」
「手紙だけ出しといた。日取り教えたら来ちまいそうだからな……体力的にも、あんま無理して欲しくねーし」
夢のため勉学に励むルカと、隠棲中で本職を退いたハルトマン。ふたりは見送りには来ていないが、スパーダは特に気にしていなかった。また帰って来たときでも、自分が次のステップに進んでからでもいい。何も永遠の別れというわけではないのだから、と。
隣に立つスパーダの信じ揺らぐことのない瞳を盗み見て、わたしももっともっと頑張らなくちゃとミルファは意識を高める。隣に並んでも恥ずかしくないように、足並みを揃えて歩いていけるように。
「わたしね、入学テストも受けて特別に貴族学校に入れて貰えることになったの。通うのはもう少し先なんだけどね」
看護師になって、人を助けたい。人を助けられるようになりたい。そのためには看護学校に通う必要があるので、最低限、高等学校は出ておかなければならないのである。
母親が貴族学校に連絡をしてくれたりと取り持ってくれたお陰といえるが、あの日からまだ顔を合わせていない父親もむきになって阻止をしてこない辺り、反対はしていないのだろうから、ミルファは両親のお陰なのだと前向きに捉えていた。――彼女が、母親の決死の説得や自分で生きようとする娘の姿が父親の心に響いていることを知るのはもっと先になりそうだ。
「少しずつ、夢に向かって頑張るよ。スパーダに負けないように」
ルビーレッドのきらめきがスパーダを見詰める。眩い瞳に吸い込まれるように、彼はぎゅうとミルファの小さな体を抱き締めた。突然のことに目を丸くして顔を赤らめる彼女の様子に、ああ可愛いなと胸がきゅんと高鳴るのを感じると同時に少し不安になる。
優しくて、人懐こくて、愛らしくて。周りを照らす明かりのようなミルファ。己の魅力に気付いていない純粋さは好きなところのひとつでもあるが、それゆえの隙が大きくて、きっと学校へ行くようになったら人の目に留まることも増えるだろうし、誰も放っておかないんだろうなと想像してしまう。厳密にいえば、誰かに盗られるという風な、ミルファを信用していない不安ではなく、大多数の欲が彼女に向けられるであろう不快感。
ああ、虫除けにアクセサリーでも贈ればよかった。そう思ったとき、スパーダははたと気が付く。
「……お前さ、髪飾り持ってる? オレがやったやつ」
「え? えと、もちろん持ってるよ?」
「貸してくれ」
旅の途中、マムートで貰ったときからずっと肌身離さず持ち歩き続けたあの髪飾り。鈴蘭とモスグリーンのリボンがあしらわれたバレッタを出すと、スパーダがミルファの手からそっと掴み取ると、ぱちん、と結ばれた髪の結び目に取り付けられた。
そっと飾り付けられたバレッタに触れてみる。どうして今つけてくれたんだろうと彼の気持ちを知りたくて見上げてみれば、いいじゃんと満足そうにしつついつもと違う柔らかな彼の笑みが視界に飛び込んできて、ミルファの心臓はとくんと鳴った。
スパーダが似合うと思って選んでくれたもの。それを、彼の手に飾って貰えて嬉しいと思う気持ちがあふれて、ぱあっと花が咲くように微笑んだ。
「……前にも言ったけどよ」
「ん?」
「お前に会いに、ちゃんと帰ってくる。字ィ下手だけど手紙も書く。だから、さ……待っててくれよな」
スパーダの真摯な瞳に、ミルファは笑顔で答える。待ってるよ、と頷いて。
幼馴染であり、恋人でもある特別な人。あなたの帰る場所はここだよ。そう胸を張って言える。それがどれだけ恵まれてしあわせなことなんだろうと噛み締めながら。
彼が諦めないでくれたから、わたしの手を握って、わたしの心を引き出して、ずっと傍にいられる道に連れて行ってくれたから。
(ありがとうスパーダ……わたしと巡り会ってくれて。傍に居てくれて、好きになってくれて)
きっとこの先、何度だってそう思う。
笑顔でいたいのに、泣きたくなんかないのに。嬉しくて、幸せで、涙がこぼれる。
「ふは、やっぱ泣き虫は治ってねーな」
「だ、だって……」
涙を拭うための指先が頬に滑ったかと思うと、優しく唇が重ねられた。ちゅ、とふたりにしか聞こえないリップ音が届いて思わずびくりと身体が跳ねる。想いが通じ合った日以来の、人生で三度目のキスは、少ししょっぱかった。
赤らんだ顔のまま、ぽかんと目の前のスパーダと見詰め合っていると、少し離れたところから冷やかしの声やヒュウという音が上がる。そうだよ人前だよ! と思ったときにはもう遅い。港に居た一般人も、船守も、スパーダの友人たちもみんな見ていたのである。
ぶわわ、ともっと顔が赤くなる。羞恥ですっかり涙が引っ込んで慌てふためくミルファの様子にスパーダはククッと吹き出した。
ぽかぽかと胸を叩くミルファに、スパーダは言う。湿っぽいよりも笑顔の方がいい、と。
そうだよね、とニコリと笑顔を向け合ったとき、汽笛の音がまた響いた。音のする方を見遣れば、波を切る音と共に大きな船がレグヌム港へと近付いて来ていた。立派な装甲の施された船――これは、海軍の船だ。
ついに、本当についに、一時の別れの時が来た。でも。
「じゃ、行ってくる!」
「うん……! スパーダ、いってらっしゃい!」
寂しくない。だって、スパーダの夢への大きな一歩に立ち会えたのだから。
荷物を担いで船に乗り込むと、スパーダは見送りに来てくれたミルファや仲間たちに向かって大きく手を振り、白い歯を見せて大きな笑顔を見せてくれた。
やがて、出航する。ゆっくりと動き出した船を少しだけ、道が続く限り追いかけながら、ミルファは手を振り続けた。
「頑張ってね、スパーダ」
今まで、ずっと傍に居てくれたスパーダが隣に居ない――けれど、大丈夫。たとえ遠く離れたって、同じ世界の空の下に生きるわたしたちは、夢の先でまた再会できるのだから。
そう信じて、俯いたりせずそっと彼につけて貰った髪飾りに触れる。船の姿が見えなくなるまで見送ったミルファの髪を、風が見守り優しく揺らした。