07.消毒を済ませよう
はあ、はあ、と一心不乱に走り続け、なんとか追っ手が来ない所まで逃げ仰ることができたようで、醜悪な臭いが入り混じった戦場独特の臭いはもうしなくなっていた。周りを見渡すと西の戦場と同じように木々が茂る場所ではあったが、それだけでこうも安心するものなのか。
敵の元から離れられたのは勿論だが、兵力として使われることもこれでなくなるだろう。……それはまた適応法で捕まらなければの話ではあるのだが。
乱れた息を整えながら束の間の休息を取る。ハアーッとイリアが大袈裟に一際強く息を吐いた後、あの戦場での出来事は一体なんだったのかと不満の声を上げた。
ハスタという独特としか言い表しようのない男の在り方、不可解な行動などを思い出して悲鳴を上げながら自分の腕に浮かび上がった鳥肌を掻き毟るように上下に擦るイリア。ルカはそんな彼女に苦笑しつつ、自分の中にも存在している同等の恐れと不快感を追い出そうとする。
異質な道化師と僅かな時間であっても共に過ごしその狂気に触れてしまった当の本人であるミルファはハスタの話になってから再び恐怖に顔が青く塗られたように蒼ざめている。スパーダが隣に居る彼女を見やると、ハッとした後血の気のない顔で微笑み返した。普段ならともかく、今はそんな笑顔を見せられても騙されてやることはできない。笑顔の裏に悲惨な光景も映るようで、余計に痛々しく感じるだけで、スパーダは冷静を保とうとしていた顔を苦く歪ませた。
「ミルファ、首見せろ」
その一言がミルファに痛みを思い起こさせた。ビクリと身体を震わせて、今更あの噛み跡を手で隠す。そんなことに構わずスパーダは一歩近付くが、彼女はその詰められた距離の分後ろに下がる。手首をグッと掴んでそこから手を引き剥がすと、赤黒く鬱血した歯型がくっきりと白い首筋に彩られていた。
「……あ、だ、だいじょ、ぶ……だから」
「いいから」
「あ……う、うん……」
拠点で支給されていた包帯を取り出し、きつく締めすぎないように気をつけながら彼女の細い首に巻いていく。
(……ほんっと、お前は)
嘘が付けない不器用なところも彼女自身の性格から来るところで好ましく思っていたが、今はただただ苛立たしさを沸き起こさせるものでしかない。
何故オレに嘘を付くんだ。そんなに、そんなにも。オレは役に立たないのか? 震えている癖に、大丈夫じゃない癖に、どうして怖いと言わないんだ。いつもいつも辛いことを隠して、いつも笑顔で……なんでお前はそうなんだ。そんなだから、こうして痛みにも耐えようとするのか。モヤモヤとしたスパーダの黒い感情が脳にまとわりついていく。
スパーダには、あの時の彼女がただの餌のように捕食されそうになった獲物のように思えた。外の世界は安全な訳ではないと分かっていたが、それでも。他の男に、自分の目の前でこんな簡単に傷付けられるものなのかと思うと悔しくて腹立たしくて仕方ない。
つ、と傷痕に触れると、ミルファの身体が驚きと恐怖にビクッと跳ねた。ついさっき味わったあんな体験だ、忘れられる筈がない。それは分かっているが──。
(……ムカつく)
包帯を巻き終えたスパーダの指が動きを止めた。
あんな傷跡を間近で見られているという恥ずかしさや気まずさからただ俯いていたミルファは顔を上げる。
(嫌なもの見せてごめんねって、包帯ありがとうって言わなきゃ……)
未だに震えが治まらない唇から気持ちを伝えようとすると、巻かれた包帯越しに何か柔らかい物を感じた。それは──。
「……!? あ、あああの、すす、ス、スパーダっ!?」
「お前、焦りすぎ」
「だ、だってっ、今……」
突拍子の無さ過ぎる彼の行動に思考が追い付かない。いや、むしろ働くのを止めていると言ってもいい程にミルファは何も考えられなくなっていた。開いた口が魚のようにぱくぱくと塞がらない。体温も上昇していき、全身から火が吹き出そうな程だ。
(なんで、今のって……っ)
包帯越しとはいえ首筋に彼の唇が触れたのだ。どうしてという疑問と恥ずかしさに自分の意識が埋もれていく。
「ミルファ、顔赤いぜ?」
「そ、そんなこと……っ」
「ホントかよ?」
スパーダの顔を見ると、不敵に笑っていて。つまりそれは、偶然当たった訳ではなく、彼が自らの意志で、触れた。それを意味している。改めて認識すると、バクンと心臓が爆発したように跳ねた。
一体自分はどうしてしまったのだろう。病気かもしれないくらいに、顔が熱い。大きく速く脈打つ鼓動のせいだと思うと、スパーダに聞こえているんじゃないかとすごく恥ずかしくなったミルファはぎゅっと目を強く強く瞑った。
「行ってしまうの?」
鈴の鳴るような凛とした声がした。声の主はチトセ。ルカを心配してここまで追って来たようで、心配そうに眉を下げながら彼に近寄っている。
チトセの存在に気付いたスパーダはミルファの肩を掴んでいた手の力を緩め、解放した。冷たい水をかけられたかのように目が覚めた感覚に、自分が何をしていたのか思い返していく。
自分は大切な幼馴染に何をしてるんだ。守ると言ったのに他の男に触れさせて傷を付けさせてしまった自分に、彼女の傷痕が奴を忘れさせない痕になっていると思うと腹立たしくて仕方がなくて──その痕跡を消してやりたくなったのだとしても。自らを律することも出来ないなんて、どこまで未熟なのか。こんなことではいけない。
ちらりと横目でミルファを見ると、ぱちりと目が合う。彼女の無垢な瞳に見詰められて罰が悪そうに口を開き悪かったなと謝るが、もうやめてね、大丈夫、とか自分を気遣う返答をするんだろうなと考え、罰せられない自分に罪悪感を覚えた。
(分かってて言った訳じゃねェけど、それでも……)
避難されたい筈がない。否定されたくない。でも、それよりもミルファの嫌がることはしたくない。この優しい幼馴染が許しても自分は許さずにいよう。そう考えたスパーダの袖をくいくいとミルファが引き、何か言いたげにしている。どうした? と言葉を誘うと、もじもじとしながらにこりとはにかんだ。
「あのね、もう、怖くなくなったよ。おまじないみたいだね。ありがとう、スパーダ」
「! ……お、おう」
許すでも、呑み込む言葉でもなく、感謝を述べられ、スパーダの胸の内は少し軽くなり救われたような感覚に包まれる。
頬をほんのりと桜色に染めて安心したように微笑むミルファだったが、スパーダの胸中は穏やかではない。否定されなかった安心感と危機感がないことに対しての心配と──様々なものが渦巻いている。
男に、首筋とはいえキスされてありがとうだなんて。あんな醜い感情から触れたキスを、おまじないみたいだなんて。
(そんな綺麗で優しいモンじゃねェのに)
(わたしが怖がってたから、気を紛らわそうとしてくれたんだ……優しいなぁ)
真に恐ろしいのはこれが無自覚で繰り広げられているということだが。この二人は本当に──なんと焦ったいことだろう。ルカとチトセのやり取りを見ているのが嫌でスパーダとミルファを傍らで黙って見ていたイリアは強くそう思ったという。
「えっと、チトセさんも……一緒に……来る?」
ルカが遠慮がちにチトセちゃんをこの先の道へと誘う。その言葉がスパーダとミルファを二人だけの世界から連れ戻した。イリアが至極嫌そうにウゲッという声を上げ、嫌悪感を殊更露わにする。どこまでも自分に正直な娘である。
チトセは誘いを申し訳無さそうにごめんねと断った。彼女を本気で毛嫌いしているイリアは心底安心そうにし、それに反してスパーダはつまらないと口にし、ミルファは残念そうに眉を下げた。
チトセはアルカ教団に入団したので好き勝手に行動する訳にはいかないのだろう。教団の意向に従って行動しなければならないだろうし、仕方のないことだ。それでもルカにとって残念なのは確かで、その気持ちを口から溢し、軽率に誘ってごめんねと謝り返す。そんな彼を見てくすりと優しく微笑んだチトセはルカへと一歩距離を詰めて──ちゅっと頬にキスを落とした。
「はぁあああッッ!?」
「ほっぺとか、まだまだお子ちゃまだな」
「ひゃー……」
キスは物語で読んだことしかないので、頬へのものとはいえ、人様同士のキスを直に見てしまったミルファの胸はドキドキと驚いていた。
さっき自分も首筋にキスした──否、されたではないかと思い出して顔が再び熱を帯びていく。だが、物語のように胸の踊るものじゃない。スパーダからのアレは励ましのものでおまじないなんだからとミルファは自分の胸を抑えて言い聞かせる。
すー、はー。すー、はー。
落ち着かせるように深呼吸を繰り返している間に、チトセは西の戦場の方へと戻って行った。立ち去る彼女の背中をルカは時が止まったかのように立ち尽くして見詰めている。
挨拶をしようとするも、既にかなり遠い位置にいるので呼び止めるのもどうかと思い、ミルファの伸ばした手は行き場を失い宙を撫でた。
「またねって、言いそびれちゃった……」
「あ〜……コホン」
夢見心地なルカの気をこちらに呼び戻すため、スパーダはわざとらしく咳払いをした。ルカはハッとし、自分とチトセのやり取りを──彼女から頬にキスをされたところを見られていたと自覚したのだろう。慌てて否定するように自分の顔の前で手をぶんぶん振る。指の隙間から覗く顔は真っ赤に染まっていた。恐らく女性とのこういったスキンシップを経験するのは初めてなのだ。
「あ! ああああの! さっきのは多分その、きっと別れの挨拶みたいなもので……」
「オレは別になんでもいいんだがよ。そろそろ行こうぜ、追手が来たら元も子もねェし」
「うん、そうだね。逃げるなら今がチャンスだもの」
「おほほほほ、そうですわね〜! 参りましょう? ミルファさん、スパーダさん?」
あまりにも不自然で引き攣った笑顔に、他人行儀で余所余所しい嫌味を含んだ口調にミルファは目を丸くし、スパーダはやれやれと肩を竦めた。
イリアは明らかに機嫌を損ねている。それはルカが気に入らないからとかチトセが嫌いだからとかそんな単純な理由ではない。イリア本人もルカもミルファも、イリアの荷物用鞄に身を潜めたままのコーダも分からないそれに、スパーダは何となく気付いていた。ヤキモチというやつだ、と。
ギギギ、と錆びて動かし辛い金属同士が擦れるときのような音がしていると錯覚させるほどにぎこちなく首を捻り、チトセを追いかけても良いとイリアは歪に貼り付けた笑顔でルカに告げるが彼はただ困ったように微笑む。
さっきのキスに深い意味はないんだ。そのルカの言葉にブチリとイリアの細い我慢の系が切れた。
「そうよね! あんたとスパーダがやってたって何とも思わないわよね!」
「おい! 変な妄想にオレを巻き込むんじゃねェよ!!」
「さっきそこで甘々な雰囲気で余裕無さげに首にキスしてた奴のせいで感覚が狂ったのかもしれないですわねぇ〜!?」
「なッ、てめっ……イリア!」
蒸し返された上に自分の様子を第三者に冷静に観察されていたと思うと羞恥が沸き、ボッと火がついたように赤面するスパーダ。ミルファも同じ光景を思い出して熟れた赤い果実のように頬を火照らせる。違うよ、あれはおまじないなんだよ、と言おうとしたが、イリアはそんな彼女の手を取り逃げるように先へと走り出した。
後ろに居る男達に向かってベーッと舌を出して反抗の意を示したかと思うと、プイッとまた前を向いて止まる様子もなくどんどん姿を小さくしていく。
バタバタと走るイリアとミルファは次第に息を切らし始め、脚をゆっくりと止めていき、少し休憩しようというようにピタリと立ち止まった。
「あのさ、ミルファ」
「うん?」
名前を呼ばれてふと顔を覗き込むと、イリアは無理に笑っているように顔をほんの少し歪ませていた。辛そうな、不安そうな、悲しそうな──そんな表情にミルファは驚いて心配になり、どうしたの? と、少しでも気持ちが晴れるようにイリアの手をきゅっと握る。
「……戦場でさ、会う人会う人転生者で、ああいう風に豹変しちゃうの見て……嫌になっちゃうわよね」
「うん……そうだね……」
「それで、不安になってる時にあの女とルカの……見ちゃって」
イリアが混乱するのも無理もない。ルカが我を見失う程の強烈に歪な体験をし……否、それ以前に、イリアは一人で襲われている村から逃げ出てここまでやって来たのだ。気丈に振る舞って居るから気が付かなかったが、イリアは十五歳の少女だ。
ミルファは自分よりも二つも歳下の少女の不安な気持ちに触れて、自分は甘えてばかりだったと反省した。あんな経験をして、変貌した人たちを見て、自分もそうなるんじゃないかって怖いに決まっている。物凄く不安に決まっている。
(あたし、もうワケ分かんない……ヤダな)
自分が嫌い自分を嫌うチトセと、自分に少なからず好意的に接してくれるルカが男女の触れ合いをした。チトセから一方的にしたこととはいえルカが熱に浮かされたようになっているのを見て面白くないと思ったのだ。それで──溜め込んでいた感情が抑え切れずに仲間を傷付けるようなことを言ってしまった。
「ミルファにも嫌な思いさせちゃったよね、ごめん」
子供だけれど、だからといってこんな真似をして良い理由にはならない。人を巻き込んで、振り回して、挙句、傷付けるだなんて。そんな人間には絶対になりたくないのに。
イリアは分かっている。ルカが軽薄な人間ではないことも、スパーダの焦燥も、ミルファの恐怖も、理解出来ている。その筈なのに──。
(ああもう、いつまでもこんなんじゃダメよ!)
ごめんね、と今にも泣きそうな顔でいうものだから、ミルファは堪らずイリアに抱き付いていた。突然の行動に目を見開き驚いて思わず名前を呼んでどうしたのか訊ねてみると、物凄く優しい目でミルファに見詰められていて、ぽかんとしてしまう。
「大丈夫だよ、イリアちゃん。大丈夫だから」
何の根拠もないが自然に口から言葉が出てしまっていて、もし理由を問われてもきっとまともな答えを返せないなとミルファは苦笑する。ただ、少しでもイリアの中の不安が消えたらいいのにという一心だったのだ。
怒られるより先に言った方が良いかな? と思い、根拠はないけどねと伝えると、何よソレ! とプッと吹き出されてしまった。けれど少しでも笑顔になってくれて良かったと安心し、ミルファもにこりと微笑んだ。
イリアから照れ臭そうにありがとうと伝えられ、しばらく二人で手を繋いだままで居ると、やっとと言うべきか後ろからスパーダとルカが走って追い付いてきた。
「……遅い!」
「ご、ごめんね二人とも……!」
木々の覆う小さな森から出る前に小さな合流を果たし、全員で向き直る。……全員と言ってもコーダは荷物鞄の中で熟睡中なのだが。
とにかくこれからどうするのか、どこへ向かうのかと話し合いながら空がよく見える場所へ出たところでイリアが人差し指をピッと立てて一つ提案をした。
──“聖女”。そう呼ばれている人物が聖都ナーオスに居るという噂があるので、まずはその人を探すという提案だ。同じ転生者かも知れないし、イリアの旅の目的でもある、同じ転生者に話を聞いて回るというものにも繋がる。他に当ても無いしそれで良いだろうということで、ほぼ即決だった。
「じゃ、早速行くわよ! 聖都ナーオスへ!」
太陽の下で煌めく赤の髪と瞳に、ミルファは自然と頬が緩んでいく。イリアが元気になって良かった……すぐに全て今まで通り、元通りという訳にはいかないし、状況もそれを許してくれない。それをきっとイリアも分かっていて、その上で前を向いて進むことを選んだのだ。
(イリアちゃんはやっぱりすごいな。わたしも見習わなきゃ)
……自分が転生者なのか分からない。理不尽な傷みも、捕まって家に返されることも、戦場に送られることも怖いけれど。感傷に浸るのは簡単だが、そうしているだけじゃ駄目だ。
前に進むんだ、と改めて頑張ろうと意気込んで聖都へと向かっている中、ミルファは自分の身体に違和感を覚える。
「う……」
一歩一歩踏み締める度、だんだんと頭が痛くなっていくのだ。この感覚を忘れる筈がない。研究所で倒れる前と同じものだとすぐ分かった。前にも聴いた金属の不協和音が頭の中に響く。ミルファの意識を上書きして押し消していくようなその音に抗えず、意識が手を放れていくようだ。
隣を歩いていたスパーダが目敏くミルファの変化に気付き、名前を呼ぶ。覗き込んだ彼女の顔は血の気がすっかり失せ、おしろいでも塗ったのかというほどに白い。ふらふらと覚束ず今にも倒れそうな身体を倒さないように腕を引いて自分へともたれ掛けさせた。
「お前、すげぇ真っ青じゃねェか! 大丈夫か!?」
「大丈夫……頭、痛いだけで……」
頑張らなきゃいけないのに、頑張ろうと決めたばかりなのに、またこの有様なのか。体に力が入らず引き寄せられている重力に逆えずにスパーダの方へと倒れていく。
視界は真っ黒な闇に呑まれ、意識はずぶずぶと沈んでいった。