08.眠る合間の決意
橙色の優しい灯りが部屋を小さくゆらゆらと照らしている。この部屋に備え付けられている洋灯の明かりと、ここに訪れる際に使った自分のランタンから発せられる灯りが重なり合いゆらゆらと揺れている。ちらりと壁掛けの木製時計に目を向けると、針が教えてくれた時刻は現在真夜中。明日に障るのは明白だが、離れようという気は起きなかった。
途端、コンコンと控え目かつ規則正しい間隔で鳴るノック音。四年ほど前まで毎日耳にしていた聴き慣れた音に懐かしさが込み上げる。おう、とあの頃と同じように返事をし、扉の前の訪問者を迎え入れるための許可を出す。返事をしなければ一生入って来ないような、律儀な人間だからな……と、昔に思いを馳せてみる。
ガチャリと静かにドアノブが回され扉が開き、この家の主である白髪の老人が夕食を乗せたトレイを片手に部屋へと足を踏み入れた。
「失礼します、スパーダお坊ちゃま」
白髪の老人──ハルトマンは、四年前までベルフォルマ家に仕えていた執事だ。身体を悪くしてから仕事を続けられなくなり養生する為にレグヌムではない何処かへ行ったとは聞いていたが、まさか異能者として逃げ果せている最中に再会するとは、スパーダは夢にも思わなかった。
──さて、どこから話をするべきか。
糸が切れたように倒れて眠るミルファをスパーダがおぶさった状態で急いでナーオスまで向かった一行。町に着いたのは良いものの、いつ彼女が目が覚めるのか分からない状態で先ほど戦場までいた戦場に比較的近いここで宿の部屋を借りても大丈夫なのか、という話になり立ち往生している時に鉢合わせした。自分達の置かれている状況や事情を話すと、役人に突き出さないどころか家で休むことを提案して貰った挙句食事まで馳走になり今に至るという訳だ──。
パタンと扉を静かに閉められた後、ベッドから少し離れた位置にあるアンティーク調の丸い机に食事を置き、ハルトマンはスパーダの隣に立った。座るよう促したが、すぐ出て行くからお気になさらずと言われてしまう。恐らく執事の頃の癖が抜けて居ないのだろう。もうベルフォルマ家に仕える執事ではないのだからあまりお坊ちゃん扱いされるのは懐かしさから気恥ずかしいと共に壁があるような気がして寂しい気持ちもある。しかしこれ以上こちらが口を出すと命令するのと同義だなと思い諦めることにした。
幼少期は色々目をかけて貰ったし、スパーダに騎士としての在り方を教えたのもハルトマンだ。
──ベルフォルマ家は跡取りである子息が多い。その為、末の子のスパーダの継ぐものは何も無かった。にも関わらず彼は能力や剣の才に恵まれている。それを疎んで、毒殺や暗殺など様々な方法で命を狙って来る兄から守ってくれたのも彼である。
しかしハルトマンはある日過労からか倒れてしまい、ベルフォルマ家に戻ってくることはなかった。もう会えないと思っていたが、こんな形で再会することになるとは。この町には聖女が居ると言われているし穏やかな町だ。静かに暮らすには持って来いなのだろう。健康に過ごしてくれて居るならそれでいい。スパーダはそう願ってやまない。
「まだ、目を覚まされないのですか?」
「……ああ」
昔と変わらない──否、少し痩せたか──目の前の元執事から視線を外して、先程まで見つめていた方へと向き直った。そこには、規則正しい寝息をたてて眠るミルファが居る。色白な顔はいつものように頬が柔らかい桜色に染まっておらず、顔色はお世辞にも良いとは言えず青白いままだ。
「お疲れなのでしょうか……」
「そうだろうな。初めて街の外に出たんだ。どんな形であろうと」
「何年も、お屋敷から出ることは叶いませんでしたからな」
非現実的に思えるが、言葉の通りだ。ミルファは幼い頃から自分の家から外に出ることを許されていなかった。貴族同士の交流会と称するダンスパーティーなどがあれば外へ連れられていたが。
ここ数年の間……最近のミルファは月に一度親の目を盗んで屋敷から飛び出してスパーダに会いに行っている。彼が家を飛び出した後から、ずっと、欠かすことなく。幼馴染であるスパーダを気に掛けてるのは間違いないのだが、それを向けられている彼自身は嬉しいような申し訳ないような悔しいような度し難い気持ちに苛まれていた。
外野から見ても、ミルファの親は貴族としての名を轟かせる事にしか興味がない。スパーダは幼いながらにそれを感じ取っており彼女を一人にさせない為にとハルトマンを連れてよく屋敷へと遊びに行っていた。その際によくミルファが話をしていた──『難しいお勉強を毎日たくさんしてるの』と。それは即ち、年齢に見合った勉強や礼儀作法を叩き込まれているということだ。スパーダのように、継ぐものがないからと親に見放されて学ぶべき作法を学べないのも歯痒いが、このように執着されて身動きが取れなくなるのも、なんと苦しいことだろう。
「……あの人達、家名のために娘であるミルファを人形みてェに扱って……ああ、クソッ……考えただけで腹立って来たぜ」
「名を轟かせることに重きを置いているのでしょう。家系によって志も行い方も違うものですからな」
ハルトマンの言葉は昔から真っ直ぐスパーダの心に届き、刻まれていた。今回もそうだ。家名を守り発展させるのは生半可な気持ちでは出来ない。そこ自体を否定するだけなら、人のせいにするだけなら簡単だ。
スパーダがしたいのはそんなことではない。ただ──幼馴染を護りたい、それだけだ。なんとかしてやりたい。そう常々思っては居た。どうするのが一番なのか子供ながらに考えてはいたものの、家出したりなんだりで彼女に心配をかけた上にここまで何も出来ずに居た。
自分が情けなかったが、最悪な形とはいえ、彼女が家から離れられる機会が巡って来たのだ。この機会を逃してはならない。
──鳥籠に囚われていた金糸雀のような彼女を、これからずっと護る。折れることのない意志が、目的が、より強固なものとなった。
(オレが護るからな、絶対に)
眠っているミルファの菫色の髪をそっと掬うと、長く艶やかなそれは水のように手からサラリと流れ落ちた。
「……お坊ちゃまは……」
「何だよ?」
ハルトマンの方を見やると、目を細めて嬉しそうにスパーダを見詰めていた。昔から、勉強や稽古、作法が上手くこなせた際にはこういった表情で彼を見守っていたのはまだまだ記憶に新しい。
しかし、今の話の流れで何故そういった瞳を向けられるのかが分からず、思わず訝しげに様子を伺ってしまう。
「昔から本当に、ミルファ様の事が大事なのですね」
喜々とした表情のハルトマンから出た言葉に、スパーダは口をあんぐりと開けてしまっていた。
「そ、りゃまあ……、な。幼馴染だしよ」
「スパーダ様は本当にお優しい方でございます」
確かにミルファのことは大事だが、第三者から改めて言われるとなんだか気恥ずかしくて居た堪れず、思わず顔を逸す。
ハルトマンは、ふふ、と笑んだかと思うと暖かい飲み物を淹れて来ますと言い、ランタンを持って部屋から出て行った。
(ったく、ハルトマンの奴……)
褒められることがあまりなかったのもあるが、優しいだとか返答に困る言葉を向けられるとむず痒くなるのだ。スパーダはその痒みを解消するかのようにガシガシと頭を掻いた。
……そういえば、と。ミルファもよく自分に優しいと言うし格好良いとか笑顔で褒めてくることをふとスパーダは思い出した。しかし、自分はミルファにそういったことを言ったことがないように思えて思い返してみる。……うん、言ってない。せめて褒め返そうぜ、オレ。と思いはしたものの、彼女のそれと同等の言葉を投げ掛けると考えると──。
「いや、いやいやいや……ねーわ。恥ずい」
可愛い。愛らしい。そういった言葉を向けると考えると、どうにも。
思ったことがない訳ではないし、むしろ何度も何度もそう思ったことはある。子供時代から取り残されたのかと思うほどに小さいままで幼い顔立ちをした彼女は幼馴染の自分の目から見ても、そうだ。ただ、ミルファ本人に伝えるなんて──。
試しに口にしてみようかと思ったが、何故か言葉が出て来ない。あともう一歩、もう一声。だが、異様に緊張する上に汗が流れてくる。スパーダは知らず知らずの内に顔を赤くしていた。
「あーッ! ちくしょう!」
なんでこんな緊張するんだ! と頭を抱えて、褒める褒めないという考えを頭から追い払う。
自分がこんなに掻き乱されているというのに目の前の幼馴染は我関せずと眠ったまま。……ほんの少し報復してやろうと、理不尽な感情に身を任せて彼女の額に小さくデコピンしてやった。
小さく呻いたかと思うと、目を覚ますことなく、何事も無かったかのようにまた規則正しい寝息を立て始める。
あどけない姿に、笑いが堪えられず零れる、ふは、という声。
(ああ、本当にこいつは──)
「ミルファ、早く目ェ覚ませよな……お前が元気じゃないと元気出ねェよ」
軽く笑ってミルファの頬を突くと、ふに、と柔らかくて暖かかった。
ハルトマンが戻って来たら、飲み物を貰ってから明日に備えて寝よう。そう思っていると、橙色の優しい灯りがそうしなさいと言うようにゆらゆらと揺れた。
◇
──チカチカと、手に持っているランタンが光り、二つの影が揺れる。
「ねえイリア……」
「なによ?」
「さっきの話……聞いちゃって良かったのかな」
ルカが、ぴたりと歩む足を止める。
ミルファの様子を見に行こうと思っていたルカとイリアだが、たまたま先客二人の話を聞いてしまったのだ。不可抗力ではあったものの、入り込んだ話ではあったので気が引けるのだろう。
他の地方に暮らしているイリアはともかく、レグヌムで生活をしているルカは、フィオリーゼの名はベルフォルマ家と同じくらいにレグヌムでは有名故に知っていた。
ミルファと家の話をしたことがなかったため、どんな家なのか、家族は何人なのか──他愛ない会話ではあるが聞いてみようかと思っていた。けれど、家庭内とはいえとても厳しい扱いを受けていたらしいことを知った今、そんなことをしようなどとはもう思えない。ミルファ本人から聞くならともかく、これは少なくとも、事情も知らない自分達が聞いて良い内容ではないと二人は感じた。
さすがに全部聞いてしまうのは気が引けたので途中で退散したとはいえ、ルカはプライバシーに踏み込んでしまったと、嫌なことをしてしまったのではと考え込み俯いてしまい、結局様子を見れなかったことにも気を落とし背を丸めていく。すると、ぐににっとイリアがルカの頬を引っ張り始めた。
意外にもそこまで痛くはないが、突然のことで驚いた為に思わず大袈裟に痛いと言ってしまう。こんなことで泣き言を言うなと上げたイリアの声が思った以上に通るものだから自分の口をハッとして抑える。まるで泥棒のようだとルカが苦笑すると、イリアは心を落ち着かせるために深くため息を吐き言葉を続けた。
「……まぁ、あんたがそう思うのもわかるけど。偶然とはいえあんな話聞いたら……なんか、居た堪れないわよね」
ボソリと呟いたその声は辛うじてルカの耳に届いたがすぐに闇の中へと呑み込まれてしまった。
──偶然の出会い。同じ転生者では無いかもしれない。それでも、ミルファはもう自分にとって友達──だと思いたい存在だ。友達だと胸を張って言えないのはルカの自信のなさが原因である。ならば、口に出さずに思うだけならいいのかもしれないとルカは考えていた。好奇心や生半可な気持ちで首を突っ込んではいけないけれど、でも……ミルファの無事と平穏を祈るくらいなら、と──。
しん、と静まる夜中の廊下は少し肌寒い。重い空気に耐えられないイリアがずんずんと部屋へ足を進めていくので、ルカは小走りでその後に続いた。
「よし、部屋に戻って休むわよ!」
「う、うん。スパーダもそろそろ部屋に戻るだろうし……ベッドに入っておかないと不審がられちゃうよね」
「そーいうこと! それに、明日は四人で聖女を助けに行くんだから!」
ナーオスに着いたは良いものの、ミルファを休ませることが先決だったため町で聞き込みなどが出来なかったのだが、幸運にもハルトマンがナーオスで起きた適応法に関する事件について知っていたので教えて貰い情報を得た。
情報によれば、大聖堂に金品目当てで押し寄せた盗賊を追い払い町の人達を守ろうとした聖女と呼ばれる女性──アンジュが異能者として周辺に位置する基地へと連れて行かれたという。それを元に、人目に付かないようにと明朝出発するという話になった。聖女を救出して、今度こそ前世の怨みではなくまともな話を聞いて情報を集めるため、そこへ向かうという予定だ。
イリアもスパーダも前向きに進もうとしているし、ミルファもきっとそうするだろう。だが、ルカは──。
(僕もう……疲れちゃったな……)
前世の縁は良い事ばかりではなかった。ルカは幼い頃から前世の夢を見続けていたからアスラという人物がどれほど戦いに身を置いたのか、どれほど勝ち続けたのかを知っている。同じように戦えば、勝ち続ければ、アスラになれるかもしれないと思ったが、その裏側にある打ち砕かれて来た無念の山を身を持って知ってしまい、憧れはあるものの戦神である彼になりたいという夢は薄らいで来ている。
もうこんなのは嫌だ。旅を続ければまた恨みを向けられ、戦い、殺すのだろうか。そう言った不安にだんだんと心を侵されていく。
逃げたい。家族の待つ家に帰りたい。母の作る美味しいチーズスープが飲みたい。父の説教さえ恋しいと思い始めるほどの後ろ向きな思いがルカを支配し始めてすらいる。それでも、イリアの期待に応えたい、彼女の役に立ちたいと思っている自分も居て、どうしたら良いのか分からずに立ち止まりたくても立ち止まれずにいた。
「……ルカ? どうしたのよ」
ルカとスパーダに割り当てれた部屋と、イリアに割り当てられた部屋。その前までやって来ると、イリアはルカの沈んだ顔に気が付いて覗き込むように見詰める。いつもの声とは違い、どこか心配するような気遣う声に、ルカはなんだか泣きそうになってしまい、グッと唇に力を込めて涙を押し返した。
今言わなければ、きっと──もう言えないだろう。涙の代わりに言葉を吐き出したが、怒られるかもしれないと震える唇はあまりにも情け無い声しか出せない。
「……イリアは、帰りたくない? このまま進んで危険な目に遭うのは、怖くない?」
どういう表情をしているのだろう。きっと怒っている。自分で決めてここまで来た癖に今更、と。彼女にはいつも怒られてばかりだとルカが自嘲していると、ランタンの照らす小さな灯りが一瞬大きくゆらりと歪んだ。それを皮切りにイリアは自分の考えを口にする。
「あたしは帰らない。帰りたくても帰れないし」
「! あ……」
時既に遅し。まさにこの言葉がぴったり合うほどにルカは自分の発言を後悔し、僕は何をやっているんだ! と自分を責めた。
イリアが適応法から逃げながら旅をしているのは、村が襲われて親が彼女を逃したからだ。村がどうなったのか壊滅したのかは分からないが、彼女自身の言葉通り今は帰る場所がなく、進むしかない。にも関わらず、自分と来たら──。
(頭から抜け落ちていた。こんな大事なこと……)
襲い来る不安と弱い心に背中を押され、彼女の気持ちを考えずになんてことを。ごめんと謝ろうとしたが、その言葉はイリアに先に言われてしまう。
どうしてイリアが謝るんだろう? そう思い、怒られると思って俯いて目を合わせないようにしていた顔を上げると──彼女は今にも泣きそうに顔をくしゃりと哀しみと後悔に歪ませていた。
「ルカは帰りたいよね。ごめん、あたし……あんたが来るのは当たり前だって思い込んでた。あんたは巻き込まれただけなのにね」
やがて、イリアの大きな目から零れ落ちた涙が頬を伝う。ごめんね、ごめん、と繰り返してただ泣きじゃくる彼女にルカは何も出来ない。手で宙を掻くことしか──。
どうしたらいいんだろう、と色々ぐるぐると考えていると、先ほど通って来た廊下の方から薄ぼんやりとした灯りが付き、こちらへと向かって来る。──スパーダだ。
彼はルカ達に気が付くと、状況を客観視して一言、「お前が泣かせたのかよ?」と冗談混じりに言うが、イリアはすすり泣き続け、ルカはただひとつコクリと頷いてまた沈黙が訪れる。
イリアに家に帰りたくないのかと聞いてしまい傷付けたことを話すと、スパーダはなるほど納得と腕を組みあまり口出しするべきではないと判断したようだ。これは、ルカが自分の心で決めなければいけないことだ、と。
「ンなこと聞いたってことは、お前は帰りたいってことか?」
鋭い。質問の本質を一瞬で見抜かれ弓で射抜かれた的のように固まって動けないルカに、スパーダは図星だなと察した。事実なのだからと、どうせ帰っても捕まるだろうとあっけらかんと告げたが、そんな簡単に割り切って受け入れられることでもない。ルカがショックを受けているのは明らかだった。
俯いて黙りこくるか泣くかするかと思ったが、真面目な面持ちでルカはスパーダに問うた。スパーダはこのまま何故旅を続けるのか、家に帰りたくないのかと。
真剣に話を聞きたいのはわかっていたが、思わず吹きだしてしまう。ルカの言葉に対しての侮蔑の笑いではないのですぐに謝ったが、ああおかしいとスパーダは再び喉の奥で小さく笑った。自分の家族が自分の心配をするなどと、夢でもありえない。自ら手を下さずとも良い厄介払いが出来たと喜んでいるに違いないのだ。
「オレはここ一年くらいまともに家に帰ってなかったぐらいだしな。今更家に帰りたいなんて思わねェよ。嫌で抜け出してたんだから」
「だから旅を続けるの? 帰りたくないからってだけで?」
「ま、勿論それだけじゃねェけどよ。ダチとツルむのに理由はいらないだろ?」
ミルファを護り、あの檻のような家に帰して傷付けさせないために。それがスパーダの目的ではあるが、ルカもイリアも前世からの仲間で友人だと思っている。彼が旅を続けるには充分すぎる理由だ。
スパーダの言葉から真摯な意思を汲み取ったのか、ルカは茶化さずにきちんと受け止めたようだ。こうなれば、掛ける言葉はこれだけでいい。
「ルカ、お前が自分で道を選べよ。人に決めて貰うんじゃなく、自分でな」
真夜中なのも相まって、静寂は深く重い。すんすんというイリアのすすり泣く声だけが響く。
何分経ったかという頃に俯いていたルカは顔を上げた。その顔は先ほどまでの辛気臭いものではなく、少し晴れやかだ。
「僕、決めたよ」
その一言にイリアは一瞬ビクリと身体を震わせ、また涙を滲ませる。ルカは帰りたがっていた。そのルカが帰りたいと決めたのなら、笑顔で別れを言わなければ。イリアは、ぐし、と目元を強く拭う。自分へと向き直るルカが一言ごめんと頭を下げてきたものだから、もうそういうことなのだと受け入れよう。イリアは精一杯の笑顔を作り、元気でねと伝える。明日からは三人での旅になるのかと寂しく思ったところで、ルカは慌て始めた。違うよ、と。
は? と素っ頓狂な声が漏れる。一体何が違うというのか。イリアが首を傾げていると、ルカは帰らないと言った。スパーダはそうこなくちゃと笑ったが、イリアにはわからなかった。ルカが旅を続ける理由が。親が恋しくて、戦う事が怖くて、平穏な暮らしに戻りたいはずのルカが何故?
顔にどうしてだと書いてあるのかというほどにイリアの思っていることがわかりやすい。ルカは一拍置いてから、ほんの少し緊張気味に話し始める。
人と前世の記憶を共有するのが楽しかった。仲間が出来て嬉しかった。アスラのように力を振るうと彼になれたよう夢心地だった。ただ浮かれて皆の後ろを付いて行っただけだった。自分で先のことを考えていなかったのだと。
「イリアが困っていたら助けたいし、力になりたい。友達であるみんなと一緒に行きたいんだ。これが僕の理由だよ」
バカだと思った。本当は帰りたい癖に強がって、強く在ろうとして。でもそうやってルカ自身で考えて決めたのならそれで良いと思うし、何より……。
(あたしのこと、考えてくれたんだよね)
イリアにとってそれが一番嬉しかった。西の戦場からずっと付き纏っていた正体のわからないモヤモヤとした気持ちも晴れたような気すらする。それくらい嬉しいけれど伝えられるほどイリアは素直ではない。バカだ、バカよ、と繰り返しながら涙を流すイリアの肩に手を置き、ルカは泣かないでと微笑んだ。優しい声色で包み込むように。
人前で泣いていたこと、それをルカに見られていたことを今更自覚すると、ぶわっと羞恥が一気に沸き上がり逃げ出したくなったイリアは肩に置かれた手をバリっと引き剥がして距離を取った。
「……な、泣いてなんかないから! このおたんこルカ! あ、あんたらさっさと寝なさいよね!」
ぐしぐしと目元を拭って逃げるように部屋のドアノブをひねる。実際逃げているのだがそれを指摘すれば絶対に反撃を受けるのは確実といえる。
おやすみと言いひらりと手を振るスパーダと、きょとんとしているルカ。ルカの様子に余裕差を感じたイリアは、ミルファが目を覚ましたらルカのヘタレっぷりを暴露してやると言い割と強めに扉を閉めた。いわゆる捨て台詞というやつだ。
万事解決だな、と笑ってスパーダが隣の部屋のドアを開く。安心したように頷きありがとうと言うルカだったが、突如ガシリと肩に腕を回されて念押しをされてしまうのだった。
「自分で決めたんだから、最後まで筋通せよ?」
どすの利いた声で脅すようにかけられたものの、怖いとは感じない。信じてるからな、と言っているような気がした。こんなことを言えば、ルカはスパーダに何をされるかわかったものではないと思い口にはしなかった。
「ミルファにも笑われちゃうかもしれないもんね」
「違いねェや」
冗談めかしく笑いながら二人は部屋に入る。
明日は三人とも酷い眠気と闘いながら町を後にしなければならないのは確定事項だ。