Ms.Bernard


 暗くうすらに冷気がたれ込める部屋の中、羊毛の薄い毛布と綿のベッドシーツの狭間。微かな暖かさが夜明けを告げていた。そろそろ起きねばなるまい。のっそりと這い出て、寝台から足を下ろす。冷涼な床が足裏から体温を奪う中、スバルは部屋を出た。

 蛇口を捻るときんとした水が指先の熱と眠気を拭い去っていく。寝起き特有の判然としない思考が緩やかに回転を始める。
 年季の入ったガラス棚は、白熱灯のこうこうとした光を反射していた。いつも使っているカップを出そうとして棚の戸を開けると、普段お飾りとして鎮座している食器が少ない。昨日来客のために出したのだ。
 ティーポットにお湯を注ぎ、茶葉が蒸れるのを待ちながら、乾燥させたままだった食器を棚に戻す。

 来客なぞ、いつぶりだろうか。
 用意する皿は小さいデザート用のもの1枚で事足りる。響く声はテレビのキャスターが発するものくらいで、聞かない日さえある。
 静寂の満ちる部屋、ティーカップからたち昇る湯気と香りはひとつ。それが彼女の正常だった。

 紅茶一杯とクッキー数枚の質素な朝食を終えたスバルは、部屋から続く庭へと出る。
 遠くで車のエンジンが轟いていた。空を見上げれば灰色の雲がおおっている。湿気を含んだ風が彼女の頬をひと撫でして、プランターの植物はさわさわと揺れる。鼻を掠めるのは青い草木と土の匂い。
 この分なら水もそう遣らなくても良さそうだ。鉢に手を伸ばし、白い指で葉に触れる。ぷっくりと膨らんだそれは、夏には鮮やかな花を咲かせるだろう。

 状態を確認したのち、準備をして家を出た。学校が休みの週末、家から歩いて三十分ほどの通りで行われる蚤の市。骨董屋の店子が商品を広げ始めた駅周辺の先、未だ店の開いていない奥の道を進み、電車と自動車が行き交う高架下をくぐり抜けると、フードマーケットにたどり着く。そこで彼女は月に一度、店を開いていた。
 観光客で賑わう骨董市と違い、果物野菜や惣菜などの食品に混ざって石鹸などの日用品も買える市場は地元の人が大半を占める。昼過ぎに店仕舞いする反面、比較的に早くから商いをはじめるのだ。

「やぁ、バーナードのところのお嬢さん。久しぶりだね」
 スバルがスツールの設置を終えたころ、落ち着いた声が彼女を呼び止めた。屋台先から顔を覗かせている壮年の男性。「ああ、ヒューさん」、スバルはその顔馴染みに愛想よく会釈した。
「おはようございます。お元気でしたか?」
「変わらずさ。君もそのようで何よりだ。
 今日は客としてきたんだ。サシェをいくつかもらえるかい、あとそれから、いつものを」

 毎週末に乾物を売っている彼はこの市で長く店を開いており、まだ幼い少女の事を気に掛けていて、見かければこうして様子を見に来ては何かしら買って帰るのだった。
 しかし彼が今回所望した匂袋は前に渡してからそう幾ばくも経っていない。
「毎度ありがとうございます。
 以前に買っていただいたものはもう香らなくなってしまいました?」
 スバルは用意しながら尋ねる。彼女が作っているポプリは管理を誤らなければ1、2年ほどは効果が持続するはずだった。もし匂いがとれてしまったなら扱いが悪かったのか、改良の余地があると思い伺ったスバルだが、男は手を横に降って否という。
「半年経っても褪せず匂いたつ良いものだったよ。だけれどこの前友人が家に来たとき、君に貰ったポプリを大層気に入ってね。しかたないからあげてしまったのさ。
 君の事も紹介したから、もしかしたら近い内に彼も買いに来るかもしれないよ」
 ぴったりの料金を手渡してお礼と共に商品を受け取った紳士は、紙袋につまったクッキーやスコーン、サシェを見て口笛を吹く。

「そういえば、君は今度ボーディングスクールに入るんだろう? 店は続けるのかい」
「そうですね、少し迷っています。つづけられたら、いいのですけど」
「私もそう願うよ、バーナードの大ファンだからね。このクッキーが食べられなくなるのは惜しい」

 そろそろ店に戻らなければとウィンクひとつ寄越して去った彼を見送って、しばしば来る常連や客の相手をすれば時間はすぐに去る。
 商品も売り切って屋台の多くが店仕舞いをする頃には、雲の切れ間から落ちる陽でマーケットは薄赤く色づく。撤去作業を行い、まだ開いていたスツールで必要なものを買うと、帰途に着く。

 緩くカーブした連なる白壁に等間隔で彩られた戸が見えてくると、彼女は目を瞬かせた。

「……何かご用でしょうか」

 昨日も言った言葉を口にして、スバルは客へと向かいあう。青とも取れる灰色のドアの手前、ラベンダーグレーに塗られたポストの上に“それ”はいた。

 茶褐色の羽毛で覆われた体に、ポストをつかむ鋭い鍵づめ。くるくる回る首を自在に巡らせている。
 スバルが声を掛けるや否や、黒くつぶらな眼で見据え、黄色くまろい嘴にくわえていた何かをずいっと突き出した。

 受け取れば手紙であった。蝋で閉じられた封筒はざらざらと指に引っ掛かり、かしこまってアンティークじみたそれは、ここ最近急に馴染み深くなったものだ。
 インクと封蝋の色は違えど、宛名はスバルを示している。差出人はつい昨日、自身を親戚と称した男。

 玄関先で開くのは躊躇われ、何より荷物も重かった。鍵を開けて家に入れば、開いた扉の隙間から手紙の運び屋が滑るように室内へと飛び込む。
「ちょっと、君。……まぁいいか」
 椅子の背の縁に止まり一声鳴くとスバルを見つめた珍客は存外おとなしいようだった。軒先に夜行性のそれがいるのも可笑しな事だし、目立つよりはましかと思い直した彼女は、荷を置いてから手紙の封を破る。
 便箋を取り出して開くと、ふわりと香る薔薇とインクの匂い。細やかだが嫌みがなく上品なものだった。

 中をあらためれば、突然の訪問の謝罪ともてなしへの礼から始まっている。

『魔法界で手紙のやり取りは広くふくろうで行われているから、ホグワーツへの返事に惑うことだろう。この手紙を運んだふくろうに持たせてくれれば、彼は使命を全うするよ。穏やかな性格で言うことをよく聞くいいこだから、手はかからないと思う』

 読み進めたスバルはその“彼”──森梟に目をやる。丸い瞳は今は閉じられて、静かにたたずんでいる。黒く尖った爪はふくふくとした体のしたにしまわれて、随分とリラックスしているように見えた。
 手紙を持たせるか帰るか言えばふくろうは去ること、もし手紙が長引くようなら夜に放してやれば狩りをするから世話は気にしなくて良いことが続けられていた。

 最後に、スバルがもし望むなら入学先の如何に関わらず支援をさせてほしい、いずれ家に招待したい、何より会えて嬉しかった等々綴られ、追伸にて締め括られている。

『次に会うときは、魔法界の一員として歓迎できるように願っている』


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 スバルは知っていた。いずれ手紙が来ることを。それが魔法界からの正式な招待状であることを。

 遠く閉ざした記憶の底。
 広がる青々とした草原。
 陽をうけてきらめく漣。
 初めて言葉を持った日。

 星の光舞うシャワーは消え去った。梟がとまる椅子の近く、机上に置かれた花冠は、昨日までの生を失ってなお形を保つ。

 返事を書かなければ。決まっていた学校の手続きも。入学先の変更をスクールの教師に伝える必要もある。

 忙しいと思った。煩わしいとも。
 しかし、己が今立つ場所を選んだのは、このためであったから。静かに、独りで生きるためにはきっとこの道を進まなければ得られない。

 そうしてスバルは、紙の手紙一式と万年筆を棚の引き出しから取り出した。


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