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洋館の重い扉を抜けると暗闇であった。昼の最中が黒くなった。
準え古された名作の冒頭を引っ張ってきたことに意味はなく、暗闇なら抜けたというには足りない。しかし、ひとつ扉を開けた先に続く陰は光一筋通さず、目は何をも捉えることができない。
最後に聞こえたのは締め切られる音で、断絶の音だった。あまりにもしじまが耳に忍び寄って張り付き、呼吸ひとつも立たない。
いったい、どこに迷いこんでしまったのだろう。
異様な雰囲気ではあったけれど、足を踏み入れたのは、ただの森の中の洋館だったはずだ。
どれ程白壁が外光を遮断するとしても、外観から明かりがついていないと確認できる程度にカーテンがかかった窓は、館の広さに違和感のない数があったというのに。
現実として考えれば、自身の伸ばした手さえ掴めない闇よりも黒い暗黒は、異常であると言わざるを得ない。
もしかして目を開いていると思い込んでいるだけで、瞑っているのか。
顔に触れて確認しようと手を持ち上げて、それすらも覚束無い。あまりに見えないと、自分の手と頭の距離さえ測れないのか。いや、己が顔すら、闇に溶けてきえてしまったかのような。そんな想像が浮かんで、恐怖がぶわりと加速する。だというのに、自分の荒げる心臓の音も聞こえない。
まさかこの身体さえも、消えたんだろうか。雪が溶けるように。闇に融けるように。そんなはずはない、だってついさっきまで足で立っていたじゃないか。駅まで敷かれた石畳の道を、小枝や砂利の散らばる土くれの道を、歩いてきたじゃないか──この足で。
ふっと、足下の感覚が明朗になった。
地面がある。揺らぎのない、固い床。森の踏み固められた土の道とは異なる、平らな地だ。
ああ、とひとまずその感覚が得られたことに安堵すると、自身の五感が研ぎ澄まされてゆく。何をおかしな絶望を抱いたんだろう。何も見えないと知覚できて、何も聞こえないと思える己があるなら、この身が闇に溶けて消えたはずがない。足も手も、耳も、目も、ちゃんとあるはずだ。
そうしてぎゅっと目を閉じて開く、これを何度か繰り返すと、闇に光芒が現れた。
まず光が目に入り、思わず見つめると、映写機のピントを合わせるようにだんだんとはっきりしてくる。
一体何があるのかよく見ようとして、誘われるように足を一歩踏み出した。じゃり、と靴底が擦れた音が、いやに耳についた。
それを皮切りに、二歩、三歩と続いてから、急くように六歩、七歩と鳴って、終には走り寄るように光のもとへと転び出る。中心に存在した卓にしなだれるように手を掛けて振り返ると、先程まで立っていた場所がどれ程暗く、黒く、影だったのか。奥行きさえも感じさせないのっぺりとした闇が静謐に存在していた。
あんな場所に身を置いていたのか。認識をすると、机についた手が震えて、上手く寄りかかれない。うすぼけた視界が下がって、大きく四角い石の並んだ床を写す。は、と切り詰めた息を吐き出して、しばらく呼吸を整えると、漸く顔をあげることができた。
暗闇は依然として、絶対的な色を宿して揺らぐことなくある。光が形作る輪の中に入ってしまえば、足を踏み入れることなど到底できそうもない、そんな陰。
手元のテーブルを見てみれば、丸テーブルだと思ったそれは正確には丸ではなく六角の台座のようだった。やけに凝った紋様が並ぶ六角柱の、ひやりと冷たく硬い質感が素肌の手に明瞭に訴えかけてきて、その確実さが夢ではないと伝えていた。
洋墨を丹念に周密に、幾重にも塗り重ねたような闇が現に在るのかという不安もあったが。夢でないとするなら、扉を抜ける前と抜けた今は地続きであるはずだ。
「皆は、」
共に館に入ったはずの同士は、どこへ。
呟きは己以外の息遣いの聞こえない空間に淋しく落ちて、霧散するかと思われた。
「おや」
聞き慣れた声が背後から聞こえて、弾かれたようにその方を向けば。
「ここ、どうなってるんだろう……」
「っどこに消えたかと思ったよ! オレ、置いてかれるの嫌いなんだけど!」
耳に痛いほどの静寂は絶えて、声が反響する。
先ほどまでは音すらなかった同士が、いつの間にか輪の中でその影を床に淡く写し出していた。
「扉を開けたら何も見えなくなったよ」
「気づいたらここにいました」
「さっきまで僕以外いなかったのに、君たち突然現れたよね……」
「もうマジで、何なのこれ!?」
田山が吠えた。高らかに響くエコーの掛かる叫びに新美はわずかに笑う。いつもの帽子で覆われていない耳には少し大きい声だったが、先程の孤独を考えれば寧ろ安心をもたらした。
「ただの洋館、というわけではないようですね」 江戸川が光の降る天を見上げて呟いたから、釣られるように新美も顔をあげて、眉を潜める。「お月様……?」
天井は蜘蛛の巣のように罅が入り、ちょうど台座の真上は大きく割れて、狭間から空が覗いている。その空は深く透き通って星が薄く瞬き、白く大きな満月が天辺に輝いている。降り注ぐ月光が地に広がる円を作り出していた。
倣うように見上げた島崎や田山も、怪訝な声をあげる。
「僕たちが屋敷にたどり着いたときは、まだ時間は日没には遠かったはずだけど」
「なんだよ、扉開けてこの部屋にたどり着くまでにそんな時間かかったっての?」
そう。入る直前に示し合わせた『雨宿り』という言い訳の通りに、鈍重な乱雲が空を覆い、霹靂が轟き始めていたけれど、せいぜい中秋のやつ時程の時刻だったのだ。それが今や、爛々と満月の耀く夜空に切り替わっている。
体感では暗闇に身をおいた時間はひどく長かったような気もするが、しかし日が暮れ満月が中空に昇りきるまでいたとは到底思えなかった。
振り返れば、同士の明るい声があっても払いきれない、見通せない闇は変わらず存在している。あまりにも不自然に人工的に、あの中に数時間もいれば気が狂ってもおかしくないと思わせるような。「──もう狂っているのかもしれませんよ?」
新美の耳元でしたのは、低くしなやかな囁き声。びくっと肩が震えた。振り向けば江戸川が怪しく微笑みかける。「ら、乱歩さん……びっくりしたぁ」
「あんた、ずいぶん楽しそうだな……」
「エエ、正直に申し上げますと」
引き気味の田山にもにっこりと道化のような笑みを向けた。
「司書の成り行きを見守るための現は、いつから夢へと変わったのでしょう」
「ここはあんたの着色映画の夢の中、ってことか?」
「ワタクシではなくアナタの夢かもしれません」
「だとしたらせめて美少女くらいでてほしいもんだ」
「夢も現もままならぬものですねぇ」
「元気だして、花袋」 まるで現も望み薄というような彼らの言葉に田山は落ち込んでねえよと反発したが、島崎は気にせず台座のような卓のようなそのオブジェクトの模様を検分しながら呟く。「時の経過がおかしいことが、夢なら別にいいんだけどさ」
「何だって?」
「本の中だとしたら、結構まずいんじゃない?」
時が急速に過ぎ去り、違う世界に飛び込んだかのような体験は、初めてではない。今生の生業ではむしろ、しばしば味わう感覚だった。
彼らが転生する原因となった、昨今の文学における異常事態。文学書の侵蝕を防ぐため、新たな同士を喚ぶために彼らは『潜書』を行う。文字通り対象の書物の中に潜っていくこれは、現実とは異なる本の世界に入るのだ。
侵蝕者によって巣食われた『有碍書』であれば、元々の書の内容を反映した風景であり、描かれた物語をなぞりながら巣食う敵を討つ。同士の魂が宿った『有魂書』であれば、文字やインク、原稿用紙の舞う世界から、相手の魂の在りかを探し出して喚ぶことが多い。例外は存在するが、概ねはこの通りであるらしい。
「潜書って、でも、ぼくたちは」
その掠れた声で新美は、口がからからに乾いていると気づく。干上がった舌が口蓋を擦るざらついた感覚が不快だった。
有魂書も有碍書も違う世界に潜ることで、景色はがらりと変わるけれど。現と見紛うことなど、そう在りはしない。
文学書に対して強い想いを持つ魂の存在でなければ潜書は不可能だ。そして潜書を行う部屋は、アルケミストの力を持たなければ入れない。したがって、潜書は常に司書の監督のもとに行われてきた。彼らは司書の同伴なく潜書部屋に出入りしたことなど一度もないし、転生したときの風采を崩して潜書したこともない。
転生したときの風采、つまりその身体と意匠、そして著作の本一冊。この姿がもっとも潜書時にふさわしい状態だと云われている。魂そのままに挑む彼らを守る、云わば鎧と武器だ。
潜書に厳密な決まりがあるように、彼らの今回の外出とて、相応の手順を踏まなければならないことだった。外出届や記録付け、そして、二度目の生をうけたときより手にしていた『本』の提出。
彼らが有碍書に潜書する際に武器へと変わるこれらの本は、彼らの二度目の生の核となるものだ。潜書時の負傷は本へと反映され、本を『補修』することで彼らの状態も好転する。
そうした依り代とも云える本は錬金術の秘匿にあたる部分で、彼ら文豪と同列に慎重に扱わなければならないものであり、図書館の敷地外への持ち出しは固く制限がかけられているのだ。
怪しまれぬようここまでそれなりに気を使ってきた彼らは、当然、その制限を破ることなく司書の追跡へと繰り出したわけで。
新美は出掛ける際に友人が被せてくれた帽子をぎゅっと胸に抱く。
──鎧も武器も欠いてしまえば、こんなにも頼りない。
「……とんだ休日になっちまった」
田山がため息と共に吐き出した嘆きは、空間にぽんと取り残された。
結局、ここが夢の中か本の中か、はたまた現とも知れぬ中。夢というにはあまりに迫真で、本の中にしては禍々しさもなく、現とするなら不可解だった。断定するに根拠が足らず、彼らは話し合った結果、三つのうちどれにせよ損傷なく切り抜けることが大事であるように思われ、現状からの脱出と当初の目的である司書の捜索の二点を掲げて行動することにした。
そうしてやっと空間の情報の整理に取りかかる。月明かりに照らされた円形の内側、舞う土埃がきらきらと輝いて幻想的な雰囲気を買っている。中心に浮かび上がるように存在する六角の卓上には、これ見よがしに存在感を放つ匣と白い封筒がひとつ。
「この手触り、あの人の元に届いた手紙と同じじゃないかな……蝋も似ているし」
唯一ことの端緒の手紙を知る島崎が、普段の手套のない指で封を取り上げて言った。その島崎の傍に新美が寄って手元を覗き込みつつ、彼に聞き返す。「手紙って?」
司書の変化と原因とされた事柄については図書館内で知らぬものこそいなかったけれど、追求の発端となった手紙については島崎と情報共有していた同士にのみ留まっていたため、江戸川も新美も知らなかったのだ。
島崎と田山は軽く手紙の説明をして、以前の報告会で上がった疑問点にも触れる。
「真っ白な便箋には文字があった形跡はなかった。
現代の技術だと文字を消すことはできてもインクはどうしても残るから、跡形もないように見えたなら錬金術だろうって館長は言ってたな。アルケミスト間では珍しくないし、やり方はいくつかあるみたい」
「厳重に情報統制されているようですし、不思議ではありませんね」
「面白いなぁ、悪戯に使えるかも。司書さん教えてくれるかな?」
「暢気だな……」 田山は新美の言葉に呆れたが、実際他のことを考えられる方が、この不可思議に怯えて足をすくませるよりかは余程良いと思い直す。光量の乏しい薄明のもと、暗闇を見ては震えるその表情は色彩を欠いて、常の朗らかさを思えばいっそ哀れだったのだ。
「さて、その手紙には何が書かれているでしょうかね。それとも、何も書かれていないでしょうか」
「何かあると良いけれど、開いてるからね……」
江戸川に促され、島崎は封筒のフラップを開く。ばらばらとタールのような色の残滓がこびりついていることから、司書に手渡した手紙と同じように古風な蝋で封をされていたのが推測できた。外側には特に何も書いてはいない。
封筒の中から顔を覗かせた便箋は、やはり予想通りに白々と月光を蓄えている。す、と紙同士が触れあって擦れる音がした後。しかし思惑と外れて、折り畳まれた紙から目に飛び込んできたのは──
『警告 これより先、一切の侵入を禁ずる』
薄墨のインクではなく、掠れて粉飛びした文字だった。
「この粉、チョークかな」
文字の部分を指でなぞると、紙上の文字も線をひいて、指先に粉がついた。字は均一に整然と並んでいて、警句の文言を無味乾燥に、しかし無慈悲に演出している。
指についた粉を鼻に近づけて臭いを嗅いだり擦り合わせたりする島崎から手紙を受け取った田山が、その文字を見て首をかしげた。
「それにしては細すぎないか?」
田山の言葉通り、掠れてはいれど元の線は削りたての鉛筆で書いたような細さで、彼の想像するチョークとは些か合致しない。色もわかりづらい月光の下だが、白い紙に映えて読めるなら白墨ではない。
「多分、想像してるような黒板に書いたりするチョークじゃなくって、司書さんが持ってるようなチョークならこんな風に書けると思う。銀色のケースに入ってるの」
「ああ、持ち歩いていましたね」
「錬成陣や術式、だっけ? 壁や地面に書くことも多いから、万年筆や鉛筆より向いてるんだって」
新美は以前に司書の持ち歩いているポーチについて聞いたときに、見せてもらった中身を思い出す。白だけでなく赤や黒色のチョークは細く、ケースから伸びているのをもって書き付ける姿は、呪文を唱える魔女のようにも見えた。「書付程度ならそのチョークで書き込んでるのも見たことあるよ」
「あの銀色はチョークのホルダーだったんですね」
実際にその様を見たことがあった江戸川だったが、手元を見ていたわけではなかったため、字は黒鉛のようで、鉛筆だと思っていたのだ。
「だとするならこの警告、アノ方が書いたもの……ですか」
「じゃないかなぁ」
新美と江戸川が話す横で田山も文言をなぞってみる。文字は確かに粉っぽくて印刷とは思えないが、楷書体のようだった。
司書の手書きを見る機会はあまり多くはない。田山たちが生きていた頃よりも技術は発展していて、媒体の多くが電子化された現代では、司書の書類は基本的に印刷されたものであった。助手の時に書類整理を担っていて、挟まれた付箋にも印字が並んでいると思っていたが。「てことはあれも司書の字か! あれで手書き!?」
「あの人らしいよね……」 肉筆にしてはあまりに平坦な字が、人間にしてはあまりに無表情な司書を彷彿とさせた。
「司書がこの場を通ったってことか?」
このメッセージが司書からのものだと仮定して。警告というからには司書以外の誰かに向けたもので、“これより先”に警告しなければならない何かがあるということだ。
「引き返したのかも」
「僕たちに気づいてたのかな……」
「どうでしょうね」
追跡に気づいていて、尚且つ関わられたくないのであれば、早い段階で止められそうだった。それとも、館に入ってから追跡者に気づいたのだろうか。
「ん、これ何か書いてあるな」
警告は折り畳まれた紙の外側にあった。その内側、便箋を開いてみると、書かれていたのは警告とは様相の異なるものだった。
:
『この手紙を読むものがいないことを祈ります。
しかし君が来たのならば、僕は歓迎しなければならない。
ようこそ、僕の友人よ。話すべきことは山ほどあるが、同時に、話せることは灰塵ほどもないのでしょう。
今の君は盲目に等しいため、道を照らす光を残しています。その光があれば、君の旅路は僕よりもよほど楽に進めるはず。
どうか振り返れない君の旅路が健やかなものであるように。』
:
蒼白い罫紙上の薄墨は、静閑な面持ちで行儀よく収まっている。指で擦ってもかすれないインクは、先入観もあろうが、島崎にはあの日見た手紙の墨と同じもののように思えた。
「宛名も差出人も書いてはないけど、相手を限定してる文面だな」
「そうですね。
警告と本文は筆記具も違えば筆跡も異なり、内容も相反している。違う人間が書いたのでしょう」
江戸川の言葉を新美の耳が捉える。
違う人間。この、どこにあるとも知れない土埃と宵の空間に、司書がいて、他の誰かがいたということだ。──いや、手紙を読んで頭に過ったのは。
司書の前にこの空間にいただろう男が手紙をしたためて、あとから辿り着いた司書が封を切って読む。そして彼女が月の光を耀かす銀色のホルダーを振るって、この警告を書き込む情景だった。
相手を慈しむような手紙は、別離を滲ませるような文は、司書が後を追ったらしい師から、彼女にあてられたものなのだろうか。
彼女は独り、暗闇と静寂に満ちた空間で字を辿ったのだろうか。
「藤村、んな好き勝手触んなよ。危ないかもしれないだろ」
「別に生き物じゃないんだから噛みついてきやしないよ。花袋は気にならないの?」
「気にはなるけどさぁ、匣の中に侵蝕者でもいて飛び出て攻撃してきたらどうすんだよ」
やいのやいの言い合う彼らの声が、新美を思考の渦から引き戻した。卓の中心に聳えるように据えられた匣に手を伸ばした島崎を、田山が止めたようだ。
田山の忠告をあながち無視できないのは、その木箱は図書館に出入りする馴染みのネコは余裕をもって収まりそうな、インク壺を象った侵蝕者一体くらいは入りそうな大きさの立方体だったからだ。
「ビックリ函にしては重厚ですね、むしろ……宝箱のような」
江戸川が興味津々といった様子で匣を眺める。
びっくり箱というにはあまりに強固な見た目であった。よく磨かれた木目は美しく、丁寧にニスを塗られ艶々としていて、立方体の一面に存在する二つの蝶番、そこからのびる金属のフレームは蝶番の真向かいの面にある丸い飾りで行き合っている。金属枠より上部は蓋で、飾り部分が正面にあたるのだろう。
蓋を開けた内側には、本物と見紛うような蛇の玩具やバネで隙を突いた一時の軽薄な驚愕よりも、不可思議の核心を突くピースを秘めているように思える。
(びっくり箱の発想は田山の言うような飛び出てくるギミックからだが、無論、ここにいる彼らはびっくり箱よりも宝箱の方が敵の潜むギミックありと思う人間がいることは露も知らない。)
さて、この匣を開けるか開けまいか。
耳をすませても匣からは物音はせず、ネコならば寝ているか死んでいるか、侵蝕者ならば物言わぬインク壺に擬態しているか。とかく動体の気配はない。
「手紙の内容からしてこの匣の中に“道を照らす光”とやらがありそうだよね」
「先に進むための“光”みたいだけど、警告では進入禁止って書いてあるし」
つまりこの匣を開けて“光”を手にするか、しないかこそ、手紙に従うか、警告に準じるかを選ぶことになると新美は思ったが。「いえ、そもそも“光”とやらはあるのでしょうか?」 江戸川が口を挟む。
「まずこの場には少なくとも二人の人間が来たのでしょう。手紙を書いた者と、警告をしたためた者。後者を司書と考えると、前者は恐らく司書の追う師匠が置いたものと考えられますね。
となると師匠は追跡者を想定していた。そしてこの手紙は司書へ向けられたものだとしましょう、読んだ彼女がこの匣を開け、“光”を取って先に進んだとしたら?」
「匣の中の“光”は既にない、ということか。“光”がなければ危険だからこそ、警告を残したとも考えられるな」
「あの暗闇のなかを手探りで行くのは危ないよね」
どこまで続くかも見えない黒。天井に空いた穴を思えば、この建物は老朽化していると考えられる。闇の先に同じような穴でもあって落ちてしまえば大怪我するかもしれないし、出口にたどり着けなければ最悪死んでしまうかもしれない。進むにせよ退がるにせよ、何かしら明かりはほしかった。
そうなると、やはり何が入っているかもわからぬ匣に希望を託すことになるのだ。
開ければ災いをもたらすパンドラのそれであったとしても、せめてエルピスはあってほしい、と。