ふたつ
狐──こんのすけの音声は起伏がなく、温度の感じないものだった。
「何者……なにものなんだろう、結構どこにでもいるような人間だと思いますけど……」
煮えきらず戸惑いを見せる返事は、問いと対称的だった。ううんと悩んでみても答えは出なかった。「何者かなんて変なことを聞くなぁ。今まで考えたこともなかった気がする」
「こんのすけ、この人、記憶がないんだって」
「報告は受けています」
考え込み始めたその人の横で助けを出した秋田に、こんのすけはしれっと返した。つまり、自己紹介をしろということではないらしい。更に首を傾げたその人に、こんのすけは重ねて問う。
「まず、何故あの場にいたのですか」
「さぁ……そもそもあの場って?」
ここに寝かされていた経緯さえ、さきほど秋田が話したばかりだ。その人は、明答できずに聞き返した。「さっき言ってた川のことですか?」
「秋田殿の報告によれば、山中の川で溺れかけていた貴方を拾ったようですが、何故川に流れていたのですか」
拾ったって、まるで人をもののよう。こんのすけの口振りを気に留めたように言って、困ったように眉を下げた。「わかりません。わからないけど、そんなに重要なことなんですか?」
まず体調とか、身元確認とかよりも、二人(?)とも聞くのは川を流れていた理由だ。夏だとよく注意喚起されているし、川で溺れるなんてそう珍しいことでもないんじゃないですか、とつづけたその人に、こんのすけは冷ややかだ。
「あなたがいたのは部外者侵入禁止区域であり、許可なく立ち入ることはできません」
「ああー……私有地でしたか。それは申し訳ありませんでした」 納得した様子でその人は深々と頭を下げた。「救助の手間もお掛けしまして……助けてくださってありがとうございます」
「いえ、ご無事でよかったです! 見つけたときは冷たくて、死んでるかと思っちゃって……」
視線を下げた秋田にも、ありがとうと言って、その人は微笑みかけた。生きててよかった、こんないたいけな成りの良い子に死体をさらすことにならなくてよかったと思ったのだ。胸を撫で下ろすが、こんのすけは変わらない口調で問う。
「では、全く覚えがないと」
「ええ、溺れてたならその影響で記憶が混濁しているのかも」
「そうですか」
愛想なく返してから、こんのすけが秋田に向き直る。「秋田殿、少々席をお外し願います」
「えっ」
「わかりました」
「ええっ」
秋田はひとつ返事で了承し、こんのすけを残して部屋を出た。話が終われば声がかかるだろう、と襖の傍で待機する。一刻ほどのち、襖をけものの手で器用に開けて、狐が退室した。「秋田殿、あとはあなたに任せます」
「は、はい」 秋田の返事を聞いて去っていったこんのすけの尾を見送ってから、秋田は室内へと戻る。「お疲れ様です! 何かわかりましたか?」 秋田は興味をにじませて尋ねた。
「うーん、あんまりですねぇ」 現状のわりに、落ち着いた声だった。
「さっきの、こんのすけさんに聞かれて気づいたんですが」 思い起こすように視線をめぐらせながら続ける。「年齢とか、生まれとか。名前も思い出せないんです」
「ええっ、それじゃあ、何にも覚えてないってことですか」 確かに先ほど『さっぱり抜け落ちている』とは聞いたが、ここに至った経緯だけではなかったのだ。悲鳴のような声をあげた秋田に、その人はうなった。「うううん、何にもって程では。なんとなく覚えているような」
曖昧な返事だった。誤魔化すというよりは、本人もわかっていないという様子であった。「住んでいた場所なら……、山や田んぼに囲まれて、緑の多いところだった気がする」
「ふむふむ」 断片的に浮かんでは消える情景を訥々と口に出すその人に、秋田は先を促すように相槌を打った。
「あと、鳥居があって……」
ぽつりと
山の中にある、そう大きくない簡素な鳥居。両脇に控えた神使の石像を抜けて──
「……うーん、思い出せるのはこれくらいです」
いくら頭を捻れども、思考が靄がかったように思い出せない、とその人は頭を緩く振った。
「まあ、こんなにはっきりしないんですが、身元照合の為に、指紋とか色々登録してもらえたみたいで」 先ほどこんのすけが調べたのだろう。「いくらか時間がかかるけど、政府データでの検索をしてくださるとのことでした」
説明なしに色々指示されたので、最初は何かと思いました、とのんびり語っている。秋田は、自身が思うよりも本人が悲観していないことに気づいて、肯定的に返すにとどめた。「早くわかると良いですね!」
「ですねぇ」
しみじみと答えて、しばらくの間沈黙が落ちる。
「あのぉ」
秋田がそわそわと、話し掛けようとしたときだった。「おー、起きてる!」
足音を軽くたてて、縁側から部屋を覗き見た誰かが言った。部屋に入ってきたのは、黒い意匠の青年。秋田は顔を輝かせる。「獅子王さん!」
「秋田、お疲れさん」 秋田に片手をあげて答えてから、獅子王と呼ばれた青年は、布団から起き上がったその人に声をかけた。「目ぇ覚ましたって聞いたから来てみたけど、あんた結構元気そうだな」
「お陰さまで。色々抜け落ちてる以外はわりと元気です」
「なんか大変らしいな」
大雑把に言うのは特に興味がないからか。獅子王はついと秋田の方を見た。「世話任されたんだって?」
「世話?」
はて、と聞き返す声があるが、とうの秋田は「はい!」と力強く頷いて、興奮ぎみに告げる。「あの、僕、主君からお世話を仰せつかったので、僕に色々任せてください!」
「……うん? どういうことです?」
「あーなんだ、あんたがどこの誰かわかって、処分決めまでにはちょっと時間かかるだろうから」 わかっていないその人のため、獅子王が秋田の言葉に付け足した。「それまでのあんたの世話を命じられたんだ。あんた見つけたの秋田だし」
「あっでも、獅子王さんも一緒だったんですよ。僕じゃ川から引き揚げられなくて、本丸まで背負ってきたのは獅子王さんです」
「わあ、命の恩人じゃないですか」
「秋田の付き添いだったからな」
どうもありがとうございます、と頭を下げたその人に獅子王は手をふって否定する。「普段はあんなとこいかねーし。……侵入者なんてそうそうあるもんじゃない」
「へえ」 その人は驚いたように言った。「山なんて、馴染みのない人だったら立て看板とかに気づかず入ってたりもするものなのでは? で、勝手に山菜をとったり、遭難するまでがセットですよね」
「ふーん、記憶がないって割にゃ詳しいな」 獅子王があぐらに肘をついて、つまらなそうに聞く。「あんたはその口なのか?」
「まさか! 地元に山があったので、毎年そんな感じのトラブルがあった……ような」 最初こそ威勢良く返したものの、続けた言葉は尻すぼまりとなった。「なかったような……、あったかなぁ」
「いやどっちだよ」 獅子王の至極当然の突っ込みにその人は苦笑した。「どっちだろう。まぁいずれにせよ記憶がないから、その口じゃないとは言い切れませんね。むかごでも採りに入ったのかもしれないし」
思い出せないならばどちらも明言できない。可能性を捨てきれずに例を出したその人に、秋田は言った。
「いえ、それはないと思います」
「どうして?」
「簡単に入れる場所じゃないんです」
秋田は断言したが、その人は目をしばめかす。年端もいかぬ見目のこどもの言葉を、よくわかっていないようだった。秋田の横で獅子王が同意した。「だから侵入なんて前代未聞なんだよ」
「そうか……。では先駆者と、パイオニアとなってしまったのか……」 断ずる響きに、最初こそ首をひねっていたが、取り繕うように深刻そうな顔をつくって呟いたその人に、獅子王は呆れ返って白い目を向けた。
「……あんた、ずいぶん暢気だな。死にかけたってのに」
「まぁ」 その人は、うーんと首を傾ぐ。「目が覚めたら布団のなかだったから、そんな自覚もないといいますか」
「突然知らんところで寝っころがってて、記憶も曖昧ときたら、すっげぇ不安になりそうなもんだけどなー」
「けっこう不安ですよ今。見えません?」
「そうなんですか?」
秋田の問いにうん、とその人は頷いたが、彼らを見て、ちょっと言葉を足す。「でも、なんか夢見てるみたいだし」
「夢ぇ? なんだそりゃ」 訳がわからないといった様子の獅子王に、その人はハハハと笑って濁した。
「あのですね」
「はい、何ですか?」
「僕、お世話役になりました」 秋田はおずおずと切り出す。「でも、あなたのことを何て呼んだら良いかわかりません」
「ああ確かに」 声をちょっと落とした秋田の言葉に、その人は気づかなかったとこぼす。名乗られたら名乗り返すのが道理であろうとも、如何せん名乗れるものがない。
「名も忘れてるんだったな」
既に話を聞いていた獅子王は、難儀だなぁと呟いて、「まぁ、呼ぶには不便か」と言った。
「好きに呼んでくださって構わないですが」 特に考えてもいなかったその人は返すように秋田を見たが、秋田は少し頬を膨らませて抗議した。「そんな、わかりにくいです。何かありませんか」
「何かって言ったってなぁ」
「呼称はひとつの方が通じやすいしな。あんたが決められるんならその方がいいだろ」
「はぁ」
気のない返事だった、名前など必要性を感じていないようだったが、しかし獅子王にも促され、しぶしぶ腕を組んで唸る。「名前、名前かぁ。パイオニーア……パイ……は駄目だな……」
ぶつぶつと呟いた後、その人は顔をあげて、秘め事みたいにささやいた。
「先駆者から、『セン』ってのはどうです」
「いいんじゃね」
平坦な声で返す獅子王は、反応は特にないようだが。その横で、秋田は目をキラキラと耀かせる。
「今からあなたの名前はセンですね!」 勢い込んで、行儀よく正座した膝に置かれていた手のひらを布団について、名を呼んだ。「センさん!!!」
「は、はいっ」 大きく呼ばれたその人──『セン』は、嬉しそうな秋田の声に駆られ、背筋を伸ばして応える。
「よろしくお願いします!!」
???「今からおまえの名前はセンだ!わかったら返事をおし!」