みっつ
「できればセンさんに色々案内したかったんです」
改めて挨拶したところで、秋田は肩を落とした。「でも、まだあまり詳しくなくて」
「嗚呼、ここ何だかすごく広そうですもんね」 便宜上、“セン”となったその人は、秋田が来る前にちらりと覗いた縁側を思い浮かべた。「あんなに長い縁側初めてみた気がする」
「とっても大きいんです! 行ったことないところとかたくさんあって、部屋もいっぱいあるんですよ」
秋田は、いっぱい、のところでおおきく手を広げた。表情がころころとよく変わる。秋田にとって、知らないことの多い屋敷は興味の尽きないもので、自然と喜色がにじんでしまう。「そっか、すごいですね」 変わらずゆるく返すセンはにこやかだったが、獅子王は訊ね返した。「なんだ、見たいのか?」
「え、見せてくれるなら嬉しいですが」 センは少し切って、言葉を選んだ。「でも、人のおうちを歩き回るのはちょっと悪いですし、良いですよ」
「そうか。うろちょろしたらまたどっかで死にかけるかも知れねぇもんな」
危ないからあんまり出歩くなよ、と縁起の悪いことを言って念押しした獅子王に、センははい、と了承した。
水差しを下げた秋田が和室に戻ると、センは敷布団をたたんでいた。センは起きてから記憶がない以外は特に問題はなく、寝そべっていた布団を畳むことにしたようだった。
秋田はそろそろ終わる作業に、後ろで座って待つことにした。その横には湯飲みと、おやつがふたつずつ。水差しの代わりに持ってきたもので、獅子王が部屋を辞したため、秋田とセンの分だ。
「そのおやつ、好きなの?」 笑みを含んだ声に、秋田ははたと顔を上げた。布団を部屋の隅にまとめ終えたセンが、秋田の手前に座る。
皿の上には練り色の茶巾しぼりがあった。大きすぎず、きゅっとしまったフォルムが可愛らしい。漆塗りの小皿にちょこんとおさまったそれは、素朴ながら上品に見える。そわそわと視線をやっていたことを指摘され、秋田は顔に熱が集まるのがわかった。「じ、実はちょっと楽しみにしてました。初めて食べるから」
照れながら吐露した秋田に、センは頷いた。「待たせてごめん」
「いえ、そんな!」 秋田は慌てて否定したあと、正座した足をもじもじと組み替えて、センを窺う。「それで、あのぉ……食べても良いですか」
「はは、どうぞどうぞ」 本来の作法なら、ここのものである秋田が客人に勧めるべきであったが。あくまで世話役として尋ねた秋田に、センは笑って促した。
「やったぁ!」
歓声をあげて、いそいそと手前に小皿を引き寄せ、いただきます、と両手を揃えて高らかに言った。添えてあった黒文字を手に取ると、はしゃいだ声を潜めて、和菓子にそっと切り込む。柔らかく沈んだ楊枝を手前に引いて現れた断面からは、甘い香りがふわりと舞って、思わずすん、と嗅いだ。胸に広がる栗と黒糖の匂いは、幸せのにおいだ。つい緩んだ頬を戻してから、ちょうどよい大きさに切り取った茶巾しぼりのひとかけらを、今度はさすように持ち上げて慎重に口許に運び、ぱくり。ゆっくりと咀嚼する秋田の顔は、引き締めてなお、じわじわと綻んでいく。
おいしい。目元はほどけて、朱がさした。二口目、三口目と同じように丁寧な手つきで食べていき、そして残ったのはきれいになった黒漆の小皿。
「ごちそうさまでした!」 ぱんっ、と手を合わせ、秋田は口の中に広がる余韻を楽しみながら、ようやくセンがぼうっと自身を見ていることに気づく。「……? センさん、召し上がらないんですか?」
センの前には手付かずの茶巾しぼりがひとつ。夢中で食べる秋田に見入って、彼が食べ終わるまで目の前にあることさえ忘れていたようだ。「とっても、とっても! 美味しかったですよ!」
「あ、うん」 秋田の弾んだ感想に、呆けた声は少し淡泊だ。センは頷いて、黒文字を取っておやつに向かい合う。そして作法にならって一口大に切り取ろうとして──、見つめていた秋田は、センと目があった。
「…………これも食べます?」
「はえっ?!」
変な声が出た。センの問いかけに、秋田は、じっくりとセンのおやつも見ていたと自覚した。勢いよく首を振る。「いえいえ!! さっき食べました!!!」 おいしかったと続きそうになったが飲み込んで、しかしそう言っているのも明白だった。
「知ってます、見てたから。でもこっちも食べたくない?」
「たっ……食べたいです、けど」 ふはっと吹き出す音がして、秋田はあっと縮こまる。言葉を呑んだ意味がない。「うんうん、正直なのは美徳ですよね」 隠しきれない笑みのまま、センは己れの前にあった皿を、すっと秋田の白いタイツでおおわれた膝小僧の前に差し出した。「どうぞ」
「えええっ」 すっとんきょうに叫んで、秋田はちょっと後ずさった。「そ、そんな……え、食べないんですか……」
「何だかあんまりお腹すいてないんですよね」 腹の辺りをさすっておどけるように言う。「だから、折角ですけど、どうぞ」
「えええ……たっ、食べちゃいますよ」 退いて崩れた正座を直して、秋田は言う。先程の位置よりも前のめりになって、おやつとの距離が短くなっていることには気づかない。
「うん、どうぞ」
「ほ、ほんとうに? 食べちゃったら、なくなっちゃうんですよ!!」
秋田の青空のような瞳が揺れ動いて、ちょっと混乱したように言った。
そうだ、これは水差しをおきに厨に戻った時に、甘やかな良いにおいがして、なんだろうと思ったら厨にいた当番の仲間が作っていた。ちょうど良いからと言って、持たせてもらったものだ。秋田をねぎらうようにやさしく笑って、今日のおやつはうまくできたんだ、と皿にのせてくれた。とてもおいしくて幸せで、だけれど、食べたら消えてしまうのだ。もっとたべられたら、おなかいっぱい食べられたら、きっと素敵だ。しかしそんなおいしいものは、皆だって食べたいものだと秋田は思っていた。
なのに、このひとは、くれるというのだ。ひとつしかない栗の茶巾絞りを。秋田が物欲しそうに見ていたから、冗談のつもりで、ちょっと言ってみただけかもしれない。それか、おぼれた拍子に、食べ物は食べたらおいしいけどすぐになくなるものだと忘れてしまったのかも。そう思って、忠告のつもりだったのだ。
「そうですねぇ」 しかし、センはのんびり頷いた。「でも、食べないのは勿体ないし。それならおいしく食べてもらえるひとに食べてもらった方が、おやつもうれしいと思うので」
「……!!!!!」
センのだめ押しとも言える言葉に、ついに秋田は陥落する。「そうか、おやつがうれしいなら、仕方ありませんよね!?」
「そうそう、仕方ないです」
同じ調子で相槌を打つセンの前で、また秋田は自分の黒文字を取って、手をぱちんと合わせた。
「では、いただきます!」
「このおやつ、厨に行ったときにいただいたんです。やつ時だからって」 二つの皿が空になり、ごちそうさま、と秋田が湯飲みの茶を飲んで、言った。
「やつ時かぁ」 時計のない部屋だったため、外の明るさくらいでしか時間を予測することができなかったセンだったが、秋田の言葉を拾って思い出したように訊ねる。「そういえば、いつ頃救助されたんですか」
「ええと、今日のお昼前でしたね。巳の刻くらい。良い天気でした」 ちらっと庭に目をやった。「もう曇っちゃいましたけど」 少し陰った庭は、陰影を薄く彩っており、やつ時というには少し暗かった。
「なるほど」 つまり、横になってから四、五刻ほどで目を覚ましたということだ。センが己の頭、髪に触れる。肩くらいまでの長さの黒髪は、水分を含んで少し重く見える。ちょうど部屋に吹き込んだ冷たい風に、センは身体を震わせた。「……さ、さむいかも」
「あっ、そうですよね。気づかなくてすみません」 秋田は頭を下げて、立ち上がった。「湯の用意をしてきます」
「お風呂、お借りして良いんですか?」 鳥肌の立つ腕をあたためるようにさすったセンが、驚いたように聞き返した。
「勿論です! じゃあ、ちょっと行ってきます」
そう言って、秋田は部屋を出た。
案内したのは、屋敷の広さに負けない大きな浴場だ。一通り風呂場の説明をした後、秋田はごゆっくり、と風呂を出た。思い立ったことがあったのだ。
残されたその人は、身を清めると、ゆらゆらと湯気が立ち上る銭湯のような広さの浴槽に身を沈めた。じわりと手足の末端がしびれ、温まっていく。身体が随分と冷えていたのだ。
「いい湯だ……」
口からこぼれて、やっと人心地ついたその人は己れのおかれた状況を思った。
記憶がない。名前も生まれも曖昧だ。なかなか由々しき事態だが、不思議と平静だった。起きる前までのことはおぼろげなのに、起きてからのことはしっかりと反芻できるから、頭が寝ているわけでは──この事態が夢ではないことだとも気付いていた。
夢ではないけど、夢が良かった。どう考えたって訳がわからない。生まれつきのように綺麗な金髪金眼の青年は置くとして、桃色の髪に空色の瞳をした少年、そしてロボットにしては自由によく動く狐のような何か。すらすらと聞こえる言葉はちゃんと日本語で、しかし時おり混ざる古風な言葉。どちらも何やら奇抜な格好だったし、何より、腰に何故か武器のようなものを下げていた。
コスプレした外国人で、不思議な言葉遣いは何か作品の影響だとかで、武装していたのもその一貫。鞘の中は空洞や竹光とか。理由を様々に考えてはみるものの、どうにも違和感が拭えない。秋田の『主君』やこんのすけの『政府』、そして獅子王の『処分』という言葉。設定とするには真に入りすぎていて、端々に漂う“ホンモノ”のような雰囲気がある。そもそもこんのすけという狐の紛い物は機械にしてはひどく高度に見えたし、伸びる廊下や風呂だって尋常でない広さを誇り、遊びの作り物にしては金がかかりすぎているように見えた。
大規模な企画や金持ちの道楽だと仮定して。己れの身を振り返って、記憶が抜け落ちていることをおかしく思う。己れのみに関する重要な情報やここに到った経緯は悉く思い出せないくせに、変な知識とかは残っている。まるで、大事なことだけ“わざと”消されたみたいに──
「……はは」
そこまで考えてから、考えを追い払うように頭を振った。思考回路がミステリやサスペンスに傾いていると感じ、呆れて笑った。彼らの迫真の演技にあてられたのだろう、と。
下手に深く考えすぎて、少しのぼせたようだった。シャワーで軽く冷水を浴びて身体を冷ますと、浴場を出る。
彼らがなにもので、此処がどんなところであっても、きっと命を拾ってくれたことは確かなことだ。その感謝を忘れて、疑うのは失礼だ。
だが──
「……はやく戻れたら良いなぁ」
そう思ってしまうのは、おやつがうれしいのと同じく、仕方のないことだ。