懇願


『あんた、今年の盆くらい帰って来んしゃい』


 電話口に響く女性の呆れた声に、この台詞を聞くのも何度目だろうと思う。
 考えても答えが出ないのは、もう長いこと故郷に帰っていない証拠のような気がした。


「んー…帰れたら帰るよ」
『そうゆうってこつは、帰ってくる気ないやろ』
「仕方ないでしょ。こっちだって働いてるんだから」


 今は夏になる少し前。梅雨も明け、じっとりと汗をかく季節。纏わり付くような生温い空気がなんともいえず、自然と帰宅の足も速くなる。

 左手に持つコンビニ袋の中で冷えた缶ビールがガサガサと揺れるのを感じながら、目の前で点灯する赤信号に足を止めた。
 なんとなしに見上げた空にはポッカリと夜空に穴を開ける丸い月があって、あぁ今日は満月だったのかと意味もなく思う。


『ちょっと、ちゃんと聞いとー?』
「聞いてる聞いてる」


 せっつく声で現実に引き戻され、変わる青信号。
 もう少しで家に着く。どうやってこの電話を切り上げようか考えながら一歩踏み出した――その瞬間…。



 ――パチン…ッ

「…っ!」


 火の粉が弾ける音で目が覚めた。
 長い年月をかけて掘られたのだろう穴蔵は、篝火に照らされ橙色に染まっている。
 獣の皮で作られた敷布と掛布は薄手ながら十分温かい。

 炎の加減でゆらゆらと揺れる影を眺めながら、早足で消えていく夢のことを考えた。それが自分を知る唯一の手がかりだと思えたから。

 けれどいくら繋ぎ止めようとしても夢の残像は欠片すら掴むことが出来なかった。


「起きたか」


 気配で起きたことを察知したのだろう。
 己に掛けられた嗄れた声は、雪の中から助け出してくれたそれと同じ。
 感情の色が全くない声の主に礼を言わねばと重い身体を持ち上げたその瞬間、突然の激しい耳鳴りと頭痛が一気に我が身を襲った。視界がぐにゃりと歪んで目が回る。


「(なんだ、これ…)」


 自分が持つ五感の内「視覚」「嗅覚」「聴覚」「触覚」の4つがフルに活動している、そんな感覚だった。

 自分のいる洞窟だけではない。
 洞窟の外。まるで空を飛ぶ鷹のような視点で山の形や周囲の状況が見て取れる。立体的な俯瞰図が脳内に広がっていくようだ。

 その圧倒的な情報量に体が、脳が、悲鳴を上げた。
 ドンドンと心臓が異常な強さで脈打ち、排出された血液が体内を暴れ回る。胸を握り拳で押さえても、俯いて瞼を閉じて耐えてみても治らない。

 熱湯のように滾る血で世界が赤く染まりかけた、その時…。


「呼吸を止めるな、馬鹿タレが」


 ガツンッと後頭部に走った衝撃に、カハッと口から乾いた空気が漏れた。
 そして大きな咳と共にヒューヒューと荒い呼吸音が響き、漸く肺が動き出したことを知る。


「そのまま呼吸を続けろ。ゆっくりだ。大きく吐け。それから吸え。焦らず、ゆっくり」


 ゆっくり、ゆっくり。吐け、吸え、ゆっくりだ。
 呪文のように唱えられる言葉に合わせて呼吸を繰り返す。
 少しペースを乱そうものなら直ぐ様頭に拳骨が落とされた。苦しんでいる人間になんという仕打ち。苦しいと痛いの上乗せで涙が滲む。
 でも乱れのない指示のお陰で徐々に呼吸が、そして滾る血液も脈打つ心臓も落ち着きを取り戻してきた。

 感覚は研ぎ澄まされたままで違和感は消えないが、我慢出来ないほどではない。


「…おねがい、します…!」


 なんとか身体を起こせるまで回復した直後、私は礼を伝えるより先に頭を地面に擦り付けていた。


「お願いします…教えてくださいっ」
「……お前は私に何を教えろと言うのか」


 驚きと、僅かな怒りを滲ませた声に全身が震えた。
 けれど私の本能が告げている。

 この人に、何がなんでもしがみ付けと。
 それが全てを失った己を知る道標なのだと。


「私には…何もない」
「………」
「己の名前も、今までの記憶も、なぜここにいるのかも分からない。なんにも、ないんです」
「………」
「でも貴方に付いていけば、得られる何かがあると思いました」


 確証は何もない。
 だけど心の底から湧き上がる気持ちが、その証拠のように思えた。


「私にこの世界を生き抜く術を教えて下さい」
「………」
「お願いします…!」


 胸に迫る吐き気を飲み込んで頭を下げ続けた。





「…頭を上げろ」


 どれほどの時間が経っただろう。
 その声に先刻まであった怒りの感情はなくなり、代わりにどこか諦めたような呆れた声が降ってくる。

 ゆっくり頭を上げると、そこには僅かに険しい表情で唇をぎゅっと結ぶ男の顔があった。
 浅黒く日に焼けた肌には年の功を感じさせる深い皺が刻まれ、こめかみから顎にかけて伸びる白髪混じりの無精ひげが無用の威圧感を生み出している。

 けれど瞳は冷たさの欠片もない、夕焼けのような温かい色をしていた。

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