それは近くに
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それが師匠の口癖だった。
そしてその言葉は、実に的を得ていると思う。
「右…右…左……うえ!」
山頂からの下山修行では罠の位置や速度の把握が可能となり、刀で防ぐことも容易に感じるほど身体能力が上がった。
毎度も溺れかけ、数えきれぬほど三途の川を拝んでいた滝修行も、一刻潜って漸く苦しさを感じるまで心肺機能も飛躍している。筋力強化中の漬け物石だって苦ではない。
日々人間離れしていく自分を感じていても、師匠に一本決める事が出来ないまま月日は流れた。型を覚え、常中を習得して半年経った今も変わらない。
「ヒュゥゥゥウゥウゥ――…」
「芯は岩のように、動きは空気のように、精神は鋼より強く持て」
「…参る!」
「来い」
「はぁぁぁぁああぁあ!!」
「ふん!」
――パカーンッ!
「…今日もダメだった」
師匠に一本決められてズキズキ痛む顎を撫でながら、すっかり春の色が濃くなった山を降りる。
今日も今日とて宙に舞った私の敗戦記録は、また正の字を作ってしまった。
いったい何がダメなのか。師匠と自分では何が違うのか。足りない頭で考えても「これだ!」という答えは導けないまま。
使う呼吸は一緒。型も同じ。間合いも、切り込む一歩も不足ないはずなのに勝てない。
成長していないわけではないはずだ。それは間違いない。私は成長出来ている。だけどどんなに努力して鍛錬を積んでも、師匠の前ではそれが無になってしまうのが悔しくて…。
「焦るよなぁ…」
このまま一本も取ることが出来ずに終わってしまうのか。一生未熟者のままなのか。そんなのは絶対に嫌だという、溢れだして止まらない不安と焦燥感が胸に渦巻いて気持ちが悪い。
「花香ちゃん」
悶々と考えているうちに、どうやら山を降りきっていたらしい。
掛けられた声にハッと顔を上げれば、そこには微笑んで私を手招く農家の奥さんの姿があった。
その村は私が暮らす標高の高い山では育たない作物や米、生活に必要な日用品を買うために週に一度ほど顔を出す場所である。
いつも私が村に来たときは、決まって騒がしい農家の遣手ババが出迎えてくれていた。しかし今日は珍しくその姿がない。
「こんにちは。あの…」
いつも「遣手ババ」と呼んでいたせいでババの名前が思い出せず口籠る私に、奥さんは「ふふっ」と笑うと眉尻を下げた。
「お義母さん、もう居ないの」
「…え?」
「三日前に畑で倒れて、そのまま逝っちゃったわ」
今では馴染みになった遣手ババ。
初めて私が村へ来た日なんて、そりゃもう怪しんで「どっから来た」「何しに来た」と激しい質問攻めにあった。
慣れてからは私の色の抜けた髪を見れば「どこぞの雪女だい」と顔を顰めながら「白には朱が映えるんだよ」と紅い蜻蛉玉のついた簪をくれた。「あんな山に住むなんて物好きだねぇ!」と大声で喚いては「コレも持っていきな」と手製のおはぎを包んでくれた。口うるさいが面倒見のいいババだった。
『あたしゃ100まで生きるよ!』
そう息巻いていたババが…。
「死んだ…?」
「そう。呆気ないわよね」
「ほんと…呆気ないったら」と震える声を追うように零れ落ちた涙に、ババの死は嘘でも冗談でもないのだと思い知らされた。
「フラフラしてっと鬼に食われるぞぃ」
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