透明を知る


「準備はいいか」
「…はい」


 村から帰ってからずっと考えていた。
 自分という存在のこと。過去の記憶がない原因。
 己の意思に反して感覚が研ぎ澄まされてしまっている理由。情報の選び方。受け止め方。

 考えて、考えて、1つ1つの糸が絡まりあい固く結ばれたところで、考えることを止めた。

 ジジも言っていた。
 目の前にあることから目を背けたり、逃げたりしないで見据えたうえで受け流せばいい。
 そこにあるものを当然として受け入れる。水草のように無駄な力は抜いて、己は己のままに生きていく。

 そうと決めたら心が軽くなって、不思議と迷いが消えた。
 まるで曇天から1本の陽射しが差したように、心に筋が出来た気さえした。


 そしてこの日。
 いつものように一本稽古を行うに向かえば、木刀ではなく真剣を握った師匠がいる。

 驚く私に師匠は何も言わない。
 その無言が『今日が最後だ』と伝え、私は顎を引いた。


 間合いを取り、刀を構える。
 シン…、と静まり返る空間に響くのは、互いの呼吸音のみ。

 大きく息を吸い込んで、瞼を閉じた。
 その瞬間、視覚以外の聴覚・嗅覚・触覚の糸が張り巡らされていく。

 全集中の呼吸によって大きく開いた血管を通り、血が巡る。
 キンッと張り詰める空気をすべて吐き出してゆっくりと瞼を開いた。



 そこには透明な世界が広がっていた。

 木も、岩も、雪もない。
 ただ真っ白な空間に、ぼんやりと浮かんでいたのは人の形をした何かだ。
 心の臓から吐き出された赤が力強く走り、それが人の形を作っている。

 その赤が、ゆっくり動いた。


 ――キィィィイン…ッ

 薄い刃が激しい音を立てた。
 弾かれた刀は空を切り、積もった雪に突き刺さる。

 「ハッ」と短い息が口から出ると、透明だったはずの景色はいつもの雪山に戻っていた。
 そして正面には向き合った最初の姿勢のまま刀を失った師匠がいる。

 驚くわけでもなく、憤るわけでもなく。
 ただ静かに見つめていた師匠が目元をふっと緩ませると、小さく告げた。


「見事だ」


 その一言で理解する。
 私は、今、初めて師匠から一本を取ったのだ。

 やっと、取れた。


「…っ…」


 じわじわと迫る実感に息が詰まる。
 熱くなる目頭に決して泣くまいと鼻筋に力を込めた。


「ありがとう…っ…ございました」


 それでも堪えきれず落ちた涙が頬を伝う。
 いつの間にか近くまで来ていた師匠に肩を抱かれ、嗚咽が零れた。

 感謝と、喜びと、驚きと、色々な感情が溢れて苦しい。
 そんな私を師匠は何も言わず、ただただ抱いてくれていた。


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