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──── 大丈夫じゃないのは分かったから、なにかあるなら吐いちまいなさいよ
そう笑いながら告げた彼女から、カラン、と氷がぶつかる涼し気な音が聞こえてきた。彼女は私とは違って甘いものは好まない。もちろんその中身が夏らしく氷で冷やされた麦茶である可能性は大いにあるが、その音を聞いてようやく合点がいった。
やけに愉しそうな声も、急に懐古したのも、呑んでいるかららしい。
「こんな時間からお酒? 肴が私の相談?」
「あら、相談してくれるっての? 話してくれる気もなさそうなのに」
押し黙った気配を感じ取った親友はまたケラケラと笑った。いくら大人の女になろうと、一児の母になろうと、その笑い方は高校の時から変わってはいないようでどこか安心している自分がいる。
いつも対等に歩いていたはずの親友が今では二歩も三歩も先を歩いているような感覚をずっと抱いてきた。旦那さんに彼女という存在を取られた、というのもあるかもしれない。
学生時代という良くも悪くも狭い世界で私たちは間違いなくお互いしか見えていなかった。
もちろん他にも親友と呼べる子達はいる。いつだってその子たちと、そして彼女と遊んでいたし、どこでなにをするにしてもいつも一緒だった。
変わらず四人で。けれど電話の向こうの彼女だけはやはりどこか特別だった。それは他の子とは違う、小学校からの付き合いという年月故か、はたまたおそろしく気の合う性格のせいか。
「聞いてほしくなさそうなら掘り下げはしないけど、そうじゃないっぽいし。今日なら私、いくらでも時間あるわよ。お酒に強いの知ってるでしょ?」
「卒業と同時にめっきり会わなくなったくせに。成人式以来じゃない。あなたの強さなんて忘れちゃった」
「酷いこと言うわねェ。あの時にあなたの介抱したのは私よ? あなたってば早々に潰れちゃったんだから」
成人式という一回きりの行事で羽目を外し、人生初めてのお酒に酔い潰れるのは一種の通過儀礼である。なのに彼女は一向に酔うことなく、ひとりケロッと飲み進めながら、大人の仲間入りを果たした祝いの席という同じスタートラインのはずなのに、文句ひとつ言わずに結局私の介抱に終始付きっきりだったような記憶がある。
ほどよく昔話に花は咲くけれど、そこから脱線はしない。彼女がそうはさせないとしていることを理解して、そして意地でも聞き出そうとしていることを理解して、無意識に視線は部屋へと向いた。マルコさんが眠っている部屋へ。そして溜息を吐き出す。
「……もし、もしの話しよ。例えばの話し」
「例えば、ね。いいわ」
「……もし、私が、そうね、どこかすっごく遠い、日本の裏側に行くことになったとして、電話も使えないような国に。えっと、そうなったら、え、と、」
そうなったら、彼女はどうするのだろう。私はどうするのだろう。どうしてこの例え話にしたのか、結末を、話の落ちをどうするつもりだったのか、考えていたはずのそれらは頭から消えて、意味のない言葉の羅列しか出てこない。あれ。私結局、なにが聞きたかったんだっけ?
彼女の息遣いと、氷がぶつかる音を何度目か聞いたとき、彼女がコトリとグラスを置いた。
「あなた、嘘も下手なら例え話も下手ね……。その誰かに自分を置いた下手くそな例え話はやめて、正直に話しなさいよ」
思わずゔ、と唸ってしまう。ばっさりと切り捨てられて、自分ってこんなにも嘘のつけない生き辛い性格をしていただろうかと見つめ直しすらしそうになった。彼女よりも遥かに社会経験は多いはずなのだが、親も親戚も知人すらもいない遠い場所で、たったひとり子供を産み、育てた彼女は私が思っていた以上に、それこそ私よりも遥かに大人であるらしい。
もう一度溜息を吐き出して、今度こそ言葉を紡ぎ直した。
「あのね、知り合いがもうすぐ帰ってしまうの。帰ってしまったらもう二度と会えないし、電話だって繋がらないような所に。でも絶対、あの人には帰らなくちゃいけない理由があって、私は笑ってお別れをしなくちゃならなくて」
「へえ、ずいぶんと辺境なのねぇ」
「……そうなの。でも私は別に、知り合いが帰れて嬉しいのよ。もちろん寂しいのはあるけれど、本当に、嬉しいの。すごく帰りたがっていたから。ようやく、帰れるから」
そこから包み隠さず私の心情を吐露した。
話し終えるころにはマルコさんはどこか遠くの国に国籍を持った在日で、ご実家から勘当かそれに近いことをされ行く宛てがなくうろついていたところを私が家に置き世話をした、という
私の現状を把握した彼女は穏やかにひとつ相槌を打ち、次いで飛んできたのは私が求めたようなアドバイスや意見ではなく、甲高い怒鳴り声だった。どうやら私が“あの人”と呼んだからにはそれが成人男性らしいと彼女は感づき、私の無防備さについてお冠であるらしい。
たしかに見ず知らずの男性を一人暮らしの家に上がり込ませるだなんて。こんな話を聞いて穏やかでいられるほど私達の知識や経験は子どもじゃない。けれど本当のことなど言えず、その説教は甘んじて受け入れる他なかった。
数十分の怒涛のような言葉が呆れた声に変わり、「まったくもう」という彼女の言葉でようやく終わりを迎えたらしい。学生時代とは立場が入れ替わった現状がどうにも居心地が悪い。もちろん今回の小言に関しては私が悪いのだし、彼女は純粋に私を心配しているからこそ故の怒り。私が言うべき言葉は謝罪以外ないのである。
「……で。そんな彼に、あなたが何を遺してあげられるのかわからなくて悩んでるってわけ」
「ぇ……、と、」
「正直、今のご時世に住む家のない男一人を拾って世話してやって、なにも遺せてないだなんて泣き言、私なら鼻で笑うところだけど……あなたなのよねぇ」
たしかに私も、これが他の子であれば十分だと同じ言葉をかける。間延びした長い唸り声を電話越しに聞きながら、やっぱり相談しない方がよかったかな、と後悔し始めた時、彼女が再び口を開いた。
「でもまあたしかに? ヒモ男が自分を忘れて親のスネかじりになるってんなら、世話したお優しい女のひとりくらいは未来永劫、覚えといてほしいわよねェ」
ヒモ男で親のスネかじり。マルコさんの存在がどんどんと酷い認識になっていて非常に、それはもう非常に申し訳ない気持ちで一杯になった。現実のマルコさんはそれはもう頼りがいのある男性なのに。けれどもそんな人物像を彼女はつゆ知らず、しかし訂正もできないそれに曖昧に笑うことしかできなかった私をどうか許してください……。なんて、見えもしないのについマルコさんがいる方向に目を向け、顎先を片手で擦りながら謝っておいた。心の中で。