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彼になにかを遺したい、というよりただ私はマルコさんに忘れてほしくないだけなのだ。こんな出来事を簡単に忘れてしまうほど薄い日々であったとは思いたくはないし、そう思うような人でないのもわかっているけれど、どれだけ強烈な出来事も時間というものはそれを薄れさせていくものだ。
ましてこれから先にある何十年という歳月の中での、たった何日か過ごしただけの女のことなぞ、誰がいつまでも覚えていてくれよう。
最初は声を。次に顔を。最後には思い出を。“私”という証がなにもないあの波乱万丈な世界で、どうしてか彼に忘れられてしまうということを考えると、とても胸が痛くなる。
私には彼の生死も最期の生き様すらも届かない。彼には私の生死も最期の生き様も届かない。死んだことすら知られず、マルコさんから……私から記憶が薄れて、忘れられるだなんて、なんだかそれは……それはとても、つらいことじゃないか。
忘れることのないような何かを。忘れられることのないような思い出を。世界を越えても覚えていてくれるような。
それをそのまま彼女に言ってしまうことはできないけれど、さすがは二桁になる年数を共に過ごしてきた彼女だ。私の言わんとしていることは伝わったらしい。
「電話ができれば苦労ないんだけどねぇ……いまどき、どの世界でも電話くらいあるでしょう。アマゾンの奥地にでも住んでるの?」
「う……いや、……その、漁師、だから」
漁師(海賊)。物は言い様、を遥かに超えた言い訳だが、口から出てきたのはそんな誤魔化しだった。
「あらなんだ。スネかじりじゃあないのね。なるほど、電話もできないわけ。……人ってね、声から最初に忘れて、次に顔。最後に忘れるのは思い出、って知ってるっけ?」
「……あなたから教えてもらった」
「あら、そうだっけか。まあとにかく。逆に覚えているものはね、音や匂いだそうよ。たとえ忘れたとしても、記憶の引き出しにはちゃあんと仕舞われてるもんなの。強烈なもんなら、どれだけ時が経とうと思い出すもんよ」
──── 匂いや、音。印象付けやすい匂いと聞いて真っ先に思い浮かぶのは香水だけれど、あまり夏場に付けるようなものではない。シャンプーや自然の匂いなどはとくに記憶に残るらしいとは以前教えてもらったから、お高いシャンプーでも買えばいいのだろうか。
「記憶を司る部位はね、
「……う、ーん……」
「まあ、どっちも覚えさせてやろう! って意気込んでやろうとするもんじゃあないしねェ。本人も、なんの匂いでなにを思い出すかなんてわかんないもんだし。あとはもう、手っ取り早いのは楽しませることくらいよ」
「……楽しませる……?」
ぱちり。目が瞬いた。専門用語を出してきたりしたわりに、最後の助け舟がそんなことだなんて。想像すらしてなかったそれに思わず聞き返した。
「そりゃあ人間、楽しかった記憶はそう忘れるもんじゃないでしょ。まあ恐怖体験も同様だけど。そんな辺境の海外じゃあ日本はどれも未知のもんでしょうし、楽しませて楽しませて、もう実家になんざ帰りたくないって言わしめるまで楽しませりゃいいのよ!」
──── 押して押して、押しまくればいいのよ!
ふと高校生活の一幕を思い出した。たしか私が好きな人に中々声をかけられずにいた時、彼女がそう言ったのだっけ。その言葉通り、彼女は彼女自身の好きな人に猛アタックし続け、今やこうして幸せな夫婦になっている。根底にある性格や思考というものは中々変わるものじゃない。やっぱり電話の先にいる存在は彼女で間違いないのだと至極当然のことを思い直すと小さく吹き出してしまった。
「なあに?」
「あなたってばなにも変わってない! ふふ、嬉しくなった」
「なによ、変な子ね。私はいつだって私のままだわ!」
大声を出さないように控えめに笑いながらここ最近の出来事を思い出す。マルコさんも私も初めてのことで不安を抱えてばかりいた。書物からもなにも見つけられずただ焦って、一番焦りたいはずのマルコさんは必死に冷静であろうとして。マルコさんの能力が暴走して土砂降りの中奔走して、“楽しかった”と思える日が一日とてあったろうかと考える。
最初こそ仕方なかったとはいえ、今や無事になんとかなったのだから、マルコさんが帰るまでの間はめいいっぱい遊べる時期だ。部長から連休を言い渡されたときは肩を落としたものの、ころっと手のひらを返してお礼を言いまくりたい気分である。
そしてもちろん、彼女にも。
「……ありがとう」
「ふふ、どういたしまして。ただなまえが、なんだかずいぶんな男に引っかけられちゃったことは納得いかないけれど」
「ひっかけられた、って」
それはつまり。
「スネかじりじゃあないようだけど、今ヒモなことに変わらないんでしょ? そんな人に恋するような子だったっけ?」
恋、だなんて! 思わず否定の言葉を大きな声で強く言ってしまって、響いた声に慌てて口を塞いだ。そっとマルコさんが眠る部屋を窺うが物音はしない。どうやらまだ起きていないらしい。ほっと一息吐いて、なぜか笑ってる彼女を電話越しに睨みつける。もちろん向こうには一ミリも伝わってないのは承知の上である。
「恋じゃない……! ただ、なんというか。べつに、好きなわけじゃ……っ」
「男女がひとつ屋根の下よ? なにもないってことないでしょ」
「なにもないったら!」
事実、彼にそう言った感情が出たことはない。酒の席でのことはあるがあれも単なる事故のようなもので、ハッキリと“色”が混じったことはないし、私もない。それにマルコさんほどの男性が私に手を出すほど見境ないはずもない。その必要すら感じない、きっと異性に困ったことなどないような男性なのだから。
私の声色に誤魔化しや嘘といったものがないと感じ取ったのか、彼女は落胆したような声を出した。
「楽しい恋バナが聞けると思ったのに」
「……もう、何歳よ。高校生じゃないんだから」
いつまで経っても女は若くいたいのよ! だなんて鋭い声が飛んできて、それならばと、今度は私が揶揄いの声を出す。
「あなたこそ、旦那さんとの惚気話、してくれたっていいのよ」
「ちょっ……っ、いやね! いまさら惚気もなにもないわよ!」
たしかに旦那さんは愛妻家ではあるが、同時に彼女も旦那さんのことをずいぶん好いている。その証拠にこの話を出した途端電話口であたふたと慌てふためいていて、テーブルに足でもぶつけたのか叫ぶ彼女の声までもが聞こえてきたのだから、笑ってしまったのも仕方がない。
私の身近で理想の夫婦像と言えば、自分の両親を除くと間違いなく彼女たち夫婦だった。
恋愛は楽しいわよ、とかつての彼女が言っていたことをふと思い出す。たしかに今の彼女を見ればそれがどれだけ楽しく、どれだけ幸せか、話を聞いているだけで伝わってくる。もちろん恋愛が楽しいばかりでないことも知っているけれど。
脳裏にちらつく金色の影を必死に追い出しながら、結局彼女から話される砂糖すらも吐いてしまうような甘い長話に耳を傾けた。