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楽しませる。
三時間近くにも及んだ長電話の履歴をずっと見つめながら、親友たる彼女に言われた言葉をもうずっと反芻していた。
楽しませる。ずいぶんと難しい課題である。たとえば彼がほんの小さな子どもだったら。
遊園地、美味しいご飯、水族館、デパートの中にある子どもの遊び場でもいい。もし彼が子どもだったならさぞ喜ぶことだろう。ほんの小さな子どもを楽しませることにおいては、大人の財力をもってすればなんの苦労もしない。
けれど当の本人は私よりも年上の男性である。そんな相手を楽しませる、だなんて。
ネットには“年上男性を楽しませる食事”なんてものが載っているが、今更ドレスコードを身にまとってお食事だなんて、なんだか違うような気がしてサイトを閉じた。
一時間近く悩んでもこれといった案は浮かばず、ひとまず考えすぎた頭を休ませようとキッチンに降りて湯だし用の紅茶パックを手に取った。今の時期だと冷房の効いた部屋じゃないと熱い紅茶なんてとても飲めたものではないけれど、冷ました紅茶よりも温かい紅茶の方が好きなのだ。ミルクと砂糖を何個か落として、吐いた息でいくらか冷ましたあと口を付ける。
途端にほんのりと甘い味が口内に広がって、思わずほっと肩を下ろした。何度か口に含み、冷房で冷えた体が程よく温まったおかげなのか、気持ちがリラックスしたおかげなのか。いつだったかマルコさんが話してくれた寝物語のひとつを思い出した。
──── 宴を好まない海賊などいないという言葉通り、白ひげ海賊団もまた、喜ばしい話題が飛び込んでは宴をしているらしい。特に船長たる白ひげ本人が無類の酒好きらしく、ナースたちに止められようが構わず呑むひとで、
そんな喧騒の中で家族に囲まれながらふと見上げる空。その一面にまたたく煌びやかなあの星々たちがどうしようもなく美しく、なにより美しく、己らを照らしてくれるあの風景が好きなのだとマルコさんは教えてくれた。
街灯のない広大な海の世界から見る星はそれはもう、もう一つの深海のように夜空を飾り立てて、比ぶべくもなくさぞ綺麗なことだろうがこちらの世界とてそう負けてはいない。
今日は生憎の雨。けれども明日の晴天予報を思い出して、さてと笑みを浮かべる。──── 涼み酒と洒落こもうじゃないか。
さっそく物置部屋に数年放置してあったブルーシートを取り出し、その際に舞った埃を手で払いながらカバーをそのままにベランダのすぐそばへ乱雑に放り投げて、そのまましまってあった小さなミニテーブルを取り出す。こちらも埃をかぶっているが汚れなどは見当たらない。さすがにこれは放り投げるわけにいかず、ゆっくりとブルーシートの隣に置いた。
冷蔵庫を覗くとお酒のストックは普段ほとんど飲まないこともあってほぼ無い。マルコさんと以前飲んだ分の残りが一、二本ある程度。今日の買い物メモにお酒と何個か食材も書き足していく。簡単なおつまみレシピを適当にネットで探しながらひとり慌ただしくしていると、欠伸を零して首裏を掻きながらマルコさんがリビングに顔を出した。寝起きであってもイケメンなその姿を視界に入れて、開けっ放しの冷蔵庫を閉めて話しかける。柱時計はちょうどおやつの時刻を指していた。
「よく眠れた?」
「あぁ、驚くくらいに眠れたよい。……で、お前さんはなにしてんだい」
ちらりと視線が向いた先はブルーシートとミニテーブルが置かれた床。本当、寝起きのくせによく周りを見れる人だ。
訝しげに細められた目のまま近寄ってきたマルコさんは私の髪に手を伸ばし、どうやら引っかかっていたらしい埃を払ってくれた。
その埃を手に持ったまま視線を何度か彷徨わせ、物置部屋の扉が開いているのを見つけると視線を私の方へ戻し表情だけで理由を尋ねてくる。本当は全ての準備が終わってから告げたかったけれど、白状するしかないようだ。
「──── 涼み酒よ。よかったら明日の夜にでもやろうかなと思って。満天の星空ってわけにはいかないけれど、うちのベランダなら風流を感じられるくらいには見えるのよ、星」
ほんの少し輝いたように見開くマルコさんに双眸に笑みを零した。窓の外から見える雨足はいくらか弱まっているし、雷の音も聞こえない。いまくらいの雨なら僅かばかりに浮き足立っているマルコさんを伴って少し大型のスーパーマーケットに行くのもいいかもしれない。日本酒を嗜んでもらいたいというはやる気持ちのまま、車のキーを手に取った。
◇
春は花見酒。夏は涼み酒。秋は月見酒。冬は雪見酒。日本らしく風流な飲み会として大昔から楽しまれてきた。
マルコさんの世界には厳密に言えば四季、というものはないとのこと。春島、夏島、といった島ごとによって季節があるらしく、一つの島だけで月日と共に四季が移り変わるということはあまりない。花見酒といったもの自体はあるらしいが、好きな時に宴をするのが海賊ゆえに、こういった風流を大事にしながら飲む酒というのはやはり馴染みがないらしい。
「まあ、日本人はそういう移り変わる季節……四季をたいそう愛しているからでしょうね。ほかの国にもあまりない文化なのよ」
さすがに五節旬酒を嗜むほどのひとは周りにはいなかったが、身内でも花見酒や月見酒はよく楽しんでいたのをぼんやり思い出しながら、口の広いグラスに注いだお酒を波立たせる。
酒が飲めるようになった歳になってからも身内のようにアルコールに強くなることはなく、ビールや焼酎といったものは未だに好んでは飲めないままだけれど、缶チューハイで満足できるのは安上がりで気に入っている
「季節を愛するたァな……まァいいもんだよい」
ふたりだけのこの小さくて静かな宴を、顔や態度には一切出さずともずいぶんと楽しみにしていたらしいマルコさんは上機嫌で日本酒を煽った。
つい昨日スーパーマーケットで大量買いしたはずのお酒たちはたちまち空瓶となってブルーシートを敷き詰めたベランダに転がっている。
ミニテーブルの上に飾り立てたおつまみを時折口に放りながら酒を水のように喉奥に流し込んでいたマルコさんだったが、意外にも気に入った酒は日本酒であった。馴染み深いはずのビールや蒸留酒ではなく、マルコさんからしたら度数が低いはずのもの。
味見程度くらいに飲んでほしいとしか考えていなかったし、なにより私自身も飲まない日本酒はあまり本数がない。それを味わうように、なくなるのが惜しいと言わんばかりにチビチビと飲んでいる姿は気分がよくなる。なんせ日本の酒。それを気に入ってくれるというのは嬉しさを感じるには充分だった。
日本人たる私は日本酒を嗜める口ではないものの、嬉しいと思うくらいにはこの国が好きなのである。マルコさんに倣ってジュースのように甘ったるいチューハイを一口嚥下した。