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「ねえ、マルコさんのところって空に島があるのよね」
互いに良い感じに酔いが回った頃。暗い夜空にポツリと浮かぶ月を見てマルコさんの話しを思い出した私はそう尋ねていた。
いわく。雲よりも高い場所には空島という大きな島があって、またその逆の海の底には魚人島という島がある。それ以外にも大きなシャボン玉がいっぱい浮かんでいる島だとか、水の上に家が建つ水上都市だとか、虹色の霧が出る島だとか、この世界に生きていれば到底考えられないような島々ばかり。せいぜい水上都市くらいが唯一想像できる話である。
「あァ。仲間にゃ人魚はいねェが、魚人ならいるよい」
「ねえ、人魚は歌うの? この世界にはセイレーンって言って、鳥と人魚が混合したような綺麗な魔物が、美しい歌声を使って船乗りを殺す物語があるのよ」
大学の講義で取り上げられた神話のひとつにセイレーンがあった。ゲームキャラクターとして起用されることも多く知名度が高いということで、概要だけの、いわゆる触りの講義では説明しやすく生徒の興味を引きやすいと教授が説明していた。まさにその通りに、私はこうしてふと思い出すくらいには記憶に根付いている。
マルコさんは一度ゆるりと考えてから軽く頭を振った。
「いや……
「あら、そうなの……なら、雲の上に乗れるのは本当なの? シャボン玉に乗れたりだとか!」
「よく覚えるねィ……おれは嘘ついた覚えはねェよい」
今となっては彼の話を疑っているわけではないけれど、この世界の雲は細やかな粒子である。人が水に固形として触れぬように、水滴や氷の粒の集合体である雲に乗ることはできない、というのは常識のこと。本当に乗れるのだと再度聞いても、やっぱり想像し辛いものがある。
たとえば夏によく見る分厚い入道雲。あんなにも大きいのにその実、ほとんど実体がないだなんてまったく夢がないとガッカリしたものだ。
「素敵な世界ね……雲に乗れたり、シャボン玉で空を飛べるだなんて」
「……空を飛ぶなんざそういいもんじゃねェよい。まァ、雲はなかなか気持ちよかったもんだ。若ェ衆が大はしゃぎしてたなァ」
人間一度は空を飛んでみたいと夢見るのではないだろうか。自由に羽ばたいてみたいと。かくいう私も、小学生の頃は鳥になりたいだなんて願っていた気がする。
どうにかこの世界でも鉄の塊に囲まれることなく空を飛べたりしないだろうか。いろいろとSF世界の設定が実現されてはいるものの、マルコさんの世界に比べればまだまだらしい。
「……あ゙っ、でもマルコさんの世界にも幽霊やゾンビがいるんだっけ……?」
いつだったか、この時期に多いホラー特集番組を見ているときにマルコさんが言っていた言葉を思い出した。マルコさんの世界のゾンビは知性のない生き物なんかじゃないし、幽霊もそういう種族というような認識みたいで、そう怖がるものでもないらしいけれど。
私の中じゃゾンビはグロくてただただ怖い存在だし、幽霊は物理が効かず、自分勝手で理不尽に手足がついているような存在だ。マルコさんの世界では怖くないとしても、やっぱりその二つに出くわすのだけは絶対に嫌だなあ……なんてごちると、マルコさんから呆れたような視線を投げかけられた。
「お前さんはあいかわらず臆病だねィ。ゴーストもゾンビも知性はある。そう怖がるもんでもねェよい、あんなやつら」
「この世界のゾンビと幽霊には知性なんてないんですぅー! 私なんて、襲われたら一秒でゾンビになっちゃうわ!」
肉を噛みちぎられて痛い思いをしたあとに、ゾンビになって一生飢餓に苦しみながら彷徨い歩いて。
幽霊は死んでなお苦しみや恨みを抱えながらこの世に留まって。どっちもご免である。私が死んだあとはきちんと火葬してほしいものだ。まあ、日本というお国柄上、死後は西洋文化であるゾンビよりも白装束に黒い髪という、古来より伝わるお化けの方に成らないようにすることの方が大切な気もするけれど。
「……なあに、お前ひとり守りながらゾンビツアーなんざ朝飯前だよい。指一本触れさしゃしねェ。安心しろ」
ゆるゆると細められた両眼が穏やかに私を見据える。たしかにマルコさんならあっという間にゾンビも幽霊も鎮圧しそうだ。ゾンビ映画の中に入ってもなんなく生き残りそうである。というか普通に生き残る。頼もしさの上限突破。だとしてもゾンビツアーだけは遠慮したいところだが。
「マルコさんなら本当に守ってくれそうね。あーあ、名前を呼んだらすぐに異世界から飛んでこれたらいいのに。この世界がいつゾンビ映画のようになっても安心だもの」
ちゃんと自分の世界に戻れたマルコさんを想像しながらそう言えば、どうしてか少しチクリと痛む心。理由のわからないそれを酒と共に飲み干して奥底に沈ませた。
なんでもないように装って、「マルコさんってば最強の武器だわ」だなんておどければ、彼もまた「人を物扱いするんじゃねェ」なんて笑って小突かれた。
まあ、もしそんなバイオハザードな世界になってしまったら、マルコさんに助けを乞うよりも先に車で籠城しながら練炭でもたく自信があるが。
そこまで考えて、ふと思いつく。例えばマルコさんの世界に知性のないゾンビが現れたら、この人はどうするのだろう。そんなくだらない妄想はしかし、どうにも気になって、その好奇心のまま口を開いた。
「ねえ、マルコさんの世界でもあんなゾンビ映画のようになっちゃったらどうする?」
「……不思議なことを考えるねィ……どうするもなにもなァ……」
目を見開かせたあと、なにやら微笑ましげに口角が弛まる。顎に手をあてて、しばし唸ったあと。「まァ、」と言葉を発した。
「たとえばお前の世界から一匹、あのゾンビがこっちの世界に来たとして、一般人に伝染していったとして……海軍大将どもに一掃されるだけだろうな。うちの末っ子も辺り一帯焼き尽くすくれェのことは簡単にできる。近寄らずに殺す方法なんざいくらでもあるよい」
──── それこそ、おれは空を飛べるんだからな
なんて、想像よりももっと怖い実情を突きつけてきた。たとえ走るゾンビだったとしても、いくらでも火だの氷だのレーザーだのを出せる人間がいるんじゃゾンビも堪ったものじゃないな。ゾンビに翼が生えたとしても勝てなさそうである。
いわば銃弾が無限に詰められた銃のような。少しばかり狡いとすら思ってしまった。怖いものなしじゃないか。
「おれたちがそう簡単に殺られるなんざありえねェよい」
「お父様は世界一偉大な海の男ですものね」
そう告げるとマルコさんは一瞬きょとん、とした顔になったものの、次の瞬間にはもう得意げな顔で鼻を鳴らして見せた。
──── ちなみに余談だが、マルコさんの世界にうっかり迷い込んでしまったのが
……アレ。ど、どうしよう、マルコさんがこの世界と関わりを持ってしまったがために、そんな恐ろしい感染症がうっかり流行ってしまった、なんてことにならない……よね……?
おもわずそんな恐ろしい想像をしてしまって、はやくマルコさんの世界の医療水準が飛躍的に向上してくれることを祈りながらアルコールでひっそりと慰めたのだった。